橋の中央部分をポイントした地図を示す。
平成期初頭による白鳥大橋の完成によって常盤池に架かる最大の橋という座は譲ったが、後述するように常盤橋はその橋がなければ遠回りを強いられるという本来の役割以上の重要度を持っている。
これは石炭記念館の展望台から見おろした常盤池である。写真の手前側に正面玄関があり、かつてハクチョウが飼育されていた入り江の先にある半島から常盤橋が伸びている。[2013/1/6]
常盤橋は常盤池の南端、本土手にかなり近い場所で両岸の最も接近した場所に架かっている。即ち常盤池自体を一つの河川水系と考えれば、本流の両岸を結ぶ位置である。これに対し白鳥大橋は楢原の入り江という「支流」の末端部分を連絡している。
常盤池が誕生する以前の本流は下流に向かうにつれて標高を下げていくので、土砂の堆積などの影響がなければ現在でも本土手に近づくにつれて深くなっていると考えられる。換言すれば、常盤橋はその何処かで深い谷を横断している筈なのだ。
正面玄関から訪れたとき目にする常盤橋である。
橋の向こうにときわ湖水ホールがある。橋の近くには「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の立て札が見えている。
詳細な撮影を行ったのは元旦だったので来園者は疎らである。
(無関係な人物を写し込まないためにむしろ元旦を選んで撮影した)
もの凄く重厚な親柱だ。
積み上げられた花崗岩の部材は角を加工して丸く削っている。[2012/10/28]
あまり気付かれないのだが、左側の親柱の側面にこのような石碑がはめ込まれている。
架橋に係る建設費について一個人が寄付したとある。[1]
この石碑の記述は当時の星出市長の直筆である。架橋にあたって国の補助が少なかったところに遊園協会の元役員・松本佐一氏が大金を拠出して建設に協力している。宇部市は常盤橋のあまり目立たないこの場所に石版を設置することで謝意に代えているという。[1]松本佐一氏は恩田校区の発展に尽力した方で、昭和初期の大渇水で田を救うために本土手へポンプを据えて給水し、その折りに本土手が部分崩落したことで見つかった地蔵を祀った飛び上がり地蔵尊で知られる。また、恩田国民学校が戦禍で焼失し常盤台に仮校舎があったとき、GHQによる接収騒ぎに直訴し学校を護った立役者でもあった。[2]
(一連の記述は人物カテゴリが作成された折には移動される予定)
左側の親柱には常盤橋と漢字表記されている。
右側は常盤湖となっていた。
昭和39年当時から常盤湖という呼称も使われていたことが分かる。
常盤橋は下部構造がちょっと変わっている。
橋脚が池の中に直接足を降ろしているのではなく、コンクリート土台の上に乗っているのである。これは水位の低い時期でなければ見られない。
橋の中心線に沿って堰堤が築かれているように見える。橋の下へ降りられる場所はないし、さすがに人目が気になる。コンクリート土台の下はどうなっているかは分からなかった。
この構造の意味はちょっと理解しづらい。橋より下流側の白鳥湖領域に土砂が流れ込まないよう本当に堰堤状になっているのだろうか。[3]
橋の幅は約2.5m程度。物理的には軽トラなら通れる幅はある。公園緑地課の作業車がたまに通るのを見かけることがある。
両側の鉄柵は適宜塗り替えられているようだが、橋本体となるコンクリート躯体は昔からのままと思われる。
周囲に誰も居ないので何の遠慮も要らない。両側の欄干から下を眺めつつ渡った。
正面入口側から渡ったとき、橋の中央部分まではかなり浅いことが分かった。低水位の今だと目視でも水深が数十センチしかなく、池の底が直接見えていた。
そして橋の中央部分。ここで何故か橋が幅半分程度ほど左右にずれている。
この構造の理由もよく分かっていない。意図的な設計にしても斬新な発想である。
中央部分を膨らませた構造の橋は、一般の道路橋でも琴川橋や周防大橋にみられる。車が離合したり橋から景色を眺めるために幅広になっているのだが、常盤橋がこのように屈曲しているのも来園者が橋の上から景観を楽しむためだろうか。
屈曲部の橋脚。
張り出し部分は約2mで双方がそうなっている。
中央を過ぎて振り返って撮影している。
屈曲点の角には街灯が設置されている。
そして橋の中央部分を過ぎてからは水底が見えなくなり、水の色も濃い緑色に変化した。
ときわ湖水ホール側の対岸。
護岸の下に露岩が目立つ。露岩の下も急に深くなっているような水の色だ。常盤池以前の本流は、湖水ホール側に近い部分を流れていたように想像される。[4]
ここから下流側に白鳥島が見える。
ハクチョウの飼育がなくなってからは殆どうち捨てられたような状態に置かれている島だ。
白鳥島は半島部分から切り離す形で誕生した島であり、そのため島と左岸にある揚場との間の水深は浅い。他方、島と本土手との間にかつての本流があるため深くなっていると思われる。
ときわ湖水ホール側から撮影。
湖水ホールは若干の高台にあるので、橋を渡ってから階段を上ることになる。
向かって左側の親柱は「ときわはし」と平かな表記されていた。
右側の親柱。
昭和39年6月竣工で、現在架かっているのが初代の橋である。
ときわ湖水ホール側からも橋脚部を観察してみた。
こちらには先ほどみた堰堤状のコンクリート土台が見えていない。
ここから橋の中央部にかけて橋脚がどのような構造になっているかは不明である。水底が常盤池誕生と同じ状況であるなら、橋脚は水上に見えている部分の倍以上の高さを持っている筈だ。あるいは同様のコンクリート土台を築いてその上に橋脚を載せている構造かも知れないが、容易に答が得られる疑問とは思われない。
昭和中期には当然常盤池が湛水状態だったので、現在のような橋を架けるなら水中に橋台を設置しなければならない。仮堰堤を築いて水替えし基礎を造る技術はあっただろうが、今ほど優れた資材や機械がない当時どのような手法で橋を架けたのだろうか…
石炭記念館のある半島部から撮影した常盤橋。
橋の下にはネットが張られているのでボートで橋の下をくぐることはできない。これは手漕ぎボート時代から同様だった。
花見の時期にときわ湖水ホールから撮影している。
園内至る所にサクラが見られるので花見客が大勢押し寄せて常盤橋を行き交う。[2010/4/6]
常盤橋の存在によって、常盤池の東岸にあるときわ湖水ホールからも容易に園内へ向かうことができる。
常盤公園には正面玄関と西入口があり、いずれも相応な駐車スペースを備えている。しかし花見やゴールデンウィークなど来訪者が集中する休日はそれでも充分とは言えない。ときわ湖水ホールにある広大な東駐車場が補完し、遠回りさせることなく常盤橋を渡ることで容易に遊園地方面へアクセス可能になっている。
(それでもなお収容しきれないときのために予備の駐車場がいくつも存在する)
白鳥大橋と比べて地味で外観はさほど秀麗とは言えないが、これからも 常盤池両岸の橋渡し役に徹してくれることだろう。
出典および編集追記:
1.「ときわ公園物語」p.129
2.「ふるさと恩田」(ふるさと恩田編集委員会)p.101〜104
3. この部分は湖水ホール側へ細長く張り出した砂州であり昔から水深が浅かったようである。
「地理院地図|1947年10月7日の米軍撮影による航空映像」を参照。
(表示されるページの「高解像度表示」ボタンを押せば拡大表示できる)
4. 常盤池以前の塚穴川はもっとも東寄りを流れていたように思われる。この部分は恐らく蛇紋岩の急な崖であろう。
1.「ときわ公園物語」p.129
2.「ふるさと恩田」(ふるさと恩田編集委員会)p.101〜104
3. この部分は湖水ホール側へ細長く張り出した砂州であり昔から水深が浅かったようである。
「地理院地図|1947年10月7日の米軍撮影による航空映像」を参照。
(表示されるページの「高解像度表示」ボタンを押せば拡大表示できる)
4. 常盤池以前の塚穴川はもっとも東寄りを流れていたように思われる。この部分は恐らく蛇紋岩の急な崖であろう。