参宮道路

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記事作成日:2019/1/15
情報この記事は現在の参宮通りの前身となった道に関する歴史を主に記述しています。
現在の国道490号線に含まれる参宮通りについては こちら を参照してください。

参宮(さんぐう)道路とは、現在の緑橋通りと昔の常盤通りの会合点から始まり、琴崎八幡宮の真下まで伸びる道路に対して与えられた歴史的呼称である。
写真はJR宇部線神原踏切付近にある参宮道路に関する記念碑群。


国道490号の一部となっているこの区間は、現在では専ら参宮通りいう呼称で完全に定着している。その名称は沿線にある店舗やガソリンスタンド名、市営バス路線名など多岐にわたって用いられている。そうでありながら比較的近年の書籍においてすら参宮道路という呼称や記載がかなり多い。正確にいつ頃この区間を「参宮通り」と呼ぶこととなったのかまだ充分に調べられていないが、国道490号への昇格時期と関係があるのではとも思われる。この件については判明次第追記する。

したがって暫定的であるが、この総括記事では参宮道路以前の推察から道路建設に至った背景、後年において国道昇格するまでの間に行われた道路改良工事を時系列で記述する。以下、参宮道路と書いた場合はなべて当該時代のものを指し、現在ある区間や状態を指す場合に限定して参宮通りの呼称を用いる。
《 参宮道路以前の状況 》
後述するように参宮道路は自然発生による踏み付け道由来ではなく、ほぼ完全に人為的に造られた道である。参宮道路誕生以前の道筋については既存の古道よりある程度推察は可能だが、一部は憶測を含んでいる。
【 地勢 】
琴崎八幡宮は、最初期は現在の市保健センター(大字沖宇部字今堀)付近にあり、後に現在の宮地町にある出雲大社へ遷座した。その後にお告げを受けて現在の琴崎へ再度遷されたのは厚東氏が滅び大内氏が台頭してきた時代のことである。言うまでもなく参宮道路建設は元より王子炭鉱の出炭開始から琴崎八幡宮は現在地にあった。

これより真南へ進めば海岸線に対しての最短距離となる。ただし現在の沼交差点の少し北側から海岸まではそれほど起伏の無い地勢であるものの、北側には標高20m近い丹ノ山の丘陵部があり、後述するように参道道路建設においての最難関地となった。
《 参宮道路の建設 》
ここでは、参宮道路の建設計画から竣功までについて既存の関連書籍と、客観資料を元にした推察を記述する。
【 建設の背景 】
前述のように王子炭鉱から海岸まで鉄路を敷き、後年は馬を用いて牽引していたことから、現在の上宇部ふれあいセンター付近から海までの運搬道が存在していたと考えられる。参宮道路はこれを土台に造られたのだが、その背景には往来の不便を理由とした道路整備とは別の理由があった。折しも年代は1924年であり、宇部市が誕生して3年目である。兼ねてから村より市へ昇格したことを記念する事業が念頭に置かれていたが、昭和不況をなお引きずる世相であり企業余力は大きくなかった。そこで市はこの街の繁栄を祈念して琴崎八幡宮まで伸びる道を参宮道路として整備する案を出し、市民に募金を募ったのである。このとき参宮道路は元より更に北方へ延伸する南北道路計画が念頭にあった渡邊祐策翁は、率先して工事資金を寄付している。若干の設計見直しや工事資金の縮小はあったが、こうして市は自費をもって参宮道路の建設に乗り出すこととなった。

南北に位置するこの道の整備が選ばれたのは、宇部の繁栄の土台となった石炭を海へ搬出する経路であったこと、そしてその北側延長上に琴崎八幡宮が位置していたことが極めて大きい。琴崎八幡宮は当時の市民誰もが認める宇部市を護る氏神様であり、厚東氏から福原家、そして後に続く郷土の有志も大切にしてきた。そこへ南北の軸となる道路を整備するという案は間違いなく当時の市民にもあまねく賛同されたことであろう。
琴崎八幡宮、王子炭鉱、そして石炭を搬送する船着き場であった港が一直線上に並んだことが参宮道路の線形を決定付けた。このことは既に当時の有志からも意識されており、宇部時報社の創立者である紀藤閑之介は「沖合を通る船からも琴崎様が見えるよう真っ直ぐな道を造りたい」という考えに、南北道路計画を温めていた渡邊祐策翁も賛同しこの道が生まれたと伝えられる。
【 道路建設 】
参宮道路の建設は、当初計画より3つの工区に分割されていた。[1]

工区該当する区間
第一工区緑橋筋から梶返道まで
第二工区梶返道から大小路までおよび琴崎八幡宮から大小路まで
第三工区琴崎八幡宮より川上廣道まで

この「緑橋筋」とは、現在の市道緑橋芝中線のことである。市道緑橋芝中線の前身となる道は昭和中期頃まで緑橋通りと呼ばれていたことからも明らかで、戦後初期の常盤通りとの交点が整備されたもののおよそ現在の交差点に相当すると言える。しかし「梶返道」と書かれている部分が具体的にどの道のことを指すのか明確ではない。参宮道路建設前から梶返方面へ向かう道と言えば女学校の裏を通り、南北に伸びる楫返通りに接続される東西の道以外にないので、この道のことを梶返道と呼んでいたようである。祈祷台池の堰堤上を通って野中に達するこの道は、琴芝方面より常盤池本土手に至る古道だったと考えられ、参宮道路以前から存在していたらしい。

もう一つの疑義は、第三工区として琴崎八幡宮より北側の川上地区までが画策されていた点である。琴崎八幡宮への参拝道という位置づけでありながら、工区としてはそれより北側も盛り込まれていたこととなる。この川上廣道が具体的にどの道を指すのかは不明だが、紀藤閑之介の屋敷があるすぐ下を通る坂道ではないかと思われる。

現在の参宮通りは西梶返三差路手前付近で若干西側へカーブしている。地図でも屈曲が分かるし現地では6車線となった現在でもはっきり曲がりが視認される。本来直線で造られるべき参宮道路が曲がっている理由は永らく不可解だったが、これは第一工区と第二工区の境目であって別時期に施工されたのではないかという推測により説明できる。もっとも参宮道路の用地を買収するにあたって既存の田畑や建物を避けたとか、切土量を減らすために軽微な変更を加えた可能性もある。同種の推察理由による線形変更は、後年の産業道路における島地区付近にみられる。

先述のように「沖合を通る船からも琴崎様が見えるように直線の道を造る」という意図がありながら、緑橋通りより海側については当初計画の工区に述べられていない。この部分は参宮道路が完成した後も完全には実現されていなかったこととなる。昭和の戦後まで緑橋通りの交点から海側は、参宮道路とは線形が異なる道があるのみで直線路ではない。この理由は定かではないが、当時の技術では馬車などを安泰に通せる縦断勾配の道路建設ができなかったからかも知れない。

緑橋通りの交点は、現在の常盤通りがある東西の砂州から北側へ降りた低い場所であり、現在でも高低差は3〜4メートルある。耕地整理時代に現在の神原交差点付近を地上げしたという記録があるので、もう少し高低差が大きかったと思われる。更に砂州は東西の起伏はおだやかであるのに対し、北側は短い距離でかなり急に落ち込む地勢である。蒸気機関車による津出し道時代は現在の鉄道のように路床を造ってレールを敷いたのではなく、この高低差を埋めるために遠くから少しずつ高くなる桟橋を造ってその上にレールを敷いた筈である。地山の地形をそのままなぞるようにレールを敷いたのでは当時の蒸気機関車では自走して砂州の上へ登るのは不可能である。このため津出し道としての桟橋がなくなった後に道路が造られた折りには、緑橋通り交点より経路を意図的に東へ振り、砂州を若干斜めに登るルートとなっている。当時の馬車なりで坂を自走できる限界の縦断勾配になるようにした結果と思われる。常盤通りに至っては明らかに砂州を斜めに下ってくるような経路であり、現在の松山町一丁目交差点のところに宇部劇場を含めた三角形領域ができてしまった所以であろう。
出典および編集追記:

1.

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