桜ヶ谷地区道(仮称)

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記事作成日:2015/10/17
最終編集日:2021/5/15
桜ヶ谷地区道とは、市道西山線より分岐する里道に対する暫定的呼称である。
写真は市道からの分岐点。


市道を離れてから800m程度は物理的に四輪でも通行可能な舗装路となっている。ただしこの道は四輪はもちろん自転車や徒歩も含めて他のどの道にも抜けられない。[1]末端部はこの道を利用する民家なので、ある場所から先は私道となっている可能性がある。

この道は遙か昔から人々の暮らしがあった桜ヶ谷地区を通っている。時系列レポートで述べているように、道中には官民境界を記した目的と思われる古い花崗岩の石柱や素掘りの井戸跡などがみられる。地理院地図では元眞寺や真締川に降りる道が記載されているが、詳しくは検証していない。
初めて地区道を辿ったときの時系列レポート。全2巻(予定)
なお、桜ヶ谷地区道という呼称は確認されたものではないが便宜上そのまま載せている。
派生記事: 桜ヶ谷地区道【1】
《 その他 》
市道西山線より分岐するこの地区道に関して平成28年度の路線価は9,430円となっている。[6]路線価は市道から進攻したとき沢地を大きく右へ巻いてカーブする手前の民家に至る地点までとなっている。それより先に2軒の民家があるが、路線価が与えられていないためこの経路は私道であるかも知れない。(2017/3/20)
《 桜ヶ谷について 》
桜ヶ谷(さくらがたに)とは大字川上に存在する小字である。小字絵図では上桜ヶ谷、下桜ヶ谷として記載されている。[2]住居表示改定の地区外なので現在も登記簿などでは字桜ヶ谷として用いられているだろう。

場所は概ね真締川を上流に辿り、土田橋より先の最初に現れる西側の沢地である。沢地に対して西側が西山、東側が一山(いっさん)となる。以下は、桜ヶ谷の近辺を示す地図である。
概ねこの辺りであるという参考情報でありポイントされた場所自体には何らの特異性も意図されていない


宇部という地名が初めて現れることで知られる古文書「持世寺文書」には川上、椙原(すぎはら)、ハミ[3]、荒野と並んでサクラカ谷という地名が見えている。これらは建武二年(1335年)に厚東武実による持世寺への寄進地一覧とされている。[4]また、「地名明細書」では川上村の西山小村に桜ガ谷という小名で収録されている。

桜ヶ谷という地名の由来は不明だが、一般論としてこの漢字および読みを含む地名は樹木のサクラと言うよりは「小さな蔵屋敷」や「狭い岩倉」に依ることが多い。
【 豪農・藤本大八 】
持世寺文書に現れることからも推察されるように、大変古くから人々の生活による関わりがあった地とされる。桜ヶ谷付近は土地を開墾し著名な豪農として知られる藤本大八の住んでいた地であった。周辺には当時から継承されてきた畑の畝の跡が確認され、お寺の土塀や藤本一族の墓も遺っているとされる。[4]墓はひんがん寺跡の墓地に確認されているが、土塀などの遺構は未確認である。

大八自身は稲束の上に遠慮無く馬を引き上げさせるほどの米を作り、小屋で芝居を演じていたとき観客の舞台が暗いという声で稲わらを積んだとしゃくに火を着けて明かりを採ったという史話も伝えられる繁栄ぶりだった。その放蕩振りからか家が傾き、その後公家になることを目指して妻子を残して京都へ上ったとされる。このため藤本一族の墓の中に大八の名前はない。

市内の地下の人で藤本や藤重など姓に「藤」を含む人々は、遙か昔まで遡れば藤本大八と何らかの繋がりを持つという仮説がある。藤本大八自身は藤原家の末裔と思われ、藤原姓を名乗ることを禁じられたために藤本となったという。常盤池の築堤により安定した米作りが可能となってから現在の梶返、恩田、草江といった海辺の方まで進出したと考えられている。

記事制作時における現時点では殆どの田畑が藪に包まれた状態となっており、僅かに田畑であったらしい地勢を窺えるのみである。[5]には藤本一族の墓とされる写真が掲載されているが現地はまだ確認していない。
出典および編集追記:

1.「2015/10/14のタイムライン

2. 大字川上の西山付近の小字絵図による。なお、小字絵図の著作権問題について確認を要するので記事埋め込みではなくリンク方式で掲載している。

3. 小字自体は現存しているが、現在では一般には杉原と漢字表記される。ハミは後年のどの小字などに相当するのかまだ調べていない。

4.「歴史散策かわかみ」p.79

5.「宇部ふるさと歴史散歩」p.114〜115,「宇部の散歩道」p.81

6.「うべ情報マップ|平成28年度路線価図情報」による。
《 近年の変化 》
・2021年2月に現地を再訪し品位の劣る写真の再撮影を行った。この過程で、市道分岐より入った区間の里道幅が拡げられて沢地だった場所が地上げされている変化を見つけた。


また、昔からある道に行き止まりは存在しないという仮定から、民家に向かう分岐点よりそれぞれ先まで進攻して撮影している。私道の可能性も捨てきれないので写真の掲載は省略する。なお、時系列記事に掲載した写真のうち変化が起きていない場所は品位の良い写真に置換しているので、記事中に載せている写真のうち既に削除済みのものがある。

・2020年1月の始めに小羽山校区ものしり博士づくり計画に先立ち校区内の未だ到達できていない場所を攻略する目的で下調べし、字西山の下にひんがん寺跡を見つけた。参考文献の写真で紹介されている通りの状態で、寺跡地に造られたと思われる2箇所の墓地に藤本姓の墓石も確認された。ただしひんがん寺跡へ至る道はこの総括記事で述べている道とは異なる。
墓地の外側は充分には観察していない

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