栄川児童公園

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記事公開日:2013/10/2
最終編集日:2021/5/15
川と公園は景観的に結びつく。市内を貫流する真締川は、宮地から河口部までの両岸に市道が整備された区間が真締川公園となっている。しかし栄川児童公園は河川に面した公園ではなく、栄川の上が公園となっている。栄川という河川実体そのものは既に存在しない。[1]昭和11年と昭和49年における時期をおいた2度の埋め立てによって現在に至っている。
栄川埋め立てに関する詳細は宮地嶽神社にある石碑の派生記事を参照されたい。
派生記事: 宮地嶽神社にある栄川埋め立て記念碑
ここでは、踏査日現時点における栄川児童公園に関して述べる。

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栄川児童公園は正式には栄川街区公園と呼ばれ、市公園緑地課の管理する公園の一つである。[2]
元々が栄川を埋め立てた上を公園の敷地にしているので、河川の成りに沿って細長い。

入口は榮橋原田橋の両側にあり、原田橋側に公園名と成立時期をあらわす標示板が立っている。


位置を示す。公園名は Google map に登録されている。


まずは標示板の場所から下流側へ歩いてみよう。


児童公園という表示の通り、子ども向けの遊具が設置されている。


お馴染みのブランコも。
元々が河川なので幅が狭く、ソフトなどのボール遊びをするにはちょっと狭い。


ベンチは昭和40年代後半らしくコンクリート製で、水飲み場も同年代を思わせる仕様だ。


もちろん水飲み場の蛇口はひねるとちゃんと機能した
但し下部に取り付けられた蛇口下の排水口は流れ込んだ土で詰まっていた

公園に隣接する私有地はブロック塀で仕切られている。風を通す模様入りの建築ブロックに笠石着きは昭和中期以降民家のブロック塀によく見られたスタイルである。
ブロック塀の一部には扉が設置されていた。


どうやって遊ぶのかちょっとよく分からない遊具。
想像はつくが、平成期の子どもは果たして巧く使いこなせるのだろうか…


榮橋側の出入口。市道上町線とは1m近い段差がついていてコンクリート階段で接続されている。
公園内の雨水を処理する桝が見えている。
栄川の下に埋設されているヒューム管に接続されているのだろうか


振り返って撮影。
遊具の種類などは申し分ない。限りあるスペースを利用してよく整備されている。


栄川児童公園の両側には民家が迫っている。そのままだと公園から丸見えなので民家に接する部分には樹木が寄せて植えられている。このため開放感がちょっと少ないのは仕方ない。

今度は原田橋から上流側を探ってみよう。
初めて訪れたときには先にあるものに気を取られて原田橋を見落としていた


この区画には遊具やベンチなどはなく、通常の緑地のようになっている。
しかし栄川児童公園の中でもっとも興味深いものはこの区画に存在する。


先々で別件として記事を作成するかも知れないので参照用インデックスを付けておこう。
《 栄川児童公園の一角にある謎のコンクリート塊 》
このコンクリート塊は一体何?


この物体は初めて榮橋の撮影に訪れたときから気付いていた。地表部分に現れている部分だけでも高さは3m程度ある。コンクリートの塊があるだけで正体を明かしそうなものがない。初めて訪れたときは公園でボール遊びする子どもたちの投擲板代わりにされていたのか、側面にボールの跡が沢山ついていた。[3]

しかし4年前とは違っている部分があった。
コンクリート塊の上部から垂れ下がっているこのコードである。


初めて訪れたときには見当たらなかった。元から上部に載っていたのが風で移動したのか、それともコンクリート塊とは無関係で誰かが投げ上げたのかは分からない。しかしよく見ると左側に僅かながら固定用の金具のようなものが見えかけている。元から付属するものらしい。
コンクリート塊の上に登ることができるなら詳細を確かめられるのだが…


同じ程度の好奇心を持ち合わせるのは私だけではないらしい。側面には上部へ登ろうとして意図的に置かれた建築ブロックがあった。
ブロックの置かれている側面には2列に棒鋼を切断した跡があった。突き出たままでは危ないということでかなり早期に切断されたらしい。根元からすっかり錆びついていた。


しかし早々に白旗宣言してしまった。登るのは無理だ。試してみるまでもない。4年前に訪れたときからこのブロックはあったし、足場に使ってもなおコンクリート塊上部に手が届かない。

公園を歩き回る児童を考慮して、棒鋼は充分に根元近くから切断されていた。そのため手で掴むには細すぎるし、足を掛けることもできない。むしろ上部に登られては困るために慎重に処理したようにも思われた。


初めて訪れたとき、栄川を埋め立てて造られた公園という場所柄、これは昔の河川にまつわる遺構と推測していた。樋門など何か大きな力がかかって支えるための構造物を必要としたのではという考えである。
しかし上部から垂れ下がるコードがコンクリート塊に接続されていると仮定すれば、かつての宇部電車区の引き込み線に関連する遺構ではないかとも考え直している。上部に3本伸びているのは鉄道向けの信号に給電するコードだろうか。


栄川児童公園としての区域はここまでである。
キョウチクトウの植え込みの外に見えるのは国道190号だ。


植え込みの奥へ入ってみた。
公園の境は建築ブロックで、若干の緩衝地帯を残して国道の歩道に接している。


この領域は宇部電車区の車庫へ向かう引き込み線があった場所で、平成の初期までは車両の格納に使われていた。
更にそれ以前は付け替えられる以前の宇部線の経路だったとされる。


コンクリート塊の側面に切断された鉄筋があったのは、もしかして信号塔などを取り付けていたのだろうか。
現時点では垂れ下がったコードしか見えないが、もし信号塔の基礎としたら上部にも鉄骨を切断した痕跡がある筈だ。実際、かなり離れて眺めると別の場所にも鉄板のようなものが見えかけている。
他方、信号塔などの基礎としたら、これほど台座部分を高くする理由が分からない。普通は基礎部分を地中に埋めて上部のみ鋼製構造物とするものである。

本件についてはFacebookのページで読者に問題を投げてみたが、未だに決定的な回答は得られていない。[4]
この記事を書きながら考えているうちに別の仮説を思い付いた。突拍子もない考えだが分からないうちは何でも自由に考えてしまおう。
管渠排水用の空気抜きでは?
即ちこれはヒューム管の中を流れる雨水による圧力を逃がすサージタンクのような役割ではないかという考えだ。

最初の栄川埋立は昭和11年に竣工し、当時から河川敷にヒューム管を埋めたという記録がある。栄川の入り江は舟の出入りだけではなく灌漑用水の余剰水も流していたのだから、舟の往来がなくなっても排水路は当然必要である。その後昭和49年の埋立時に現在の状態となり、以前の排水口に繋げる形で管を埋設した筈だ。

元々は入り江だったので、現在でも満潮時には海水が遡行してくる。逆流防止として水圧で自然に閉塞する蓋がついているが、構造上少しずつでも海水が逆流し最終的にはヒューム管内すべてが満たされると思う。
普通の下水管では人孔が複数箇所あるため、内部の流量や水圧変動を分散して逃がすことができる。ところが栄川の場合今やすべて管渠だから、海水が遡行してきたとき管内の空気の逃げ場がない。ここにあるコンクリート塊は実は竪坑で、管内の圧力を逃がす役目を持っているのではと考えた。

離れて眺めると鉄板のようなものが見えかけていると述べた。推測が正しいなら、あの鉄板は竪坑の開口部を覆う蓋だ。そして栄川の代用として設置されたヒューム管に繋がっているのではないだろうか。
コンクリート塊を高く設置したのは転落の危険防止のためで、かつては点検用に昇降梯子が付属していた…しかし公園化されるにあたって子どもが登って転落すると危険だから鋼製梯子を根元に近い部分から切断して登れないようにした…というシナリオが想像される。

この場合、垂れ下がっている三相交流向けの配線が気に懸かる。この配線はポンプ用電源で、満潮時でも管内の水を強制的に海へ送り出す排水ポンプがこの台座の上に設置されていた…という可能性はないだろうか。

上部構造が分かれば解決する見込みはある。しかし竪坑とすればその上に登るなんて考えただけでもゾッとする程度に危険だ。見下ろせる高さの建物が近接しており、そこから観察すればある程度は分かろうが、まさか「知ったところでどうにもならない」好奇心を満たすためだけに近隣在住者に尋ねるなんてのも気が引ける。
本件は一旦保留とし、新たな情報が入り次第追記する。場合によっては栄川児童公園の本記事から独立した項目を造るかも知れない。
【 記事公開後の変化 】
2020年8月の宇部日報の小コラムでこのコンクリート塊について取り上げられた。この正体はかつての栄川旧河川を利用して布設された下水管の竪坑である。下流側の駐車場にも同種のものがあり、そのまま栄川の河口部である藤曲浦漁港まで繋がっている。かなり高く造られているのは、管渠を流れる流量が一時的に増大したとき周囲に漏出するのを防ぐためとされる。[5]

側面の鉄筋は切断し除去された梯子の跡である。内部は通常時は雨水が少量流れるのみであるが、転落すると脱出できないばかりか外気との入れ替わりが乏しいため酸欠で生命にかかわる。小コラムでも決して桝の上に登らないよう呼びかけている。

切断され垂れ下がっている電線の用途は不明である。

2021年4月に市上下水道局を訪ねて、この下に鵜の島ポンプ所からの雨水を流す管渠が埋設されていることを平面図によって確認した。昭和41年に径1,800mmのコンクリート管を、更に昭和46年に径1,650mmのコンクリート管(二条)を埋設している。鵜の島ポンプ所からは一本の管でこのコンクリート塊のところまで接続され、それより先で旧排水管と新排水管の都合3管に分岐し海に排出されている。
出典および編集追記:

1. かつて栄川が流れ込んでいた部分から海に接続する部分の栄川運河に名前を残すだけとなっている。
この運河部分を渡る湾岸道路部分が栄川運河橋である

2.「宇部市|宇部市の都市公園一覧」参照。

3.「消えた河川の謎【3】」に初めて訪れたときの写真と当時の推測が書かれている。

4.「FB|2013/9/29配信分

5. 宇部日報 8月10日紙面

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