橋の位置を地図で示す。
橋は鉄筋コンクリート製で、欄干は格子型パターンを並べたシンプルなものだ。
上流側右岸の親柱。
彫りが浅く見づらいが昭和35年3月竣工と読み取れる。もう50年以上も今の姿で橋渡し役に徹していることになる。
下流側の親柱に接近した。
「にしきばし」の文字が読み取れる。
(上流側にある新錦橋が「しんにしきはし」であるのとは対照的)
左岸側下流より橋の下を写している。
撮影時間は午前11時頃で潮位はやや高かった。
橋の下部構造。
新錦橋の橋脚よりやや細身である。
上流側を観察していて、ちょっと奇妙なものが河床に沈んでいるのを見つけた。
藻にまみれてそう美しい被写体でもなく申し訳ないが、流れ着いたゴミではないらしい。
両端に鋼線のようなものがあり、樋門に使われるゲートのようにも見える。
しかしこんな場所に潮止の排水管などないし、そもそも向きがおかしい。
これはちょっと正体が分からない。舟を係留するためのアンカーだろうか…そんなものを河床に設置するとも思えないのだが…
橋の中央まで進み、河口側を撮影。
(この写真のみ同月8日の撮影…河口側を撮影し忘れていた)
橋の中央から上流側を眺めている。
両岸からサクラが真締川へ張り出すように顔をのぞけている。
河口付近を除いて真締川両岸の帯状領域は公園になっていてサクラの木が沢山植わっている。市の中心部に近くアクセスが良いので、花見の時期にはブルーシート組も登場する定番地だ。
大きく張り出したサクラの木は、夥しいピンク色の花弁を川面に落としていた。
サクラを愛でていられる期間はとても短い。
この日は特段に錦橋の写真を撮るためここを通ったのではないが、一年のごく僅かな期間限定で華麗な姿を魅せてくれるとあらば、足を留めてでも撮影せねばなるまい…
(実際この近くのサクラにカメラを向ける通行人がかなり見受けられた)
さて、本題の橋に戻って…左岸に移動した。
左岸上流側には河川名を示す表示があった。
旧字体を含めて「眞締川」となっていた。
親柱付近の欄干でどうにも解せない部分がある。
この大きな上下のズレは何でこうなったの?
冒頭の右岸側の欄干は殆どずれておらず、中央部分が切れただけになっている。しかし右岸側は上下に10cm近くずれているのである。
橋の前後で市道は幅が狭くなっている。通行人の転落防止のためにこの袖部分の欄干は必要だ。中央部分が切れているのも単純な意匠かも知れない。しかし右岸と左岸でこれほど異なった形に拵える筈もなく、当初からこうなっていたのではないだろう。
推測だが、これは橋の歪みを逃がすための工夫ではなかろうかと思う。
橋は空中に担架されており、車が通ったり強風にあおられることで若干撓む。橋本体の路面や欄干部分はかなり動くだろうが、袖部分の欄干は陸上部分にあるので殆ど動かない。その変動を逃がすために、外観は繋がった欄干のような意匠に見せながら中央部分を切っているのだろう。もしここがガッチリ繋がっていたら撓みを逃がすことができず折れるに違いない。
(2枚目の写真では袖部分の欄干基礎にクラックが入っている…上下に撓んだためだ)
左岸上流側の欄干がかなり大きくズレているのは、経年変化で橋が撓んで浮き上がったか、陸地固定側の欄干が下がった結果だろう。ここ以外あまり周囲が目立たないのは、アスファルトで段差を補修しているからである。
(親柱の手前をアスファルトで斜めに擦り付けている様子が観察される)
左岸の下流側。
こちら側の欄干はそれほど大きくずれてはいない。
漢字表記で「錦橋」となっている。
昭和中期頃まではこのような白い板に陰刻したタイプの標示がかなり多い。一般家庭の表札にも同様のものが目立つ時期だった。
左岸側からの眺め。
たまたま車が来ていないだけで、市道錦橋通り線の交通量は少なくはない。
錦橋の名前の由来は未だ調べておらずよく分からない。ニワトリと卵のような関係になってしまうが、錦橋通りは錦町を通過しているので、錦町の名前の由来と同じではないかと思われる。では、錦町の名前の由来は何かと問われると…
まあ、何か判明したなら追記しよう。
なお、ナビゲーション改善の一環としてこの橋の記事より同一河川の上流・下流に架かる橋の記事に移動できるようにした。
名前が分からなくても最も近くに架かる橋を調べて記事を読むのに多少なりとも役に立つだろう。
(もっともそのためには該当する橋の記事整備が先だ…^^;)
上流側に架かる橋に移動 | 下流側に架かる橋に移動 |
新錦橋 | 真締大橋 |