榮橋

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記事作成日:2013/7/13
最終編集日:2014/1/7
2024/11/15 画像リンク修正済み
[1](さかえ)橋は、市道上町線に存在する橋である。
市道終点側から撮影している。


親柱から欄干からすべて遺っており、一見現役の橋に見える。しかし写真を眺めるだけでも既に橋本来としての役目を果たしていないことに気付くだろう。欄干の外側には木が伸びているし、川のあるべき場所が駐車場で車が停まっている。

橋の中央部分をポイントした地図を下に示す。


この地図を眺めるだけでも元は川があったらしいことが推測されるだろう。下流側には細い運河のような部分が遺っており、上流側には公園を示す緑地としての表示がみられる。如何にも、この帯状領域は昭和後期までは今の新川のように潮の干満の影響を受ける人工水路だった。

市道上町線は、かつて新川から居能を経て西宮八幡宮に参拝する古くからの幹線道路だった。榮橋はその区間の最も主要な橋であり、初代の木造橋は明治30年代前半に居能の船大工が持てる技術を発揮して造りあげた。彼らはその後厚東川に架かる琴川橋も手がけている。[2]現在架かっているのは初代のコンクリート橋である

橋の部分を仕切る石材が今も路面に埋め込まれたまま遺っている。これは当時のものと考えられるだろう。


「榮橋」のブロンズプレート。
コンクリート製の親柱がかなり大きい。


上流左岸側。
親柱に隣接して祠のようなものが置かれていた。
個人の所有物かも知れない。[3]


「榮川」の河川名表記も旧字体である。


市道終点側から撮影。
左右にある公園や駐車場、前後の道路に比べて橋全体が高かったようだ。


右岸下流側の親柱には平かな表記で「さかえはし」。


上流側には竣工年として昭和12年3月となっていた。
コンクリート橋としては古い部類に入る。


栄川の項目を作成した折には以下の記述を移動する予定である:栄川は内陸部へ舟が出入りできるように水路を兼ねた運河で、新川同様に人工的に掘削され造られた。かつては現在の鍋倉交差点あたりまで舟が出入りしていたという。
しかし海運需要が逓減すると共に、栄川自体も砂の流れ込みによって浅くなり舟が入れなくなった。用を為さない水路のままにするよりも埋め立てて土地として利用した方が公益に適うという意見が大勢になり、昭和初期に最初の埋め立てが行われた。当時の改修工事を記念する碑文が宮地嶽神社に遺っている。

榮橋近辺の埋め立ては最終段階にあたり、昭和40年代後半に入って行われた。このとき栄川の水路部分にヒューム管を埋設し、現在の市道助田平原線に接する場所までの埋め立てを完了している。[4]旧河川敷の一部は後述するように栄川児童公園として整備されている。

橋の下流側を埋め立てた跡は月極駐車場となっている。
4年前に初めて訪れたときから同じ状況だった。


駐車場側から欄干を眺めると、一部が破損していることに気付く。
正方形の穴の周囲が打ち欠かれたようになっており、何かの改変がされたようだ。


一部鉄筋が剥き出しになっていた。
反対側の欄干も同様になっており、部分的にも壊さなければ通行に支障を来す何かがあったのだろうか…


欄干の中央部分に遺された意匠。
この部分は変形がないので造られた当初そのままと思われる。


上流側の欄干は、同じ部分を破壊して公園に降りられるようにしている。
斫った欄干の末端部分はモルタル補修したようで滑らかになっている。


縦に二条入った筋が何かは分からないが、恐らく単なる意匠だろう。何かを取り付けるための溝と考えるには彫りが浅い。


橋から公園までは1m近い段差があるので階段で接続されている。
この階段は隣接して造られた児童公園の整備時期に一致する筈だ。


この公園部分については別途記事を制作する。
派生記事: 栄川児童公園
公園側から橋の下を観察してみた。
駐車場側とは異なり、完全に土砂を押し込んで埋めたのではなく部分的に隙間が遺っている。


欄干部分より1m程度内側にコンクリート壁のようなものが見える。
表面の荒れ方が欄干とは異なり、後年に打設したようにも思われる。


この部分は初めて榮橋を訪れたときから気になっていて注意深く観察していた。
そして今回訪れて4年前とは異なった状況が見つかった。


部分的に陥没して穴が空いている。
周囲は流れ込み防止の土のうが置かれていた。この陥没穴は初回にここを訪れたときには存在しなかった。


もしかすると…橋の下深くまで陥没しているかも知れないと思い土のう付近へ接近し、穴の中まで覗き込んでみたが、7月の段階ではそれほど深く陥没はしていなかった[5]
この陥没の存在で、欄干より奥まった位置にあるコンクリート壁も橋本体の一部と推測される。昭和40年代後半まで普通に乗用車を通していた橋なのだから、橋の下を別途コンクリート充填しなくても持ち堪える筈だ。

栄川を埋め立てるにあたって榮橋や原田橋のような橋の下をどのように養生したかは興味の対象である。隙間無く土砂を充填している筈だが、真上から転圧できないので雨水の流入があればこのような陥没が出来るのは必然とも言える。
親柱と欄干は遺っていても、橋本体の渡る部分がどうなっているかは分からない。しかし路面のアスファルト舗装も中央が高いカマボコ状になっているので、単純にアスファルトを被せただけではないだろうか。

古くから親しまれていただけに郷土資料での榮橋に関する記述は多い。まだ掲載しきれていない項目があると思うので、随時追記しようと思う。
出典および編集追記:

1.「栄」の旧字体表記。説明の便宜上、本記事の橋名と親柱プレートの表記に限って旧字体表記を用いている。

2.「なつかしい藤山」p.146-147

3. 後日調査したところ藤山八十八箇所の御堂や祠とは異なることが判った。

4. 市道助田平原線の海に面している部分に水圧で自然に閉じられる蓋のついたヒューム管が見える。樋門に使われたと思われる石柱も遺っている。

5. 追加の写真を撮るために後日(2013/9/24)訪れたとき同じ場所を点検したところ、底が見えない程度の深い陥没穴になっていることが判明した。過去の転圧不足か何処かに水の抜ける道ができていて土砂が流れ出ている可能性が強い。
ただちに転落する危険性はないが、更に穴が拡がった場合、公園で遊ぶ幼児が落ちたら脱出不可能になる恐れがあり当面は追加の埋戻しが必要である。
運営しているFacebookページでの紹介。
外部記事: FB|2016/7/20の投稿
《 個人的関わり 》
この橋の異様な外観に気づいたのは遅くとも大学時代だった。宇部線に乗れば窓の外を眺めるのが常だっただけに、電車が海のような場所の上を橋で渡るとき、運河の上流に川がないのに橋の全体だけが見える場所に気づいていた。奇妙とは思ったが当時の自分にとって居能方面は如何にも遠く、わざわざ観に行こうという気もなかった。

初めてここを訪れたのは、今から4年前に遡る。榮橋が以前存在していた筈の川に架かる橋であることは気付いていたので、そこから上流側を辿ることでかつて真締川が居能方面に流れていた痕跡を探れないだろうかという考えから行動を起こした結果だった。[1]

一通りを調べ終えた後でもあり、現在は榮橋を自転車で通ることは殆どない。
出典および編集追記:

1. この取っ掛かりの事情は、Yahoo!ブログ「消えた河川の謎【1】」および一連の続編を参照。
ただし、ブログ中で参照している副読本の記述に誤りはないが、栄川を居能に向かって流れていた真締川の旧河川と同一視するのは些か早計である。栄川は新川と同様に舟が内陸部まで容易に出入りできるよう後世に造った人工的水路であり、昭和期に埋め立てられた部分が真締川の旧河川経路と一致するとは必ずしも言えない。

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