市道岬赤岸線・横話

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ここでは、元記事の「市道岬赤岸線【1】」およびその続編の【】の派生的記事をまとめて掲載している。
《 個人にも売ってくれた駄菓子問屋 》
後で述べるくじ屋とは直接の関係はないと思われるが、市道の起点からすぐ左側へ入っていく地区道沿いに駄菓子屋向けの問屋があった。
現在は看板の痕跡だけが遺っている


問屋は基本的に一般客には販売しないものなのだが、このお店は数がまとまれば個人相手でも売ってくれた。兄貴に教えられて一度だけ一緒に買いに来た記憶がある。
兄貴が何処から情報を仕入れたのかは分からない

駄菓子屋に行ってくじを引き、はずれや当たりの景品をもらうのが普通の買い方なのだが、問屋では駄菓子屋向け商品を卸すので一式セットも売られていた。即ち沢山のはずれ菓子と当たりの景品、そしてくじが一つのセットになっていて、意外に値段も安かった。お店の方の話によれば、子供会などの集まりで買って行かれるという。
セットを買えばすぐ「くじ屋さん」の真似事ができる訳で、もの凄く欲しかった記憶がある。
一人で全部食べきれないので買わなかったが^^;

割と若い方が切り盛りしていらして、勘違いがなければ宇部市に駄菓子を専門的に卸している最後の問屋だと聞いた記憶がある。「うちがなくなれば市内の駄菓子屋もなくなるよ」と言われていたが、遺憾ながらそれは現実のものとなってしまった。
《 中学生のときよく通った「くじ屋」 》
小学時代から通い詰めていたくじ屋が市道恩田八王子線沿いにあったのだが、確か小学校を卒業する頃に店を畳んでしまった。しかしその時までにもう1軒のくじ屋を見つけていた。


直接カメラを向けることは憚られたので避けたが、上の写真で左側に車が停まっているシャッターの降りた平屋だったと思う。

この店は小学生時代に通っていた恩田の店よりは大きく、もう少し若い方が店番をなさっていた。宇部岬駅からの通りにも面しているせいか、中学生や高校生の客が結構あった。恐らく兄貴も登下校で見つけたのだろう。
くじ屋なだけにくじがメインだったが、夏場になると花火が沢山並んだ。中学1年生のときは小遣いを少しずつ貯めては花火を買い集め、家の近くで花火大会のようなことをやった記憶がある。
また、当時「好ましくない花火玩具」の筆頭として挙げられていた笛ロケットや爆竹も売られていた。学校では夜遅く遊ぶと騒音が迷惑になるので遊んではいけないと指導していたが、お店の手前もあったのか「買ってはいけない」とは言われなかった。爆竹は中国からの輸入品で、200発くらい入って120円くらいだった。中学2年生のとき悪い友達と海へ爆竹遊びに行ったこともある。

当時の日記には確か書いていたと思うが、自分は真っ当なくじ引きの客ながら、ある行為をやったために「出入り禁止」を宣告されかけたことがあった。別に万引きとかいんちきをやったというのではない。ある駄菓子に関して当たりを見分ける法則に気づいて実行してしまったからだ。

具体的な商品名を出すのは避けるが、ガムやチョコレートで開封すると箱の内側に「当たり」とか金券が印刷されているタイプの菓子があった。当たりを引きたいのはどの時代の子どもも同じだが、当時から私たちの間で都市伝説的に言われていたのは「当たりと外れの箱は印刷する機械が違うから必ず何処かに区別できる違いがある」というものだった。

そこで自分はあるくじ付きの菓子を何個かまとめて買い、持ち帰って家で食べながらいくつか含まれていた当たりと外れの箱の印刷面や色、位置関係を細かく分析した。そして”当たりだけにあって外れにはない違い”を見つけ出した。それは今から思えば結構稚拙で、注意深く観察すれば誰でも見分けられる違いだった。
自分はそれを頭に入れ、次にお店に行ったとき数多く積まれていた菓子の箱から素早く”条件に合致する”いくつかを抜き出しお金を払った。そして家には持ち帰らず、お店の人の目の前で開封してみせた。そのすべてが一つの例外もなく当たりだったのだ。

店の人は怒りはしなかった。インチキをした訳ではないからだ。恐らくどうして当たりばかり見分けられるのか分からなかっただろう。ただ、一言こう言われた。
もう…そういうプロなことされるとうちも困ります。
やめてもらえませんか?
まったく…今となっては何という狡猾で子どもらしくもないガキんちょだったのだろうと思う次第だ。確かに犯罪ではなかろうが、そんなことをやったら後に残るのは外れクジばかり…そんなくじなど売れなくなってしまう。店の人が困るのは明らかだ。
来てはいけませんとは言われなかったものの、本当に出入り禁止になったら駄菓子を買う店がなくなって困るのは自分だ。それ位は分かる子どもだったので、その店でやったのは一度きりだった。

ちなみにこれは菓子の印刷技術が稚拙だった昔の話である。実は現在もまったく同じくじ付き菓子が(若干の値上げと共に)売られている。しかし箱に当たりと外れの印刷を行う当時と同じタイプでありながら、パッケージを観察しても違いはまったく分からない。
実際十数年前に当時と同じ分析の元に「選び買い」をやってみたものの当たる確率は有意に上昇しなかった

現在では駄菓子を売る側ではないにしても、辛うじて生き延びる古き良きくじ屋を応援する立場である。それ故に売り主の気持ちも伝えておくと、くじ付きであるないにかかわらず、駄菓子を買うときは「選り好み」せずランダムにパッと選んで買って欲しい。
それは「法則を見抜かれ当たりだけをゴッソリ持って行かれるかも知れない」という現在ではまずあり得ない理由からではなく、純粋にガサゴソと選り好みすると菓子が傷むからである。

陳列されている駄菓子は、お店の人にお金を渡すまではお店の財産だ。いくら包装されていようが、他の客が触り回した形跡が明白な菓子は、誰だって買いたくないだろう。現在ではいくらじっくり観察して選り好みしても当たる確率はまったく変わらないのだから、純粋な「くじ」のワクワクする世界を愉しむようにしよう。
《 中学生のときよく菓子を買いに来たお店 》
写真ですぐ判別するので敢えて名前は出さないがこのお店である。


実は私がどういう経緯でこのお店を知って菓子を買いに来るようになったか分からない。
家から近くてお菓子を扱っている個人商店なら他にもあるし、中学生時代には既に則貞の赤岸に丸信恩田店が開店していた。最近尋ねたところうちの親もこのお店を知っていて、何度か買いものしたことがあると答えた。

恐らく考えられるのは、当時自分が気に入っていて頻繁に買い食いしていたお菓子がこの店には常備されていたからではないかと思う。今でこそ個人商店にあるものは大手スーパーで必ず手に入ってしまう時代だが、当時は仕入れ先の関係からか、ある個人商店で買えるのに他の店やスーパーでは売られていない菓子などがあった。その意味では個人商店とスーパーの棲み分けが巧くいっていたようだ。

それから間違いなく心当たりがある要素として、お店の方の応対もあったと思う。
お店はうちの母親と同じくらいの年齢の方が切り盛りなさっていた。母親に年齢が近いということで、自分が同じ菓子ばかり大量に買い食いしていることを指摘されるのでは…という身構えた気持ちがあったようだ。当時は他人の子どもでも、大人が見て気になる行動や言動はそれとなく言及する世相があった。
実際幼稚園の頃からうんざりするほど多くの大人に甘い菓子の買い食いを非難されてきた

確かに私はある特定の菓子を買いに頻繁に来店し、間違いなく「覚えられていた客」だった。しかしそれだけのことで私は全く普通の客に過ぎなかった。おまけをもらうなど特に可愛がってもらったとかよく話をしたという記憶はない代わりに、同じ菓子ばかり食べ過ぎることに関して忠告されることもなかった。

当時の自分としては干渉されないことだけで充分に快かった。中学生になったばかりの時期でもあり、子ども扱いされたくないという当時の自分の気持ちに沿ってくれた応対に心地よさを感じていたのだろう。

嬉しいことにこのお店は現在も営業している。写真を撮った日は日曜日でシャッターが降りていたが、別の日にこの市道を通ったとき開いているのを見た。
自転車を停めて買い物に立ち寄る勇気がでなかったsweat

今もしお店に入ってもまず恩田に住んでいた頃の自分を思い出しては頂けないだろうが…
それ以前にあれほど熱心に買いまくっていたのに…どんな菓子だったのか覚えていない…^^;
《 第2宇部ボウル 》
現地撮影日:2012/6/1
記事編集日:2014/6/21
情報この記事は現在の草江1に存在していた第2宇部ボウルについて記述しています。
同じ建物に併設された宇部アイス・スタジアムについては こちら を参照してください。

神原町草江線を横切り、この市道が狭くなって四輪が通行不能になる場所の先にかなり古びた倉庫らしき建物の背面が見える。かつて見えていた。[3]


市道の左側に位置していて、壁面はスレートを貼り付けたタイプの倉庫だ。現在でもこの種の倉庫はかなり残存しているものの、老朽化に伴う更新で少なくなってきている。
これは現在も営業しているスーパーアルク恩田店の建物および倉庫である。

アルク恩田店で買い物する人は少なくないし、買い物客の殆どがそれなりに新しいスーパーだと思っているだろう。表から見ると殆ど分からないだけで、実は店舗として使われている建屋はかなり古い。建てられたのは昭和40年代と思われる。

倉庫は店舗建屋に隣接している。そして背面から店舗建屋を観るとその古さとスーパーらしからぬ屋根の形状に気がつく。


市内在住者でもそろそろ知る人が少なくなってきているが、
かつてこの建物はボウリング場だった。
言われてみれば屋根の形状からしてそれらしき建物に見えてくるだろう。
上部にあるガラス窓は店内からは見えない


より正確に言えば、ここはかつて西日本一を誇るアミューズメントスペースだった。
ボウリング場の名称は「第2宇部ボウル」で、公式戦にも対応可能な40レーンを有していた。何よりも特筆すべきことは、スケートリンクが併設されていたことだ。

私たちが恩田へ越して来た当時はいわゆる「第一次ボウリングブーム」で、市内近辺だけで少なくとも6ヶ所のボウリング場があり、いずれも大変に繁盛していた。第2宇部ボウルが造られたのが正確にいつなのかは分からないが、名称の付け方からかつて旧法務局の真向かいにあった第1宇部ボウルよりは後と思われる。

野球やソフトを楽しむには休日を割いて道具や人数を集めなければならないが、ボウリングは専用の靴やボールが備わっているため平日でも会社から帰って手軽に楽しめた。この手軽さも後押しして爆発的ブームとなったのは周知の通りだ。

現在でこそボウリングは老若男女楽しめる健康的なスポーツとして認識されているが、当時子どもだった私たちの目から見れば必ずしもそうではなかった。
会社が終わった夕方から夜にかけて楽しむ室内遊戯という形態から、第一次ブーム初期ではスポーツではなく大人の娯楽と考えられていた。友だちの間でボウリングの話題が出ることはまずなかったし、そういう場所で遊ぶのは良くない習慣だとみなす風潮があった。夜に遊び場を求めて徘徊する子どもたちの溜まり場になっているという声が出始めた頃でもあり、風紀の悪さを懸念する保護者は多かった。実際、学校の指導としても小学生は夜10時以降のボウリングはたとえ保護者同伴でも明確に禁止されていた。
誰か信じてくれるだろうか…今だったら行政による個人生活への干渉だと批判されるだろう

私が親に連れられて第2宇部ボウルに行っていたのは常に夕方以降だったからか、自分と同年代の子どもの姿を殆ど見かけなかった。そもそも当時はどのボウリング場も子ども向け球が充分には整備されていなかった。大人が投げる10〜16ポンドの球は真っ黒で色の付いた★マークで重さのランクを見分けていた。他方、子ども向けの9ポンド以下の球は濃いピンク色だった。

自動販売機でシューズ券を買い、フロントで靴のサイズを申告すると担当者がラックから靴を持ってきて渡し、プレーするレーン番号を告げられた。現在と大きく異なる点は、倒れたピンの表示を確認して自分でスコアを付けなければならないことだった。料金は貸シューズが200円、1ゲームが300円程度だったが、お盆や正月は来客が増えるので特別料金が設定された。1ゲーム450円位はしていたと思う。これは当時何処のボウリング場でも同様で、強気の営業だったと言える。

第一次ブームが下火になるにつれて次第に飽きられ、ボウリング人口は減少していった。これに伴い採算に苦しむボウリングが次々と閉鎖され、建物はそのままで内部を改装して店舗に転用される事例が目立つようになった。[4]
当時の設備のまま現在も営業しているのは昭和町にあるパークレーン宇部だけ
この流れで第2宇部ボウルもスーパー丸信恩田店に生まれ変わった。

敷地の端には樹木が植わっていたのを伐ったような痕跡があった。
これはかつて敷地の周囲に目隠しとして植えられていたイブキである。一部は現在も残っている。


市道側に面した建物は納品場兼倉庫として使われている。この扉は使われていないかも知れない。


壁面にアルクの納品場という看板が見える。ボウリング場時代にはこの建屋に行くことはなかったから、当時は何に使われていたかは不明である。


残念ながら第2宇部ボウル時代の写真は手元に存在しない。なお、アルク恩田店の前身である丸信恩田店についての記述は該当カテゴリか国道記事を作成した折に触れることにする。
《 赤岸について 》
記事公開日:2014/4/5
赤岸(あかぎし)という小字は市内に複数箇所存在する。このような例は特に珍しいものではなく、例えば小羽山のように殆どニュータウンのイメージとして確立していながら、小字レベルではかなり多くの場所で見受けられるものもある。
赤岸は知名度のある地名ではないので、市内のどこの赤岸が一番有名かを断定することができない。本路線の終点付近の赤岸の他には、中山浄水場のある吉ヶ迫に隣接して赤岸という小字が存在する。この他にも小字絵図で赤岸が複数箇所確認されている。以下、本項目は大字沖宇部に存在する字赤岸についての記述である。

公の機関が設置した赤岸の明記された表示をもって代表格とするなら国道190号のアルク恩田店前にある押しボタン式信号機に取り付けられた地名表記板によるものと言えるだろう。


この地名表記板がいつ取り付けられたか判然としないもののこの数年の間と思われる。本編でも述べているように、知名度が殆どない小字が再登場する数少ない事例である。小字が地名表記板に登場する例は他にもいくつか知られる。[1]赤岸という表記を用いたのは、この信号機が設置された場所が恩田と則貞の境に近く、小字を表記するのがもっともその場所を反映していると考えられたからか、地元の意向があったからだろう。

赤岸という地名の由来は分からない。恐らく他の「あか」と読まれるべき音を含む地名(赤崎、垢田など)と同様、赤土などの土質によるものか、水気の多い地という表現だろうか。この水に関する表現とは仏に手向ける水をさす「閼伽(あか)」に由来する。[2]
出典および編集追記:

1. 国道190号の丸河内池手前のT字路の信号機には宇部市若山という表示板が存在する。

2.「デジタル大辞泉|閼伽」による。船乗りの言葉で船への浸水をアカと呼ぶことがあるのも同義。ラテン語由来のaquaとの関連性が指摘されている。

3. 老朽化のため、アルク恩田店全面改装の過程で一連の建物は2014年の始めにすべて取り壊された。2014年6月現在でアルク恩田店は休店しており8月28日にリニューアルオープンしている。

4. 鵜ノ島にあったフジカラーの建物、藤山交差点角のナフコ、清水川の南にある電器店DION、松山通りのマンション跡地がかつてボウリング場があった場所として知られる。

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