神原(かみはら)交差点は国道490号の参宮通りに対して県道琴芝際波線、市道神原町草江線のまみえる交通の要所である。
写真は交差点の映像。
位置図を示す。
道路管理面においては交差点を南北に通過する国道490号(参宮通り)のみで、西側には
県道琴芝際波線、東側には
市道神原町草江線が本交差点を起点として伸びる経路となっている。ただし都市計画道路上の概念では東西の路線は鍋倉草江線と呼ばれている。路線名をすべて表記すると煩雑なので、以下の項目で参宮通り・県道・市道と表記した場合はそれぞれ上記の道路を指すものとする。
《 歴史 》
神原交差点はこの記事を書く現在ではメインとなる参宮通りの拡幅工事を後に控えている。県道・市道に大きな変化は起こることは考えられないので、最終的には6車線になる参宮通りを元に書いている。
【 最初期 】
この交差点の前身に相当する十字路がいつ発生したかは定かではない。大正期制作の宇部市新地図にも現在の場所に十字路として描かれている。ただし参宮通りを含めて東西の道も細めに記載されており、田の畦を利用する数ある通路のうちの一つに過ぎなかったことが窺える。
昭和12年発行の宇部市街図では現在の神原交差点の位置が確定されている。この時点で交差点に面して存在していたものは交差点に対して南側の東西に神原小学校、神原公園、北側の西角に県立宇部高等女学校があった。東角は民家を示す色で着色されているものの主立った建物はなかったようである。
字名は上記の順で最初期として今堀、金重、安用寺、浜田となっている。その後の小字絵図では同じく上記順でそれぞれ今堀、浜、安養寺、浜である。最初の住居表示改訂で今堀は琴芝町二丁目、浜の南側は神原町一丁目となった。この時点でまだ東西を貫く産業道路と神原町草江線は同じ幅ではなかったようで、字名境界が東西で捻れている。東西の道に対して北側の安養寺側が大字中宇部、浜側が大字沖宇部であった。これより南は町名となっているため東西の通りで仕切ったと言えるが、南北は参宮通りと一致するため道路建設で大字境界を調整したようである。
参宮通りは神原交差点の前後でほぼフラットだが、県道と市道では同一平面上になく県道の方が20cm程度高い。この状態はかつて県道を走るとき顕著だった。
写真は参宮通りから撮影している。交差点内部で市道側が低くなっていることが分かる。
このため県道から神原交差点を直進して市道へ向かうとき、スピードが出ていると交差点へ入る際に段差で車に大きな衝撃がかかっていた。県道はコンクリート舗装で柔軟性に欠けているため、削ることができずまた参宮通りの高さも定まっていて段差を埋めることができなかった。
この場所は渡内川の暗渠化が進められた数年前まで放置され、ドライバーに大変嫌がられていた場所でもある。
結局、渡内川の暗渠化の折りに交差点の中心から県道側を細粒で擦り付けることで幾分目立たなくしている。渡内川の交差部自体は昔のままで上を削ったわけではない。参宮通り6車線化の折には交差点の前後から擦り付けることで更に段差部分がなだらかになる予定である。
【 4車線時代 】
この記事を制作する2016年現時点では参宮通りはまだ4車線である。後述するように将来的な6車線化が見込まれ2017年入り現在なお工事が進められている。
参宮通りは平成期に入って西梶返から沼までが整備されている。神原交差点付近の整備はそれより早かった。このときまでに右折レーンは整備されていたし専用の信号機もあったと思う。
撮影時間はきわめて短いが改良前の交差点を撮影した動画が見つかった。
[
再生時間: 8秒]
渡内川との交差部が奇妙なことになっていることに気づく。参宮通りの北側はコンクリートの欄干があるのに南側は取り除かれ、蓋を被せてスペース確保した上でコーナーを隅切りしている。
初期には両側に欄干があったのは疑いないが、この改変がいつ行われたのかは分からない。後述する自転車通学を始める高校生の頃からこのようになっていたと思う。
【 今後の変化 】
《 個人的関わり 》
幼少期長く暮らした恩田からは車で移動するときの主要中継点であり、高校時代は自転車通学の経路途中でもあったために関わりは長い。以下、時期を分割して記述している。個人的な覚え書き用途での記録なので重要な項目はない。読み飛ばして頂いて構わない。
| 以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。 |
【 学童期 】
・小学生時代までは専ら親父の運転する車の助手席からの景色のみとなる。恩田に住んでいたので、通行方向は恩田から交差点を直進して小野田方面へ向かうか、右折して琴崎八幡宮方面へ向かうことが殆どだった。交差点の様子は覚えていないが、当時は神原小学校の校舎や倉庫が市道から近いところに見えていた。特によく覚えているのは、交差点を過ぎて現在の県道起点、渡内川を過ぎた先のすぐ左側に他では見られないタイプの碍子を備えた家庭用向け66kVの配電線柱が建っていたことである。この碍子は茶碗のような形状で焦げ茶色をしていた。何故この場所だけそうなっていたのか分からなかったが、幼少期から電柱関連に興味を示していた故に観察していたようだ。
後から思えば、これは耐張碍子である。恐らく交差点で参宮通りを横切る部分は標準よりもスパンが長いため、架線を保持するために通常よりも強度の高い碍子を配置したからと思われる。
・自転車で交差点付近を通ったことは(校区外へ自転車で出ることは禁止されていたので)一度もない。絵画の屋外授業で神原公園へスケッチに行ったことはあるかも知れないが記憶が曖昧である。
【 学生時代まで 】
・中学生時代に自転車で交差点を通った記憶がまったくない。この方面へ出てくること自体稀で、市街部へ向かうときにはこの道ではなく市道恩田則貞線などを通っていた。
・高校時代は通常の3年間と補習科の1年間ほど自転車で通ったため、日々交差点を通過している。当然ながら恩田方面と小串通り方面との市道+県道の往来である。県道の自歩道部がインターロッキングに変わった程度で、当時から自歩道は現行とそれほど変わっていない。自転車での通行方法は、自歩道内を通りさえすれば左右どちらを通っても良かった。しかし小串通りを過ぎてからは現在の市道島2号線を通っていたので、信号の変わり目を見て行きも帰りも右側の自歩道を通るようにしていた。
・交差点を渡るときのことで覚えているものは少ない。左側の自歩道を渡っていたとき、歩道と車道の段差部で自転車に衝撃がかかりチェーンが外れたことがあった。朝の通勤通学時間帯は既に交差点の交通量が多くなっていたため、誘導員(とは言っても正規の交通指導員)が立哨していた。横断歩道を渡り終えて外れたチェーンを直しているとき、心配そうに見てくれていたことがある。
・高校2年以降に新しい自転車を買ってもらってからはある程度速度が出るようになったこともあり、車道を走ることがたまにあった。学校からの帰りで交差点に向かって車道を走っていたとき、パトカーからマイクで「そこの高校生、車道に上がりなさい!」と警告を受けたことがあった。随所で述べているが、現在ではまったく正規の交通ルールでありながら当時は学生の自転車は車道を走る車の邪魔な存在でしかなく、公安も学校も歩道を走るよう指導していた。
【 社会人初期 】
・自分で車を運転するようになってからは、仕事での関わりが増えた。最初期のものは就職前の巡回家庭教師時代である。学生時代と同様に市道+県道を中継して交差点を直進する方向が多かった。帰路で県道から市道へ向かうとき、交差点に入る直前の渡内川を渡った先で異常な段差があることに気づいたのもこの頃である。
【 野山在住期 】
【 現在 】
・アジトと市役所の往復が多くなってきたため、交差点の通過は再び車よりも自転車の方が多くなってきた。生活拠点を移す頃から参宮通りの拡幅工事が始まっており、神原踏切から徐々に北上する方向へ工事が進められた。参宮通りの歩道は西梶返側は充分な広さがあるのに東琴芝側は自転車同士の離合も困難な狭い歩道しかなかった。拡幅工事では参宮通りに接する区間の渡内川をすべて暗渠化し、その上に1車線と幅広の自歩道を確保するものだった。
・この工事が交差点に及んだとき、周囲はバリケードや規制標識、仮設歩道などで大変に分かりづらくなっていた。ガードレールを撤去した後に仮設のセフティコーンを留めるためにアスファルト路面に鉄筋を打ち込み、そこへコーンを留める養生がされていた。狭い歩道を走行しているうちに飛び出た鉄筋にペダルを引っかけ、交差点の横断歩道部へ投げ出されて後遺症の遺る怪我を負ってしまった。鉄筋の養生が悪かったのだが、急いでいたためずだぼろになったズボンのまま携帯をかけて車を出してもらった。鉄筋はその日のうちに撤去され舗装復旧されてしまったため、証拠を押さえることもできなかった。この怪我で2年間くらい長距離を歩くことができなかった。現在は痛みはないが明白に筋肉が引き攣れた状態で、曲げると筋の音がする。
これ以降、自転車通行空間の整備の悪さが原因であるという考えに傾いた。渡内川が失われるのは哀しいことであるが、交通が輻輳して危険な状態が明らかなのに歩道整備の着手が遅きに逸したと考えている。
(
そして2016年の秋に至りながら現地は未だに自転車で満足に通れない状態)
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