学校橋

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現地踏査日:2014/1/11
記事公開日:2014/1/12
探検ごっこが好きな昭和期の子どもは、お気に入りの場所によく名前を付けていた。その流れを受けているわけでもないが、当サイトでもしばしば”勝手呼称”が登場する。白岩公園の最初に渡る石橋を「ボール橋」と名付ける部類である。

学校橋なんて名前を聞いたら、それこそ登下校路でよく渡っている橋が親しまれていたが故に誰彼となくそのように呼び、いつの間にか定着していた…のような流れを感じるだろう。

ところが…
正真正銘の「学校橋」が存在する。
私が勝手に名付けたとか、地元の子どもたちが呼び習わしているというのではなく、正式名称としてである。

イメージに合致するかどうかは分からないがこれが「学校橋」だ。


上の写真の撮影位置を地図で示す。


ここは厚南の中野開作、中川の右岸側になる。交通量の多い県道宇部船木線から一本裏手の路地に入ったところで、車が押しかけてくることは殆どない閑静な場所だ。

この橋、名前を聞きつけて撮影してやろうと訪れた結果ではなく、あてどなく中野開作を自転車でうろうろしていて偶然に見つけた橋だった。それまで私は御撫育用水路沿いに走っていて、中川を渡る橋が見えたものだからここらで県道を渡っておこう…と思ってハンドルをこちらに切ったのだった。

最初にこの橋の名前を知って「えっ?」と思いつつシャッターを切ったときの写真。
欄干のあのブロンズプレートに目が行った。


確かに漢字表記で「学校橋」となっている。


中川の右岸側は真砂土の盛土のままだ。ここはいずれ道路が出来ることが分かっている。[1]


中川の下流側に読みのプレートが設置されている。


「がっこう」という地名という可能性もまずないだろう。


橋の中央まで自転車を押し歩きした。
下流側を撮影。西に向いているのでやや学校…じゃなくて逆光気味である。(←寒いぞw


上流側。
中川は既に殆どの区間で鋼矢板による護岸となっている。このため見た目は運河のようだ。


橋を渡って左岸側下流に河川名のプレート。


上流側に竣工年月のプレートだ。橋の竣工時期は平成5年10月となっていて、つい最近のことである。
そうは言っても既に20年経っているわけで…時の流れは速い…


渡りきって左岸側から撮影。中央が盛り上がったカマボコ型をしている。
車両通行止めにはなっていない。物理的には四輪でも通れるだろうが撮影する間に通行車両はまったくなかった。


橋としてはこれだけだ。先にも述べた通り、中川の右岸側には道路が造られる予定なので周囲は土手の道があるだけだ。この名前の橋がここに架かるなら、一番あって欲しい肝心の学校が近くには見当たらない。

これだけでは一本記事にするにも撮影枚数が少ないので、横からの写真を撮っておこう…と左岸の下流側に少し歩いた。西日が強いから太陽を背にして撮影するためだ。

スロープ部分を少し下ったところから撮ろうとして、橋の名前のヒントになるかも知れないものを見つけた。


そこでスロープから降りて橋桁に接近した。
袖壁部分に別のプレートが貼り付けられていたのだ。


もしかすると「学校橋」は通称で、別の正式名を持っているのではないだろうか…
そのようなパターンの橋を知っているからだ。[2]


ブロンズプレートでもやはり学校橋となっていた。
山口県の標示があるので、中川の河川改修を行った折りに架け替えられたように思われる。


ついでながら、更に下流側へ離れたところには中川の河川管理道に関する興味深い看板がみられた。


こちらはお馴染み中川の距離標。
河川にも距離標というものは存在するのだが、市内では中川だけである。
カッパカップルが可愛い…


この近辺の橋の名と道路部分の管理主体の一覧。ここでも明確に学校橋と記載されていた。
黒い部分が公道で、赤で記載されている部分は中川の河川管理用通路とされている。


学校橋部分の拡大ショット。
中野開作橋と学校橋の間の左岸には、部分的にちょっと黒く塗られた道が存在する。矢印記載でそこだけ市道中野開作線となっている。
この意味不明な市道の存在は早くから分かっていて地域SNS時代に一度記事公開している


ここまで学校橋の記載が現れるなら、何となく呼び習わされたというのではなく正式名称であると考えざるを得ない。
しかし…どうしてこれが学校橋なのだろうかというまったく素朴な疑問が生じる。何かの学校に関連づけて命名された筈なのだが…

この近辺で考えられる最もポピュラーな学校と言えば、厚南小学校・中学校だ。ただしこの橋から直線距離で1km程度離れている。登下校路として使われないこともなかろうが、距離的に関連性が薄い。また、この橋がなければ登下校に非常に差し支えるという程の重要な位置でもない。南側と北側には車も通れる広い橋があり、登下校ならその方が近いからだ。
やや近い学校としては県立宇部総合支援学校があり、学校橋から300m程度のところである。この総合支援学校は県立であり、中川の管理主体も同じく県である。親しみをもってもらえるよう特に学校側から要請があってこの呼称に落ち着いたのだろうか…

正解はかならずある筈だが、性急に答を求めることはせず考えられそうな答を整理してみた。
(1) 厚南小・中学校の登下校路だから。
(2) 県立宇部総合支援学校に近いから。
(3) かつてこの橋の近くに学校があったから。
(4) その他。
現地では一連の撮影を終えた後、素直に県道を横断して次の撮影目的地へと向かった。

アジトへ戻るまで学校橋の架かるこの道の素性が分かっていなかった。中川の河川改修で最近架けられた橋とだけ考えていたのである。
ところが手元の市道リストを調べていて、学校橋の架かる道は市道厚南中学校線という認定市道であることが分かった。この市道の整理番号は700番であり、中野開作近辺の認定市道の標準的な番台である…となると、橋ができた後に市道認定されたのではなくそれ以前の昭和50年代には路線が確定していたことになる。
更に最近手にした厚南地区の小字図を閲覧していて、既に学校橋が記載されていることに気付いた。即ち平成初期に行われた中川の河川改修で新規架橋したのではなく、それ以前からあった橋なのだった。

以上のことから、一旦は (1) ではないかと考えかけた。
更にこの日撮影した写真を整理していて、どうも (3) ではないかと考え直している。それと言うのも学校橋に出会うその数分前のこと、自分はこの石碑を撮影していたのである。


厚南小学校跡を示す石碑だ。まったく何の気なしに撮影していたので、学校橋に出会ったとき思い出すことができなかった。それ故に具体的にどの場所に立っていたか詳しくは覚えていない。御撫育用水路沿いで、学校橋からそれほど離れていなかったことだけは分かっている。そうなれば、かつて近くに厚南小学校が建っていて恐らくは登下校で重要な橋だったことから随分と昔に名付けられたのではないだろうかと思うのである。

今のところまだ学校橋に関する文献には出会えていない。出典が明らかになったら追記しておこう。

出典および編集追記:

1. 現在の国道190号東割交差点から南には宇部湾岸線と連絡する県道妻崎開作小野田線の新線が造られている。同交差点から中川に沿って北上し、現在の県道宇部船木線の中川橋付近で合流する道(市道東割中野開作線)を造る計画があり、断続的に工事が進められている。
まだ整理番号が付与されておらず市道路河川管理課の地図では点線表記となっている

2. 常盤池に架かる白鳥大橋がその例で、銘板は常盤大橋となっている。

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