田の小野橋

インデックスに戻る

現地踏査日:2015/4/22
記事公開日:2015/4/28
田の小野橋は国道490号が厚東川を渡る橋で、二俣瀬区の田の小野と瓜生野を結んでいる。
写真は田の小野側からの撮影。


橋の位置を地図で示す。


この記事を作成する現時点において現在ある橋は昭和38年による2代目のものである。
対面交通規格ながら路側部が狭く、厚東中学校方面への登下校に危険なためか上流側に別途歩道橋が併設されている。それ以外の景観的に特筆すべき橋ではないが、初代の橋が架かるまでの間には深遠な歴史があった。
《 歴史的背景 》
以下の記述の殆どは[1]を元にしている。
【 架橋時代以前 】
郷土関連の研究を行っている人たちにとってはよく知られた事実だが、二俣瀬村に関する明治期大正期の現存する公的記録は皆無に等しいほどに欠如している。これは二俣瀬村が宇部村に合併した際に古文書や記録類が廃棄処分されたためとされる。何故廃棄処分に至ったかなどの背景は明らかではない。ただし田の小野橋に関しては初代橋の架橋に至るまでの経緯を記した史料が伝えられており、当時の建設背景を知ることができる。

田の小野橋の100m南側で国道と市道田の小野車地線が分岐している。
国道490号は田の小野橋を渡って瓜生野交差点へ向かうが、当初は厚東川を渡らず川沿いに車地へ向かう右の分岐路しかなかったようだ。


もっともここで厚東川を渡り関口方面に向かいたいという通行需要はあり、また厚東川を挟んで田畑の耕作も行われていたため船渡しが行われていた。上流の木田橋は山陽街道筋にあたるためか明治初期には既に木橋が架かっていたようである。しかし田の小野橋は木橋として架けられたことは一度もなく、昭和初期のコンクリート橋が初代である。架橋が遅れたのは川幅の広さによる技術的問題のみではなかった。
【 架橋に至るまで 】
架橋が遅れたのは、当時の瓜生野区民による猛烈な反対があったためとされる。反対の理由は、瓜生野地区は木田と共に遙か昔から厚東川の氾濫による洪水に悩まされてきた歴史的事実があり、架橋において河床に橋脚を設置することで氾濫が酷くなることを懸念していたからである。[2]したがって架橋時代以前は専ら渡船に頼っていた。

この場所で渡船を営んでいたのは田の小野区民であった。対岸の瓜生野でも田を作っていたため共同の渡し船を所有し、他集落からの乗船についても渡し賃を徴収することで対応していた。しかし常時渡れる橋に比べて渡船は時間も労力も要った。洪水時などに岸辺へ繋留していた小舟が下流に流され回収に手間取ることもたびたび起きていたようである。

昭和7〜8年頃に県の補助で田の小野地区に灌漑用溜め池が造られたとき、県の派遣者から農道としての田の小野橋の架橋を県に陳情する案を提示された。そこで田の小野区民による耕地整理組合を創立し運動を始めた。架橋に係る費用は田の小野区民の寄付、他部落の有志による寄付や県の補助金を充てている。
こうして架橋工事に取りかかるも瓜生野区民による反対は熾烈だった。このとき田の小野側の岸にある大岩を取り除くことを条件に瓜生野側の同意を取り付けている。岩を取り除いた後でもなお瓜生野側の岸辺の方が田の小野側より数メートル低かった。しかし橋を水平にかけるべく瓜生野側に盛土することを認めなかったので、橋は架かったものの瓜生野側からは更に別の仮橋によって田の小野橋への上り下りが必要な状況だった。田の小野橋が架かり竣工式の餅撒きが行われた折も、瓜生野区民からは誰一人として餅を拾いに行く者が居なかったと伝えられる。

もっともそれほど強硬な反対がありながらも架橋工事を取り付けることができた背景には、他地区在住による啓蒙活動があった。架橋による恩恵は大きく、瓜生野区民もいたずらに反対ばかりせず公共のために協力すべきという粘り強い説得を行ったとされる。[3]
架橋記念碑
田の小野側の国道490号と市道田の小野車地線の分岐点に架橋記念碑が設置されている。


初代の田の小野橋架橋を記念したものであるが、石碑の背面にあった筈のプレートが剥がされ当初何が記録されていたか分からない状況になっている。これは田の小野橋の親柱が経年変化で滅失しているのとは別の要因があったのかも知れない。詳細は項目タイトルにリンクされた市道派生記事を参照のこと。
《 現在の状況 》
上流側に自転車と歩行者用の橋が並んで架かっている。
学童の通学用に後から架けられたのだろう。


橋は水平に架かっているが厚東川の土手は瓜生野側の方が数メートル低い。
現在は車が通れるように盛土されている。この高低差は宇部市街地側から田の小野橋を渡ったとき、瓜生野側で国道2号へ出るまでに若干の下り坂になっていることで体感される。
橋の架け替えや盛土に関して地元協議が問題なく進んだのかは不明である

河原からの撮影。


橋の真下からの撮影。
中央に橋脚を一基持つ構造である。


下流側に井戸のような構造物が見える。
正体はよく分かっていない。初代の田の小野橋に関する遺構かも知れないが、橋脚とみなすには構造的に無理がある。
詳細が判明次第追記する


現代の2代目の橋も恐らく初代の橋とまったく同じ位置に架けられたと思われる。
《 個人的関わり 》
親元の野山へ立ち寄った折りにはかならず通る場所である。現在でも月に数回車で通過している。
親父は現在ある2代目の橋について架橋工事に携わったと話していた。施工当時の詳細な聞き取りができるかも知れない。特筆に値する情報が得られれば追記する。
ハイブリッド方式で田の小野地区に自転車を運び込み踏査を行ったときのレポート。全2巻。
時系列記事: 田の小野橋【1】
出典および編集追記:

1.「二俣瀬小学校百年史」p.75〜77

2. 現代からすれば架橋のメリットが上回るという考え方が一般的だが、明治期から架かっていた木田橋も洪水で幾度も流失している。その状況を観察していた瓜生野区民が架橋に懸念を示したのを過剰反応と断ずることはできないだろう。

3. 啓蒙活動によって当時の瓜生野区民も架橋賛成へ転ずる者の存在があったと考えられる。このことは後述の「餅撒きには誰一人も参加しなかった」と矛盾するように思えるが、餅撒きに参加することで架橋賛成という態度を公言したも同然となり、架橋反対が区民の総意だったことから村八分を恐れてのことと考えられる。架橋を祝福したい瓜生野区民の存在は想像に難くない。しかし個人的な考えを抑圧して集落内で歩調を合わせる考え方は何も瓜生野地区に限ったことではなく昭和後期頃まで(どうかすると平成期でも現在でも)どの地区においても一般的だった。

ホームに戻る