概略位置を地図で示しておこう。
市街部から国道490号を北上し、善和交差点を過ぎると進行方向右手からJR山陽本線が現れ、暫く国道と並走する。
山陽本線が短い善和ずい道で低い山の斜面を抜ける傍ら、国道は大きく迂回しつつ高度を上げる。そしてずい道を出たばかりの山陽本線を跨線橋でやり過ごし位置関係が入れ替わる。
(この写真は3年半前の野山時代に撮影されている)
国道が再び山陽本線と同じ高度まで降りてきた先、押しボタン式信号の手前で善和川を横切る。ここが本物件の舞台になる。
国道490号の橋そのものも善和橋となっている。しかし国道のこの橋自体は単純な鋼製の橋で観るべきものはない。今回の主な踏査対象は古い道に架かる方の橋である。
振り返って撮影。押しボタン式信号のところから市道東谷線が分岐している。
(墓参りのときに必ず通る道…国道へ出るとき見通しが極めて悪いので要注意)
善和川を挟んだ両側から山陽本線の方へ向かう小道がある。左側の小屋のような建て屋はバス停留所である。既に旧橋が見えている。
好天に恵まれた2月の連休の午後、私は以前訪れてブログ版でも記事を書いたこの場所を再訪していた。
前回訪れたのが3年前であり、ホームページ向けに詳細な写真を撮っておきたいと思ったからだ。
上流側を向いて撮影。JR山陽本線が並走している。
幅はかなり広い。軽四なら橋の上で離合できるかも知れない。
長さは15mくらいか。間違いなく橋ではあるものの橋の上まで砂利や土砂が進出して突き固められているため、殆ど地面と一体化している。
雑草が伸びない時期でしかもよく草刈りされているため橋の観察には好適だ。この橋が決して廃物ではない何よりの証拠である。
橋の名前が漢字で陰刻されている。
(逆光で文字が読みづらかったのでこの写真だけ3年前のものを流用している)
橋を渡り下流側を撮影。
向かって国道側の親柱に橋の名前がひらかなで彫られている。
シンプルに「よしわはし」となっている。
そして橋の竣工なのだが…
注意深く探せばこれより古い橋が市内にあることだろう。
しかしこれほど保存状態が良く、しかも現役で今も渡られている橋はそう多くはない筈だ。
撮影していると、隣接するJR山陽本線を貨物列車が通過していった。
(初めて写真を撮りに来た3年前もそうだった…)
もっとも山陽本線の歴史は明治期まで遡れるから、この善和橋ですらかすんで見えるほど古い。鉄道は小さな川や里道を跨ぐのにいくつもの橋を渡っているのだが、複線化される前の初代の橋で明治時代のものがごろごろしている。
(どの橋も橋台の銘板でその古さを確認できる)
鉄道の管理用通路近くから善和橋を撮影。
昭和期と言えど橋らしさの貫禄は古道の善和橋の方がずっと上だ。
農作業の道のようなこの未舗装路を無造作に古道と言い切ったが、実際現在の国道490号が造られるまではこちらの方がメインの道だった。
この先は鉄道に沿って伸びている。宇部には南北を貫く主立った道がなく、萩と連絡する道を造りたいという渡邊祐策の提唱したいわゆる「南北道路」の一部である。
今では想像するも困難だが、この道のなりから分かるように、かつてはJR山陽本線と平面交差(つまり踏切)していた。昭和中期に鉄道前後の区間を盛土し、現在の立体交差が造られた。
橋の上から国道を撮影。
国道の方は鋼製の橋で横断しており、両者の間にコンクリートの固定井堰がある。
欄干に大きな割れやひびなどはまったく見られない。
コンクリートでアーチ形に仕立てた意匠である。親柱に昭和6年の表示がある以上、この欄干部分も当時のものであることはほぼ疑いないだろう。
人や物資を安全に渡すのが橋の役目なら、本来このような欄干部分は転落防止の安全が果たせれば足りる。細々とした意匠を施す必要はない。
手間もかかるものを一つずつアーチ型の意匠を施しているあたり、機能一辺倒ではない審美性を意識した施工指向が窺える。換言すれば、それほどこの橋が待ち望まれたものであり長く大事に使っていきたいという気持ちが想像される。
冒頭の地図で分かる通り、南北道路が善和川を渡るのはこの場所だけである。即ち宇部市街部から北へ向かえば、小さな峠を越えて善和集落へ入ったとき、善和川は右手に位置する。両者は蛇行しつつ厚東川を目指すも、その位置関係が入れ替わるのはこの善和橋だけである。
(もっとも瓜生野へ至るまでに厚東川を田の小野橋で渡る…この架橋には大変な紆余曲折があったとされる)
両岸の接続部や下部構造も観察するために、川の中へ降りてみることにした。
(「善和橋【2】」へ続く)