白岩公園

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記事作成日:2013/4/17
最終編集日:2021/4/29
情報この記事は収録項目が多くなってきたので項目ごとに分割し再構成を予定しています。

白岩(しらいわ[1])公園は上中山に存在していた歴史の古い公園である。
写真は代表的な作品の一つである法篋印塔


位置図を示す。
Google map にある写真は当サイトの管理者が提供している


上の地図で示される通り、白岩公園は中山地区の北側山頂付近、字堤ヶ迫に存在する。創園が昭和七年四月三日[7]で遊具などを備えた近代的な公園ではなく、現代のカテゴリで言えば公園というよりは広大な庭園であり歴史的文化遺産である。白岩公園を含む周辺の山野は現在も個人の私有地なので行政による管理はされていない。しかし造られたほぼ同時期より市民にも開放されていたため、慣行的に現在も一般人の立ち入りが可能である。
《 設園の背景と歴史 》
白岩公園は上中山に住んでいた笠井良介氏(以下「笠井氏」と略記)により自力で創園された。昭和元年に笠井氏が大病を患ったとき日頃から信仰していた弘法大師八十八箇所の建立を思い立ったことによるとされる。[8]病気の治癒後、所有地一帯を庭園化し、自己の精神修養の場を兼ねて誰でも自由に参拝できる霊場として開園したのが始まりであった。昭和3年のことであり、現在ある白岩公園の原形と言える。

笠井氏は沖ノ山炭鉱の保安係から重役まで上り詰めた要人で渡邊祐策翁から篤い信頼を受けていた。当初の庭園中央に設置されていた菩提寺広福密院の開眼式では渡邊祐策翁自身が祝文を披露している。同年11月の御大典記念で息子の久一氏が忠魂碑を造ったときには裏の文字を祐策翁が書いている。[8]

白岩公園の中核的作品とも言える「大自然」は、創園年の翌年の昭和8年に園内でも際だって大きい八丁岩と名付けられていた岩に文字を刻んで欲しいという依頼を請けてのことだった。当初、笠井氏は「慈善慈愛」の文字を考えていたが、渡邊祐策翁が現地を見学したときに思い付いた「自然」を元にした文字が刻まれることとなった。合わせて岩の側面にも白岩公園を表現した2首の短歌が刻みつけられた。[10]一連の作業には約一ヶ月半を要した。

一般人の来訪可能な場として整備されてからは庭園化は更に進み、四季の花や樹木が植えられ、園内に湧水を導いて造られた人工的な滝や池が存在していた。[12]小動物の飼育や例祭も執り行われていた。例祭では出店も並び、大変な賑わいようであったことが窺える。
《 衰退期 》
このように昭和初期〜中期において白岩公園は市民に親しまれる存在の筈であった。特に小学校の鍛錬遠足で白岩公園を訪れた経験がある年配者が非常に多く、昭和50年代までは遠足の行き先として選定されていたようであるが、その後遠足先から外されることもあった。[4]その原因として行政の管理する公園ではなく整備に負担がかかったこと、密教の世界を示現する特異な宗教観に基づく庭園であったことが考えられる。また、白岩公園は現在もなお相当な距離を歩かなければ到達できず、モータリゼーション隆盛期にあって駐車場のない公園ということで敬遠される要素もあったと思われる。[2]

来訪者が逓減するにつれて園路の普請や雑木の伐採などが行われなくなり荒れ始め、荒廃することにより更に来訪者の足が遠のく…という負のスパイラルに陥ることで少しずつ白岩公園は「かつて存在していた庭園」の如く過去の遺物として語られがちになった。年配者は学童期の想い出は持つものの、次の世代へ伝えられる機会も殆どないまま自然へと還りつつあった。
主要な作品である法篋印塔や大自然など石材を元にした作品は藪に包まれながらも健在だが、五重塔は水煙などの部材が欠けて周辺の地面に半ば埋もれている。石積みや階段の至る所から樹木が伸びて傾き、壊れ、あるいは木の葉や土砂に埋もれている。とりわけ子安弘法大師像は原形が分からないほど酷く破損し、上半分は完全に失われている。[11]
園内に設置された池や緩衝池には土砂が相当量流れ込み、半分近く埋もれている。排水が機能していないようで、中央広場付近は常に池からの水が染み出ている。数回の踏査によりかなりの遺構を確認したが、未だ土砂の下に埋もれたままの作品が残されている可能性がある。

公園という名称を持ちながら市内の観光マップや史跡案内パンフレット等に白岩公園の名前は現れない。ネット上の地図にも名称の案内はなく、僅かに当時造られた石段のみが記載されている程度で歴史の彼方に葬り去られてしまった公園である。現地を知る人が一言で表すなら「宇部のアンコールワット」という表現が相応しい。

白岩公園は面河内池の西側にあるもっとも高いピーク部分の南側斜面に造られている。
以下に概略のマップを示す。
マップは2013/12/15までの発見を反映させている…以前のマップはこちら


メインの園路は2つのピークの鞍部を通るように造られている。一帯の山地は、北側はややなだらかなのに対し県道琴芝際波線のある南側の傾斜が大きい。このため南側は石段が極めて多く山の補強目的で積まれた石積みも多い。他方、鞍部となる峠を過ぎた北側は自然の山道となっており巨岩もあまり目立たない。

沢地には湧き水の流下で山が崩れないように至る所で現在の砂防ダムのような石積みが築かれている。自然の岩は侵食で転がり落ちないように、岩の下へ別の礫石を押し込み安定化処理している場所が目立つ。
石積みは間知石の谷積みが主だが、それほど立端がない部分では布積みや自然石の乱積みもある。緩衝池の下流側となる部分にはモルタルで間詰めされている。一部の池には修養のために設置したと思われる梵字の刻まれた石材が見つかっているが、概ね湧水が一気に流れ出るのを防ぐ緩衝池の役目と思われる。

石碑や塔など石材もしくはコンクリートによる構造物の保存状態は概ね良好だが、御堂など木製構造物は経年変化で倒壊したり朽ち果てたせいか痕跡程度しか遺っていない。[3]

現在では樹木が生い茂ってそれほど目立たないが、昭和後期までの様子を映像で見ることができる。
「国土画像情報閲覧システム - 上中山(昭和49年度)の航空映像」
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C20&IDX=12
別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される
拡大地図を眺めると、当時はまだ里山の管理が行き届いていたからか、田畑と山野部の境目が明瞭である。常盤用水路も現在の航空映像よりはるかに鮮明に観察される。
白岩公園付近を拡大すると、森林の緑に混じって白っぽい部分が散在している。これは白岩公園の巨岩群と考えられ、当時は現在の県道からも直接巨岩が見えていたかも知れない。また、白岩公園からも遠方の眺めが得られていた筈である。

県道からアクセスするとき常盤用水路の上を渡る。昭和十年代に常盤用水路が中山地区を通されたとき、場所によっては工事で失われた遺構などが存在する。[9]しかし白岩公園はそれ以前に完成後しており位置的にも低い場所なので影響はなかったものと思われる。
宇部興産(株)所有の窒素工場向け送電線(特別高圧線)が白岩公園の西側を通っていたが、平成23年夏頃に中国電力への売電に転換したことにより送電鉄塔の基礎部のみ残して撤去されている。これに伴い、白岩公園の入口の一つである場所に掲示されていた鉄塔の位置を示すタグ(No.74,75行)も取り除かれた。
園内に存在する主要な作品や遺構
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《 再興期 》
白岩公園ほど世代によって宇部市民の認知度が著しく異なる公園もない。現在において50歳代より下の世代は知らない方が大半だし、上の世代でも藤山地区外にお住まいの方は知らない方が多い。ところが白岩公園を知る世代の方々の中には小学生時代に遠足で訪れたという声が圧倒的に多く[4]、当時の想い出を熱く克明に語る市民もある。もっともすべての方が肯定的な印象を持っている訳ではなく否定的なイメージを抱いている方もある[5]

個人的には下の世代で藤山地区外という状況におかれたせいか、白岩公園の存在を知ったのは書籍[2]に接した最近のことであった。どちらかと言えば幼少期から郷土関係の書籍はよく読んでいたし、テーマ踏査というジャンルを確立するより数年前から市内の主要物件を踏査していながら何の情報も得ていなかったのは不思議ですらある。
この原因は白岩公園が私的案件であり行政を通したPRがしづらいこと、既に管理の手を離れた廃墟状態に近く歴史の彼方へ葬り去られやすい土壌があったからと思われる。実際、郷土史や書籍で白岩公園を紹介したものが存在する筈だが、誰でも随時閲覧できるネット上の情報は未だ僅少である。

近年、地域再発見の流れが強まってきており、こうした傾向は地元再発見ツアーの人気ぶりに象徴的である。実際、白岩公園に関する記事を写真付きで初めて掲載したときは大きなインパクトがあったようで、多数の読者による反応が得られた。ここ近年殆ど誰も散発的にしか訪れていないと思われる白岩公園に、記事を読んで現地へ赴かれた方が数名あった。現地の状況からかつて存在したと思われる構造物をCGで再現しようとする試みや、これ以上の荒廃で失われてしまうことを危惧し復興に向けての動きが始まりつつある。

2014年11月頃から山岳会の方々により園内の伸びすぎた雑木や雑草が刈り払われ少しずつ整備が進められている。倒木峠の名で勝手呼称されていた南北ピークに横倒しになっていた巨木は最近取り除かれた。刈り払いによって到達可能な領域が拡大し、この過程でそれまでの踏査では分からなかった石段などが見つかっている。(第9次踏査記事を参照)

同年12月7日にはNPO法人霜降会による一般参加イベントとして白岩公園内の清掃作業が実施された。100人を超える参加者により園内清掃が行われモミジの苗木21本が植えられた。更に清掃領域を拡大しゆくゆくは市内随一の紅葉の名所として育てていく中長期的取り組みが計画されている。
《 アクセス 》
冒頭の地図でも分かるように白岩公園は県道から離れており、公園まで車で行くことはできない。国土地理院の地図では近辺でピークとなる場所に測量点の記号が描かれているだけである。[13]この場所に到達する山道も記載されていないが、実際にはピーク付近を通る白岩公園コースと呼ばれる登山道が存在する。

整備されている交通機関としては、県道を走る路線バスがある。かつては後述する白岩公園に向かう地区道の分岐付近に白岩公園入口バス停が存在していた。それほど著名な公園であったことの証なのだが、現在は上中山バス停に名前を変えている。公園の現況が既に述べた通りなので来園目的でこのバス停で降車する人は皆無だが、時間が合うなら現在でも最適な移動手段になるだろう。

白岩公園は車社会が今ほどに発達する前の時代の公園なので、車を気軽に乗り付けて訪れる場所ではない。現在でも最終的手段は徒歩となる。
現在のところ、白岩公園へ徒歩で到達可能な山道が2経路知られている。一つは中山観音の裏手から八十八箇所の祠がある急坂を登り尾根伝いに進む白岩公園コースと呼ばれる登山道を辿る経路、もう一つは県道から面河内池などの溜め池管理に向かう地区道から分岐する経路である。前者は昭和中期まで小学校の遠足などでも歩かれていた経路で、車の置き場所には困らない半面、かなりの距離を歩くことになる。後者は短時間で公園に到達できるが、車の運転や駐車方法に関して一定の制約を受ける。

車社会の現状に鑑み、できるだけ徒歩の距離を切り詰めなおかつ駐車場所も考慮した後者の経路について第三次踏査のはじめに検証した内容を以下の派生記事にまとめている。
派生記事: 第三次踏査|駐車場所の検証
徒歩の場合は中山観音の駐車場に車を停めて登山道の白岩公園コースを歩くルートがある。
第二次踏査の過程で白岩公園コースを進んで公園の裏側に至る道が判明したが、中山観音側から歩いた場合よりも恐らく遠回りになる。西高分岐など北側から歩いて向かう場合以外は利用価値に薄い。

この他、白岩公園コースから八十八ヶ所6番の倒壊御堂に向かう道が存在していた筈と推測され、早くから経路の推測が行われていた。この作業は難航を極め、現在なお同定はされていない。
最近、電子国土の後継である地理院地図新バージョンの拡大表示で経路が表示されるようになり、古道だったことが明らかになった。[14]もっとも現地は白岩公園コースからの分岐部分数メートルが判別可能なだけで道の痕跡は完全に失われている。

なお、県道や周辺の道には公園の所在場所を示す案内板や標識などはいっさいない。[6]
公園の入口や内部にも展示物の案内板は存在せず、すべての遺構をもれなく観て回るには先に掲載したマップにより配置を頭に入れておく必要がある。特に大自然碑など主要な遺構がある尾根から一つ沢を隔てた尾根にある忠魂碑や八十八箇所の6番および7番御堂には容易に到達可能な道がなく、現地マーキングなどにより経路の再現可能性が確保されつつあるのが今の状況である。
今後の展望
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以下に私自身が白岩公園に関わってきた経緯を時系列順に紹介する。
なお、当初はまったく何の予備知識をも持たない状態からスタートしており、その後現地踏査や同士から寄せられた情報および文献を参照することによって少しずつ真実が明らかになっている。このため初期の記事では誤った推測や明白な誤謬を含み得る。当時の自分自身の考え方を記録する意味も含めて、それらは修正していないのでご注意いただきたい。

出典となった白岩公園に関する記述のある書籍との出会い、書籍以外何の予備知識も持ち合わせない状態から初めて自力で白岩公園探索を行ったときのレポート。全8巻。
白岩公園・初回踏査

初回踏査で見つけることができなかった渡辺翁揮毫による「大自然」の石碑をはじめとする遺構および経路の調査レポート。全5巻。
白岩公園・第二次踏査

梵字の石材が置かれていたと思われる池など。全5巻。
白岩公園・第三次踏査

散歩がてらの軽い撮影と「鼻の穴」の詳細調査。全2巻。
白岩公園・第四次踏査

藪の奥で永遠に眠る忘れ去られた石碑とは…。全9巻
白岩公園・第五次踏査

現地踏査会に先だって視察目的で半年振りに訪れた白岩公園の今の記録。全3巻。
白岩公園・第六次踏査

2013年11月の二度にわたって開催された初めての合同調査会の記録。
白岩公園・第七次踏査(合同調査会)

倒壊御堂への経路開拓および合同調査会で発見された扁額の処遇、その後日に白岩公園コースから倒壊御堂へ至る経路の再確認について。序編+7巻。
白岩公園・第八次踏査

園内に存在する主要な遺構群を個別記事向けに撮影するために行った訪問。小井戸の排水を試みて失敗した。序編+4巻。
白岩公園・第九次踏査

白岩公園の成り立ちから現在に至るまでの成果や発見などの時系列整理。(執筆予定です)
白岩公園・タイムライン

なお、ある程度まで白岩公園の先行きが見えてきた段階で、何処に存在するのかもまったく分からないゼロからの再発見的踏査から今までの過程を概説するドキュメントを別途作成するかも知れない。
《 近年の動向 》
・2020年12月1日にNHKの「情報維新山口」のお便りさんぽコーナーで白岩公園が紹介された。全エリアの踏査をほぼ終了してからもNPO法人霜降会では継続して伸びすぎた樹の枝払いや片付けを行っていた。白岩公園の近くに住んでいる方がこの活動に感動し、NHKにぜひ取り上げて欲しいと手紙を書いたことで現地ロケが実現した。
なお、現地ロケは投稿者と山岳会の会長など関係者が案内し宇部マニアックスは出演していない。ただし清掃活動を行う前の写真を視聴者に伝えたいとの要望から、NHKディレクターに宇部マニアックスのアジトへお越し頂いて清掃前の荒れ果てた状態の写真を10枚提供している。28日に最終的な放映日時の連絡を受けてFBページで読者に告知している。[15]
出典および編集注記:

1.「藤山校区 コミュニティ運営協議会」によると、藤山地区では「しろいわ」の読みが一般的のようである。他方、校区外在住の方では「しらいわ」の読みが圧倒的に多く均衡状態となっている。
設園当時の正確な読みを尊重すべきだが、当サイトでは既に"shiraiwa"の読みで各ファイルを制作してしまっているので、当面は現在のファイル名を保持する。
なお、白岩公園という名称の由来については、東にある黒岩山の対比として白岩と命名されたようである。(笠井氏談話)

2.「ふるさと歴史散歩」P.130〜131
著者/黒木甫(宇部地方史研究会理事) 出版/宇部時報社

3. 忠魂碑のある東ピークに藤山八十八ヶ所の6番があり、木製の御堂が全壊している。しかし屋根が瓦であることから昭和初期に創園された当時のものではなく後年建て替えられたものかも知れない。この他に朽ち果てた円筒形状の木製柱が随所に見られ、木製電柱の痕跡ではないかと思われる。

4. 昭和56年11月9日の小羽山小学校4年生の鍛錬遠足の行き先として記されている(「小羽山」p.45)が翌年には行き先として選定されていない。園内には密教に係る遺構が目立つこと、忠魂碑のように戦後その存在が否定的にみられた石碑が存在することから公立小学校の遠足地が特定の宗教や戦時思考に纏わる場所として選定されることを問題視する意見があったのかも知れない。

5. 中山から若干離れた大鳥羽神社を訪ねたとき道中でたまたま会った年配女性(70代)と話をすることがあった。私が白岩公園について話を振ったときその方は俄に顔を曇らせてこう話された:
「あの公園はつまらん…ずっと昔門前池に行った帰りに教えてもらったが草ぼうぼうで荒れ果てていた…私が中山へ嫁に来た時からあんなだった」
この証言より現在のような状態になったのは平成期以前と推測される。もっともこの談話も否定的見解から出たものではなく、藪に埋もれて顧みられない状況に対する率直な感想とも言える。

6. [1]によれば、かつては市営バス中山線の白岩公園入口バス停より東へおよそ800m行った道端に藤山校区ふるさと運動部会が建てた公園入口の標識があった模様。現在でも白岩公園に向かう道の端には荒削りの石材が散見される。目印として人為的に設置されたか昔の土地境界ではないかと考えている。

7. 当時の宇部時報「山間静寂の境 白岩公園」に述べられている。”炭山の王国”p.246も参照。

8.「炭山の王国」p.246-248
このため白岩公園は藤山八十八ヶ所と密接な関わりがあり、中山観音廣福寺前にある1番の祠の横に笠井良介氏の名が刻まれた新四國八十八箇所の石碑が設置されている。また、白岩公園の園内にも6番、7番、59番が存在する。特に大自然碑の横にある五重塔の台座部分には新四国奥之院開設記念塔と刻まれており、白岩公園が藤山八十八ヶ所の奥之院という位置づけだったことが分かる。

9. たとえば中山観音寄りの県道沿いに乱刀ヶ鼻の祠がある。この他かつて存在していた遺構や地勢は当時の市道築造や常盤用水路を通す工事により改変されている。「藤山史跡まっぷ」45番参照。

10. 八丁岩に刻まれた短歌は一首のみである。当初は2首が刻まれる計画がされていたが、何らかの事情で1首のみとなったらしい。今のところもう1首は園内のどの岩にも発見されておらず、実際には刻まれなかったと考えられている。

11. 子安弘法大師は設置された当初は鉛製の像だったが、戦後の混乱期において盗難に遭ったとされる。(笠井氏談話)

12.「藤山史跡まっぷ」44番参照。
池は現存するが、人工の滝は存在が推測される場所が知られるのみである。

13. 最高地点付近に国土地理院の設置した三角点の存在が独自に現地踏査を行ったメンバーにより確認されている。スマホのGPS機能を用いて到達した模様。個人的にはまだ到達できていない。

14. 地理院地図の拡大データで白岩公園コースから倒壊御堂らしき建物へ向かう経路が表示される。

15.「FBページ|2020/11/28の投稿

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