市道恩田則貞線

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記事作成日:2016/7/7
市道恩田則貞(おんだ・のりさだ)線は、芝中町の北側の端より東進し、恩田公会堂の裏を経て国道190号則貞交差点付近に至る認定市道である。
写真は起点付近。右側に見えるのは恩田笹山芝中共同墓地。


ルートラボを載せる。


後述するように、この道は現在の市街部へ人々が住み着き始めた頃から常盤池の本土手方面との主要な往還路だったと考えられている。車が通れる道路としては現在も幅が狭く、最も広い起点付近でも1.5車線相当である。物理的には市街部から則貞方面への最短経路にはなるが、現在は他に道路幅の広い道が複数整備されているため地元在住者および近隣地域の車両通行が主体で、単純な通り抜け目的の通行は少ない。離合困難な区間には一方通行制限が課せられている。
《 経路の概要 》
恩田笹山芝中共用墓地の角地から市道名切笹山線と袂を分かつ形で東へ向かう。恩田笹山芝中共同墓地は市街部へ人々が住み着き始めた初期に造られ現在も援用されている墓地の一つである。[1]


起点より暫くはフラットな道で、冒頭の画像にあるように概ね直線でほぼ正確に東西方向である。これは内陸開作の境目であったことを物語る。途中で宇部線を恩田通踏切で横切る。この名称からも本路線が恩田方面への主要な道であったことが推察される。[2]

踏切を過ぎると対面交通の市道宇部新川恩田線を斜めに横切る。この交差点の通過車両は極めて多いが信号機はない。


斜めに交わる構造上起点から見て左側からの車が見えづらく、事故の多い要注意地点である。横断歩道には減速を促すカラー舗装が追加された。横断した先では北へ向かって伸びる市道清水崎恩田線が分岐している。この道の直線性も内陸開作の畦畔由来である。

本路線は恩田山の水を集めて流れる自然由来の水路に沿って遡行する。先の交差点を過ぎてからは民家の密度が下がり木々の緑も増えて市街部の端へ来たことを思わせる。恩田公会堂の横を過ぎてからは少しずつ恩田山に向かって高度を上げていく。
恩田青果市場の前で市道清水川恩田線がクランク状に横切っている。青果市場の前の緩やかな坂道を経て恩田交差点へ向かう昔からの道(市道恩田線)を横切る。ここは本路線にて四輪の交通制御に係る信号機がある唯一の交差点である。十字路から左方向に枝道が延びており、更に進んだ先では極めて交通量の多い市道神原町草江線を横切る。

この辺りは道路構造が複雑になっているが、踏みつけ道に始まる自然発生由来の道は本路線とここより分岐して野球場の前を通る道(市道恩田野中線)のみである。市道恩田線は産業道路建設に伴う延伸であるし、市道神原町草江線に至っては平成期の築造である。

市道恩田線を横切った先ですぐ市道神原町草江線を斜めに横切る。本路線が最初期の道であるにもかかわらず、車社会の現在においては対面交通の市道神原町草江線の交通量の方が圧倒的に多いため、信号機も横断歩道もなく現状は直接本路線を走り抜けるのも困難となっている。また、市道神原町草江線を横切った先は道路幅が狭く離合困難なため終点側からの終日一方通行規制となっている。
軽車両での通行は問題ない

市道神原町草江線を横切って少し高度を上げてからは本路線は暫く直線路となる。この辺りは昔から恩田山のうちの広い丘陵地帯であった。起伏は少ないものの最初期の周辺の田畑は不定形なので、現在の野球場を建設する際の敷地確保と周辺の整備で改変されたものと思われる。
陸上競技場への入口の一部である市道野原線を横切ると、本路線は沢地へ向かって下り坂になる。恩田地区にあるもっとも大きな沢で、南側で長沢による沢と一つになっている。沢の両端に中川と明神川の上流に相当する河川が流れている。本路線は忠実に地形をなぞる半面、国道はこの沢地を盛土によりフラットで通過している。

国道を斜めに横断し、市道草江五十目山線へ接続し終点となる。
市道草江五十目山線を横切って直進する道は地区道であるが、草江の海岸まで降りる自然発生由来の道のようである。


市道草江五十目山線から本路線の終点を辿ることで国道の則貞交差点を介さずに恩田方面へ出られるので、信号待ちを避けてこの区間を用いてショートカットする車が多い。
【路線データ】

名称市道恩田則貞線
路線番号436
起点市道名切笹山線・分岐点
終点市道草江五十目山線・交点
延長約1.6km
通行制限市道恩田線〜野原線交差部は終日一方通行
国道190号交差部の一般車両横断通行は相互に不可
備考

延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください
出典および編集追記:

1. かつて緑ヶ浜にあった多くの墓地が道路建設や居住地確保に伴い移設されている。

2. ただし現在の市道恩田通り線はこれとは異なった路線に与えられている。
《 歴史 》
【 最初期 】
人々が現在の市街部相当地域へ住み着き始めたのは、新川が掘削され水害が軽減されると共に灌漑用水の安定確保が実現した江戸期からである。新川方面や梶返地区など場所によって他の経路は存在したとしても、本路線は恩田や則貞、更には常盤池本土手および西岐波村を往来する自然発生由来の道の一つと考えられる。多少なりとも経路の変更はあっただろうが、本路線のすべてがその往還路の原形に含まれていたであろう。

本路線の起点は、恩田笹山芝中共同墓地の分岐点にある。ここは緑ヶ浜の砂州の内陸部端に当たり、市道名切笹山線は少し高度を上げて地山となっている。この墓地も最初期から海水の影響を受けない場所だったと思われる。これより市街部側は緑橋通りを経由して上町通りまで伸びていたようである。大正12年発刊の宇部市新地図には、それほど明瞭ではないが本路線とみられる経路が記載されている。特に明白なのは本路線と後年造られた市道宇部新川恩田線とのスライスする交差点付近である。ここから北へ直線的に伸びる市道清水崎恩田線の原形は記載されているが、市道宇部新川恩田線に相当する道はまだない。対面交通の幅とその直線的な線形から、昭和期に入って造られた新しい道と考えられる。

イレギュラーな形の交差点を過ぎると、本路線は暫く市道宇部新川恩田線と併走状態となっている。
間に民家一軒挟む程度の幅で50m程度続き、家のないところでは相互に道が見える。


車の往来が可能な道が並行することは稀で、通常は幅の広い道が狭い道を統合するように建設される。この道路状況は早くに認識されていたが、過去の航空映像や地図を解析することにより、市道宇部新川恩田線の直線性を保つためと本路線と2箇所で三差路が生じてしまうのを避けるためだったと推察される。本路線を取り込む線形にすると三差路が2箇所に生じてしまうことと市道宇部新川恩田線の直線性を保ちたかったことも理由かも知れない。[1]この直線路を建設する当時は未だ本路線は重要な地位を保っていた筈で、交差点を斜めの一箇所にして路線の独立性を保ちたかったようである。
以上の記述は市道宇部新川恩田線の総括記事を作成した折には移動する予定

本路線のここより東側は本路線は恩田水路に沿って自然なカーブが目立ち、地形に呼応する自然発生の道と考えられる。道中には恩田山の南の端と言える石積みが観察される。
以前からあったのだが道路際の家が解き退かれたことで観察され始めた


終点は市道草江五十目山線へ接続される形で終わっているが、最初期の道はおそらく現在の国道に飲み込まれている。常盤池本土手方面の道は、常盤水路の西幹線を遡行する市道則貞常盤公園線を経て現在の常盤公園の丘陵部を登っていく道であろう。この路線の末端部は現在の常盤公園の遊園エリアを通っており、当該区間は既に喪われている。ただし常盤公園動物園以前の昭和30年代以前の航空映像では現在の園内を通って本土手へ向かう道が明白に確認できる。
【 後年の道路整備 】
稲作時代までは田畑の面積が主要であり、往還路は人馬が安泰に通行可能な幅があれば足りると考えられていたので、三尺里道に始まって段階的に拡げられた筈である。現在の舗装路が整備されたのは昭和中期以降と考えている。起点より市道宇部新川恩田線交点までは1.5車線相当の広さがあるが、それより東側では終点まで離合困難な1.2車線程度となる。これは実際の車の往来需要に呼応している。

個人的関わりの始まった学童期から現在まで拡幅されたり線形改良された区間はない。2014年に恩田町2丁目の本路線通過区間両側の田が新興住宅地となったとき路肩に側溝が整備されたために実質的な幅は若干広くなっている。
出典および編集追記:

1.この推論は最初に「FBページ|2017/7/5の投稿」に書いたものをまとめている。(要ログイン)
一連の推論は、以下の米軍撮影によるモノクロ航空映像を元に解析している。
宇部東部(M114)1947/03/12(昭和22年)米軍撮影の航空映像
画面左下の高解像度表示ボタンを押すと詳細画像が閲覧できる
起点から終点まで自転車で実走したときの時系列レポート。かなり早い時期での作成であり現在は沿線の風景が変わっている場所が多い。全3巻。
時系列記事: 市道恩田則貞線【1】

本路線の沿線にある派生的項目。
派生記事: 市道恩田則貞線・横話
《 Googleストリートビュー 》
市道恩田線〜市道神原町草江線を横断する区間と終点付近を除いて採取されている。画像は起点の映像。


左への分岐が本路線である。
《 個人的関わり 》
恩田在住期は市街地までの往還の主要ルートとして自転車でよく通った道である。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

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