厚東氏伝説馬蹄跡の大岩

露岩インデックスに戻る

記事作成日:2016/12/26
最終編集日:2021/5/8
情報この近くにある市道の反対側のアパートに隣接して存在する大きな岩は厚東氏伝説で知られる岩ではありません。この名前のない大岩については こちら を参照してください。

厚東氏伝説馬蹄跡は、東岐波前田地区の丘陵部にある由来をもった大岩である。
写真は全体像の撮影。


伝説の大岩がある大まかな場所をポイントした地図を示す。


上記の写真で分かるように、周囲の草木が伸びているため大岩の存在は接近しなければ分からない。100m程度離れた前面の市道から眺めると小さな森のように見える。

市道を挟んだ反対側にあるアパートに隣接して大岩の方が目立つためしばしば間違えられる。東岐波在住者でも誤って覚えられているようであり、これについては後述する取り違えの原因を参照。
《 概要 》
周辺に雑木が生えている上に個別の岩の表面にもツタ系の草木が繁茂している。


その奥に3〜4個に割れた大岩が茂みの中に隠れている。
割れた岩の中央からは雑木が伸びている。


数個の大岩のうち市道寄りにある岩の端に僅かな窪みがある。
恐らくこの窪みの部分に関して以下のような伝説がある。


窪みが馬蹄形状に見えることから、以下のような言い伝えがされてきた。
厚東氏が大内氏に攻められたとき、厚東氏の武将は反撃のために霜降城より馬に跨がった…馬が天空を駆けて一跳びにこの大岩へ移り、そのとき馬の蹄が当たって出来た窪みである…
この窪みは2つあると言われる。[1]現地ですぐに確認できた窪みの一つを測定したところ、直径はおよそ10cmであった。


若干抉れているため窪みの中に砂や枯れ葉が溜まっていた。もう一つあるとされる窪みの存在は分からなかった。

馬蹄跡の伝承が言われ始めたのがいつかは分からない。霜降山系のこの岩は脆く風化しやすいのだが、窪みは比較的形状をよく保っている。数百年もすればこの程度の窪みは不明瞭になると考えられるため、伝承の発祥は近世に入ってからのことと思われる。

中央に木が生えているため岩の上への登攀は間違えられやすいもう一つの大岩よりは容易である。


岩の上まで木の枝や葉が垂れかかっているため、粉末状になった葉が溜まりそこに草が生えていた。


岩の表面をズーム撮影。
ピンク色の粒子が目立つ。これは長石で石英よりは柔らかいため侵食されやすい。


大元となる花崗岩は白っぽくて硬い石英、柔らかくてピンク色を帯びた長石、色調に影響する雲母の混成である。硬度が異なる成分が入り交じった岩であるため、粒子の密度や比率によってさまざまな外観や性質を帯びる。特に長石が多いと脆くなり侵食されやすい。ある程度侵食されて粒子化したものが真砂土である。

小さな森の中に大岩があるため、周辺の眺めはあまり利かない。


このような状況であるため、窪みの言い伝え以外にそれほど興味を呼ぶ大岩ではない。誤認されやすいアパートに隣接する無名の岩の方が大きくて目立ち、景観も優れている。かつては馬蹄跡伝説のあるこの岩の方が同じくらい目立っていたのではと推測される。
《 歴史 》
現地にある岩はほぼ同等の大きさ4つの岩で構成されている。4つの岩は田の字状にかなり近接して存在しており、中央に雑木が生えている。しかし[1]にある映像では樹が生えておらず露岩も直接観察できることから、現在のような森状態となったのは近年のことである。

4つの岩の位置関係より、この岩は当初一つの大岩だったものが割れてできたと考えられる。それぞれの岩は相互に数十センチ離れていて木の根の侵入がみられる。


馬蹄伝説が生じた時期までに既に割れていたとしても、遠目には一つの岩に見える程度に近接していた筈である。岩の間隙の広がりは、中央に樹木が生えて根が伸びることにより押しやられたことと岩自体の重心の変化に依るものが大きいだろう。

これは昭和22年10月に米軍航空機により撮影された東岐波地区のモノクロ航空映像から前田地区付近を拡大したキャプチャ画像である。
黄色の矢印で示した場所が馬蹄跡の岩と推察される位置である。
出典:地理院地図|USA R516-1 11


周囲が一面に畑である中、明らかに畑の畝とは異なる形状のものが写り込んでいる。この時点で既にいくつかの岩に割れていたかどうかは詳細画像を入手し解析する必要があるが、周囲に雑木林などはまるで見られないことから露岩の状態で置かれていたことがわかる。

現在は一部が田畑として遺るだけで、馬蹄跡の周辺はほぼ自然に還った荒れ地となっている。郷土資料に記録されるだけで完全に忘れ去られた存在になっているのは、昭和期のように燃料用の薪などを採取しなくなった生活周辺の変化も大きい。
《 取り違えられた原因 》
小さな森の中に隠れた4つの岩よりも前面市道からはアパートに隣接する大岩の方が壮観で目立つため、しばしば間違えられる。大岩に近い地元在住者や東岐波郷土誌研究会の方々からは正しく理解されているが、東岐波地区在住者でもかなり多くの人が誤認している。

現状で厚東氏伝説馬蹄跡の大岩が森状態で隠されており、無名の大岩の方が目立っていることが最大の要因だが、本質的な原因とその他の可能性について検証してみた。
【 里山の荒廃 】
昭和中期のモノクロ航空映像を見ると、両者の大岩が同程度のサイズで写っている。当時は厚東氏伝説馬蹄跡も無名の大岩も同じくらい丘の上で目立つ存在だったと推察される。これらの大岩の知名度を分けたのは、その立地と人々の生活習慣の変化が原因である。

当時は薪の採取が行われていて里山も人の手が加わっていたため、藪状態で放置されることはなかった。時代が下って薪採取がなくなると、以前ほど里山の管理がされず一部の田畑は耕作もされなくなった。この過程で畑地としての利用価値がない大岩の周辺は草木が伸び始めた。

無名の大岩は比較的平坦な丘にあり、民家や畑が近接しているため伸びすぎた草木は管理された。近年に入って隣接してアパートが建設されたことも理由であろう。他方、厚東氏伝説馬蹄跡の大岩は丘の端にあたる傾斜地に位置しており、畑もその手前で切れている。利用価値がないため永らく放置状態が続き周辺の草木が伸びた結果、岩の存在自体が隠されてしまったのだろう。
【 史跡案内図の誤記 】
原因と言うよりも誤認の結果の現れと言えそうだが、史跡案内図に記された位置の誤りが両者の取り違えを引き起こしている可能性もある。

これは東岐波ふれあいセンター前に設置されている史跡案内図である。
縮小だと文字が読めないため原典画像を縮小して掲載している


史跡案内図のリストでは21番に厚東氏伝説馬蹄跡の大岩を紹介している。


マップでは21番が市道の東側に描かれており、これはアパートに隣接して存在する名前のない大岩の位置である。
25番には花園の開墾碑が記されていて、無名の大岩がある道路からの一続きの道である。
ただし丘を北に向かって登り始める場所から分岐する細い道は描かれていない


この史跡案内図は老朽化して文字が読みづらくなったため、2017〜2019年の間に現在の新しいものに更新されている。そして以前の古い版から位置が誤って描かれていたことが判っている。
写真は2017年2月の撮影


このことから地元在住者の間でもかなり早い時期に厚東氏伝説馬蹄跡の大岩と無名の大岩を取り違えてしまった可能性がある。

もっとも取り違えられたことやコラムを誤って配信したことに関して誤りを糾弾するなどの意図はまったくない。コラムでも現在では本家の厚東氏伝説馬蹄跡の大岩よりも無名の大岩の方が明らかに目立った存在なので、名前がなければ何か命名したいと言明している。
《 アクセス 》
市道花園横尾線の西側にある個人の畑および休耕田の先にある。
Google sv が市道を通過しているため市道からの映像が採取されている。

この映像でも小さな森のように映るのみで、大岩があるようには見えない。[1]の文化財マップに収録はされているものの史跡として活かされておらず、市道から現地までは適宜畑の縁を辿って進む以外ない。

市道から馬蹄跡方向へ少し進んだところから真後ろを撮影。
民家とアパートの間に大岩が見えている。


雑木に囲まれた岩の周辺は藪の斜面になっていて接近は非常に困難。
不用意に近づくと灌木の枝に引っかかれる。スニーカー履きと相応な服装、そして慎重な行動と覚悟が要る。


市道自体も幅が狭く、車を停められる場所がない。ただし市道の通行車両は多くないので、短時間なら路肩へ寄せて停めておけば問題は少ないと思われる。
出典および編集追記:

1.「宇部市|校区文化財マップ」(東岐波地区PDFファイル)の28番。
なお、このマップでは馬蹄跡の大岩が正しい位置にポイントされている。
《 個人的関わり 》
前面市道からとても目立つ大岩を詳細に写真を撮影し、サンデーうべのコラムで「東岐波前田の大岩(Vol.8)」として配信したところ、それは名前もないただの岩で伝説の大岩は別の場所にあるという指摘を受けた。このときに具体的な場所は聞かなかったが、昭和中期の航空映像を解析して真の大岩があるらしい場所を推定し、現地踏査を行った。2ヶ月後に誤りを訂正する意味も兼ねて「厚東氏伝説馬蹄跡」を Vol.11 として配信している。両者は100m程度しか離れていないため、現在のところコラムで登場する相互に最も近接している物件である。

2019年1月に現地を再訪し、一通りの写真を撮り直した。

ホームに戻る