真締大橋【2】

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(「真締大橋【1】」の続き)

情報以下の記述部分は、近接する道路や真締川の記事レポートに併合される可能性があります。
《 手作り郷土賞記念碑 》
真締大橋の左岸側、真締川公園の植え込みの中に街作りの景観を賞したプレートが設置されている。
上流側にある親柱のすぐ近くだ。


植え込みの中へ埋め込む形で大理石の台座の上に載っていた。


平成7年7月設置だが、殆ど顧みられていないようでかなり色褪せていた。


真締大橋の架橋が平成5年なので、橋が完成後真締川公園を整備してからの寄贈になるだろうか。
平成初期は従来の中央主導から地域の活性化や自立が唱えられ始めた時期でもある。現代でもこの理念は充分に通じるが、公共の場に設置されるモニュメントに当時の県知事や建設大臣などの名前を遺すの昭和時代までの風習であり、21世紀の現代において受け入れられるかは微妙とも言えるだろう。
《 新川が疎通した頃の川口付近 》
同じ真締川公園の一角に新川が疎通した頃の川口付近を示す標識柱が立っている。


新川が自然河川ではなく人力によって真っ直ぐ掘られた排水路であることは宇部市民ならほぼ誰もが知っている。その当時はこの付近に川口があったということだ。


昔の間占川が現在の新川のように真っ直ぐ流れることができなかったのは、常盤通りを構成する一帯が小高い砂浜であったからとされる。砂浜部分を削って海まで繋げたわけで、ここが昔の川口なら、砂浜の南側末端部であったということもできる。

現在の陸地部分は真締大橋よりも更に数百メートル海側へ伸びている。石炭を掘り出した後に発生したボタを海へ海へと敷き均したためである。この辺りの詳しい事情はいずれ新川関連の記事で触れよう。
《 コンクリート構造物の痕跡 》
真締大橋の下流側河川敷によく分からないコンクリートの堰堤のような残骸が一部遺っている。
普段は水没しているが潮が引くと姿を現す。


このような塩梅で、両岸から堰堤のようなものが伸びている。中央部分は破壊されているようにも見える。


左岸下流側の細いコンクリート通路を進むと護岸の一部が扉となっていて、河川敷へ降りることができる。


河川敷と言っても降りる先は殆ど海だ。
コンクリート階段は波に洗われ酷く侵食されていた。


階段の途中から撮影している。
堰堤のようなものは二層構造のようにも見える。


近くで撮影するには、この危なっかしい護岸下を進む以外なかった。
見るからに滑りそうだが大丈夫…そこまで鈍くさくはない…^^;


近くで現物を観察しても何のヒントも得られなかった。
幅は30cmくらいで縁は相当期間洗われたせいかすっかり丸くなっていた。


ついでながら真締大橋を下から撮影しておいた。
後述する工業用水管は歩道真下の四角い部分だろうか…


堰堤状のものは左岸まで接続されていた。
しかしコンクリート基礎や堰堤にしては不自然に思われたのは、こんな感じで人頭大の石がめり込んでいたことである。


何かの意図をもって丁寧に設置したコンクリート構造物なら、粒度の異なるこんな石を投入しないだろう。強度だけ保持できれば足りるような構造物を拵えた痕跡だろうか。
最初、旧橋に関係ある基礎か何かと推測したが、もしそうなら川を部分的に塞ぐような形で設置はしないものだ。これは押し寄せる波から橋脚などの侵食を護る波消し堰堤の痕跡ではないかと推測される。

もう一つ、悩み始めればきりがないのだが…護岸に厚い鋼板が貼り付けられていた。
護岸の補強ならもう少し広範囲に貼り付けるものだが、この場所だけだ。見るからに古く何のためのものか分からない。
まさか排水管や坑道を塞いだ痕跡なんてことはないよね…


しかしあまりに追及し過ぎると真締大橋の派生記事としても内容がかけ離れてしまうので、いずれ真締川の記事を起こした折りに再度検証する。
派生記事ごと移動するかも知れない
《 宇部興産常盤工業用水 》
真締大橋の下流側の歩道には宇部興産(株)の空気弁蓋が設置されている。
インターロッキングにカットした痕がありその中央に鋳鉄蓋があった。


宇部興産(株)の空気弁である。
真締大橋の下に導水管が格納されていたのだった。


この工業用水道は常盤工業用水系で、ケミカル工場方面への予備的経路として造られている。
インターロッキング上に遺る切断痕から、この導水管の埋設は橋が完成してから後のように思われる。
今後トレースするかどうかは…考え中^^;

(「真締大橋【3】」へ続く)

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