眺橋

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記事作成日:2018/3/8
最終編集日:2018/3/12
眺(ながめ)橋とは、ときわ公園の中央入口より北側にある親水エリアに架かっている小さな橋である。
写真は2018年の改修前に撮影された映像。


橋の中央部分をポイントした地図を示す。


眺橋はコンクリート製で、親柱は橋の名称(漢字表記・平かな表記)・常盤池・竣工年月の4点セットである。コンクリート床板は当時のままで欄干は水色に塗装されている。幅は約4mで物理的には四輪の通行が可能である。
実際に通るのは公園緑地課の軽トラと園内の電気自動車のみ

後述するように現在眺池周辺の改修工事が進行中で、完成後の景観は上記の写真とは異なる可能性がある。
《 成り立ち 》
地図で観ると眺橋は常盤池の小さな入り江だった場所に架かっているように見える。しかし戦後に常盤池の護岸を整備するまではそれほど深い入り江ではなかったようである。[1]噴水池を造るために内陸部まで入江を造ったか、半島部が伸びたことで橋になったのかも知れない。

常盤池のこの周辺に上田孫市らにより経営されていた料亭(ひさご亭)があった頃、遊女や地元の名士らが園内を散歩する大正期撮影の写真が知られる。そこには入江に架かる低い橋が写っているが、眺橋の前身であるかは分からない。ただし現在の眺橋という名称は、当時のものを継承している可能性はある。
【 前代の眺橋 】
現在の眺橋は昭和38年6月の竣工で、常盤池の白鳥湖エリアに架かる常盤橋より1年早い。即ち竣工年が明確に確認できるうちで常盤池に架かるもっとも古い現役橋である。しかし現在の橋は初代ではなく、一世代古い橋が同じ場所に架かっていたことが知られている。

資料がないため確定的ではないが、前代の橋は少なくとも昭和30年代の初頭には架かっていたようである。昭和32年4月13日発刊の宇部市広報第174号には、常盤公園の噴水池付近の写真が掲載されている。[2]


前代の眺橋は現在のものより中央部の隆起が緩く、橋脚はかなり細い。

現在の橋は、前代の橋の上に被せる形で施工されている。このため常盤池の水位が下がったとき下部構造が現れることが分かっていた。
後述するように現在ではこの状況を確認することはできない


橋の下に見えていた下部構造は、広報に掲載されたものと一致する。橋脚付近に石積みも見えているため、まず石積みで常盤池から切り離し、土を盛った上で橋脚を設置したようである。
このため現在の眺橋は、前代のものより数十センチ高い。前代の橋を解体せず上に被せるように施工した理由は分からないが、単純に撤去費用の節約だろう。

前代の眺橋は殆どフラットに近かったようだが、現在の橋は中央をやや上げて両岸を合わせることで接岸部の段差を緩やかにしている。その後昭和40年代には貯水効率を上げる目的で常盤池の余水吐を約1m程度高くしたため、橋の高さを上げていながら現在の眺橋でも満水時にはアーチ状の橋脚の大半が水面下に隠れる。このときは前代の橋の構造は完全に水没して観ることが出来ない状態だった。
《 Googleストリートビュー 》

以前の総括記事。親水エリアができる以前と前代の眺橋の下部構造写真が掲載されている。新規に総括記事を作成したので時系列記事に降格した。
時系列記事: 眺橋【1】
《 記事公開後の変化 》
2018年3月上旬頃に眺橋の補強工事が始まり、橋や噴水池周辺の立ち入りができなくなった。


側面から撮影。
以前は自由に湖水が出入りしていた橋の下部がコンクリートで塞がれていた。


この充填において前代の橋がどのように処理されたか分からないが、恐らくは橋の強度を保つために排水用のパイプを通した上で全体に充填されたものと思われる。側面に見えている排水口は噴水池からのものと思われる。いずれにせよ前代の橋の下部構造を観察することはもはや永遠に不可能となった。
《 個人的関わり 》
私が生まれる前に架けられた橋なので、橋より西側の時計台サボテンセンターへ向かうときに何度か渡った筈である。しかし特段の記憶はない。正面玄関からではなく西駐車場からの出入りが多かったことにも依るだろう。

橋の下部構造が奇妙なことに気付いたのは、眺橋の記事を書く目的で詳細な写真を撮影した2013年のことだった。下部構造を撮影しようとしたときたまたま水位が低く、護岸から降りる近くの階段から覗き込むことで見つけている。
出典および編集追記:

1.「宇部東部(M114)1947/03/12(昭和22年)米軍撮影の航空映像
画面左下の高解像度表示ボタンを押すと詳細画像が閲覧できる

2. 宇部市広報 第174号「31年のあゆみ」

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