神原交差点

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記事作成日:2016/9/18
神原(かみはら)交差点は国道490号の参宮通りに対して県道琴芝際波線、市道神原町草江線のまみえる交通の要所である。
写真は交差点の映像。
位置図を示す。


道路管理面においては交差点を南北に通過する国道490号(参宮通り)のみで、西側には県道琴芝際波線、東側には市道神原町草江線が本交差点を起点として伸びる経路となっている。ただし都市計画道路上の概念では東西の路線は鍋倉草江線と呼ばれている。路線名をすべて表記すると煩雑なので、以下の項目で参宮通り・県道・市道と表記した場合はそれぞれ上記の道路を指すものとする。
《 歴史 》
神原交差点はこの記事を書く現在ではメインとなる参宮通りの拡幅工事を後に控えている。県道・市道に大きな変化は起こることは考えられないので、最終的には6車線になる参宮通りを元に書いている。

【 最初期 】
この交差点の前身に相当する十字路がいつ発生したかは定かではない。大正期制作の宇部市新地図にも現在の場所に十字路として描かれている。ただし参宮通りを含めて東西の道も細めに記載されており、田の畦を利用する数ある通路のうちの一つに過ぎなかったことが窺える。
昭和12年発行の宇部市街図では現在の神原交差点の位置が確定されている。この時点で交差点に面して存在していたものは交差点に対して南側の東西に神原小学校、神原公園、北側の西角に県立宇部高等女学校があった。東角は民家を示す色で着色されているものの主立った建物はなかったようである。

字名は上記の順で最初期として今堀、金重、安用寺、浜田となっている。その後の小字絵図では同じく上記順でそれぞれ今堀、浜、安養寺、浜である。最初の住居表示改訂で今堀は琴芝町二丁目、浜の南側は神原町一丁目となった。この時点でまだ東西を貫く産業道路と神原町草江線は同じ幅ではなかったようで、字名境界が東西で捻れている。東西の道に対して北側の安養寺側が大字中宇部、浜側が大字沖宇部であった。これより南は町名となっているため東西の通りで仕切ったと言えるが、南北は参宮通りと一致するため道路建設で大字境界を調整したようである。

参宮通りは神原交差点の前後でほぼフラットだが、県道と市道では同一平面上になく県道の方が20cm程度高い。この状態はかつて県道を走るとき顕著だった。


写真は参宮通りから撮影している。交差点内部で市道側が低くなっていることが分かる。

このため県道から神原交差点を直進して市道へ向かうとき、スピードが出ていると交差点へ入る際に段差で車に大きな衝撃がかかっていた。県道はコンクリート舗装で柔軟性に欠けているため、削ることができずまた参宮通りの高さも定まっていて段差を埋めることができなかった。
この場所は渡内川の暗渠化が進められた数年前まで放置され、ドライバーに大変嫌がられていた場所でもある。
結局、渡内川の暗渠化の折りに交差点の中心から県道側を細粒で擦り付けることで幾分目立たなくしている。渡内川の交差部自体は昔のままで上を削ったわけではない。参宮通り6車線化の折には交差点の前後から擦り付けることで更に段差部分がなだらかになる予定である。
【 4車線時代 】
この記事を制作する2016年現時点では参宮通りはまだ4車線である。後述するように将来的な6車線化が見込まれ2017年入り現在なお工事が進められている。

参宮通りは平成期に入って西梶返から沼までが整備されている。神原交差点付近の整備はそれより早かった。このときまでに右折レーンは整備されていたし専用の信号機もあったと思う。



撮影時間はきわめて短いが改良前の交差点を撮影した動画が見つかった。

[再生時間: 8秒]


渡内川との交差部が奇妙なことになっていることに気づく。参宮通りの北側はコンクリートの欄干があるのに南側は取り除かれ、蓋を被せてスペース確保した上でコーナーを隅切りしている。
初期には両側に欄干があったのは疑いないが、この改変がいつ行われたのかは分からない。後述する自転車通学を始める高校生の頃からこのようになっていたと思う。
【 今後の変化 】
《 個人的関わり 》
幼少期長く暮らした恩田からは車で移動するときの主要中継点であり、高校時代は自転車通学の経路途中でもあったために関わりは長い。以下、時期を分割して記述している。個人的な覚え書き用途での記録なので重要な項目はない。読み飛ばして頂いて構わない。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

出典および編集追記:

1.「FB|神原交差点(2016/7/4)(要ログイン)

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