恩田公会堂

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現地踏査日:2012/5/5
記事編集日:2014/5/4
最寄りの市道である市道恩田則貞線からは若干離れた場所に恩田公会堂がある。回数こそ多くはないが、幼少期に子ども会の集まりで通ったことのある思い出の場所の一つである。

恩田公会堂の位置を地図で示している。


もし車で恩田公会堂に行くとすれば、現在でも市道恩田則貞線を経由する道しかない。市道からの進入路については以下の派生記事を参照。
派生記事: 市道恩田則貞線から恩田公会堂へ至る道
国道を挟んで南側の5丁目に暮らしていた私たちはこの道を殆ど通らず、恩田交差点から里道を通って公会堂に行っていた。この道については恩田町に存在する生活道として記事化している。
派生記事: 国道より恩田公会堂へ向かう生活道
これは3年前に撮った映像である。
老朽化が酷かったからか、残念ながら3年前のこと、私にとっては十数年振りに訪れたときには既に改修された後だった。


正面からの眺め。
入口の扉はアルミ製に置き換わっていた。昔も同じ4枚戸だったが、枠の部分は木製だった。


玄関に飾られた木製の額は右から書かれている。この古さは琴芝公会堂と比肩するように思われる。
文字は恐らく当初書かれたそのままだろう


試すまでもなく入口の戸は施錠されているだろうし、仮に開いても今や内部は昔の面影が遺っていないと思った。
むしろ戸を開けて今の状況を目に焼き付けると古い記憶が上書きされてしまうような気がする

公会堂の敷地内には井戸がある。
ただし現在は使われていないようで上部は蓋で覆われており、ポンプなど汲み上げ用の設備は存在しない。


この井戸が封鎖されたのは相当に昔のことだ。私たちが幼少時代この公会堂へ来ていた頃から蓋が掛かっていたし、釣瓶など井戸関連の設備もまったくなかった。


時代考証の参考になりそうな遺構がここにある。
井戸の近くに立てられた石柱で、恩田山前青年中と読み取れる。


恩田山とは今では聞き慣れない言葉だが、古書ではこの近辺一帯を表現する呼称として登場する。清水川などかつての海岸線が近かった低湿地から見て恩田は丘陵部になり、小山として認識されていた。

石碑の裏側。
建てられた時期が今でも克明に読み取れる。


もっとも幼少期は恩田公会堂へ来るのには後述するような単一の用事のためで、この付近へ遊びに来たことはなかった。そのため公会堂の内部や造りは覚えていながら、敷地周辺のこうした石碑などはまったく記憶がない。

このたび公会堂の裏手を調査していて、古い石材と幟を固定するときに使った石柱を見つけた。


公会堂に隣接する畑の端で、もしかすると私有地になるのかも知れない。


文字は何も刻まれておらず、幟を固定する穴だけがあいている一般的なタイプだった。
私有地かも知れないので畑に踏み込むわけにもいかず、カメラだけ横向きに構えて撮影している。


先の恩田山前青年中の石碑と同様、かつてこの近辺で祭りが行われていたとき幟を固定するのに使われたのだろう。

公会堂を西側から撮影。
別の日の夕刻時に撮影しているので色調が赤味がかっている


西側からも公会堂に至る生活道があることが分かった。しかし周囲の景観がまったく見慣れないものなので幼少期に通ったことは殆どないと思う。
生活道路としても記事化していない

たまさか公会堂を再訪したとき中を見ることができて当時を偲ばせるものがあったら追加の写真を掲載しよう。
《 個人的関わり 》
恩田と言ってもかなり広い。特にかつて私たちが住んでいた現在の恩田5丁目からは国道を挟んでおり、歩いて行くには相応の距離があった。母は婦人会や地区の総会で何度か訪れたようだが、私にとっては恩田子ども会の演劇の稽古やイベントで訪れる用事だけだった。公会堂を訪れたのは小学校高学年までで、中学生以降は子ども会を「卒業」する形になるせいか殆ど訪れていない。あまりに年月が経ちすぎているので昔の恩田公会堂がどのようだったかの記憶は既に薄い。以下、少しでも確からしい記憶を元に記述してみた。

今の前身となる恩田公会堂は木造平屋で、現在の琴芝公会堂と造りは似た感じはある。ただし恐らくは恩田公会堂の方が全体的に大きい建物だったと思う。
屋根が正八角形状の形をしているが、かつては普通の三角屋根だった。側面は今よりガラス窓が多かった筈だ。このためカーテンを開ければ室内は明るかったが、壁面が少なく今から思えば耐震強度はなかったかも知れない。[1]

玄関を入ったところはコンクリートの土間になっていて木製の下駄箱が置かれていた。そこで靴を脱ぐと、上がり框を隔てて玄関と同じ4枚のガラス戸があった。
バリアフリーの流れもあって現在では上がり框そのものが言葉と共に絶滅危惧種かも知れない

内部はまったく間仕切りのない一面の板の間だった。濃い赤紫色の幅広な板材を敷き詰めた床で、一足先に到着した私たちは会が始まるまで室内を走り回っていた。靴下をはいた足で走ると床がよく滑った。別に走り回っても怒られることはなかったと思う。
エアコンなどは設置されていなかったが、真夏は両側の窓を全開すると風がよく通って結構涼しかった。しかし広い上に床が板の間なので冬場に集まったときにはござなどを敷いても非常に寒かった。
クリスマス会のときストーブを焚いて参加者はその周辺に寄り集まって座った記憶がある

今でも記憶に遺っているのは、天井の意匠が非常に凝っていた点である。玄関入口に見られるような正方形に似て梁の部分がずっと太い天井だった。その高さも現在の建物で言えば中二階に届く程度で、丸めた紙くずを子どもの力で投げ上げても天井に当たらなかった。それ以外にも何か装飾が施されていたような記憶がある。とにかく幼少期の自分にとっては、他の建物で見たことがないような天井だったのは確かだ。

正面は一段高いステージがあり、両袖に木製の階段が付属していた。ステージの前面には両側に開く幕があって演劇のときに重宝した。向かって右側のステージの横に勝手口があり、外に出られるようになっていた。その勝手口にほぼ隣接して小さな離れがあった。そこは炊事場とガスコンロが置かれていて、簡単な調理が出来るようになっていた。子ども会での新年会では、参加者に振る舞うぜんざいをここで調理していた。[2]

廃品回収やラジオ体操と同様で、子ども会のイベントも全員参加が原則だった。しかし休日ごとに出し物の稽古に時間を取られる上に遠いとなれば出席率は良くなかった。一計を案じた結果なのか、殆どのイベントではご褒美なしなのに対して子ども会の演劇稽古では参加すれば最後にお菓子が配られた。私は殆どお菓子をもらえることだけがモチベーションで恩田公会堂まで通った。

演劇では歌を覚えたり振り付けや台詞の稽古があった。兄貴が小学校を卒業するときは「花咲じいさん」の劇が組まれ、主役のお爺さんを演じている。
幼少期から消極的な子どもだったので、私自身は何の劇の役も演じようとしなかった。ただ、劇中歌を歌う要員が何人か必要で、女の子たちがそのパートを担当していた。役をするのが嫌な私は男の子一人だけとして歌の要員に回された。
劇中歌の曲名は覚えていない。うさぎが月で餅つきする様子を表現する歌だった。[3]子供心にも繰り返し練習は退屈で、女の子を笑わせようとわざと音程を外して歌うなどふざけた覚えがある。
こういう素因は大人になっても変わらないという見事な証明だ^^;

クリスマス会のときは一人200円以内でプレゼントを用意して持ち寄り、外から見えなくした状態で包装した。全員が輪になって歌を歌いながらプレゼントを回し、ランダムに行き渡るプレゼント会が開催された。
探せばまだ当時のクリスマス会案内のチラシが手元に残っていると思う

子ども会という存在により地区の子どもや保護者同士の繋がりは確かに深かった。学校の外でも地区や子ども同士で自治の精神が培われていた時代だった。
出典および編集追記:

1. 建て替えの契機となったのは、平成初期に宇部を襲い、常盤公園のサボテンセンターも倒壊させた台風であったと思う。側面に窓が多い構造が災いした。どの程度破壊されたかは分からないがかなり酷い被害を受けたようなことを親から聞かされた。

2. 社会人になって一度だけ仕事で恩田公会堂の離れの調理場を訪れたことがある。補修などの見積依頼だったのかも知れないが詳細は覚えていない。

3. 歌詞に現れるキーワード程度しか覚えていない。「うさぎ、うさぎが集まって…踊り、おどりを踊りますー。ぺったん、ぺったん、ぺーったんこー」
検索を試みたが何の歌もヒットしなかった。

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