サンシャインリバー

商業・民間施設インデックスに戻る

記事作成日:2019/6/7
サンシャインリバーとはかつて大字善和字牛明に存在していた流水プールで、サンシャインプールとも呼ばれていた。
かつて流水プールのあった位置にマーカーを固定した航空映像を示す。


航空映像でも分かるように、既にプールは存在しない。平成期に入って一連の施設は営業終了した後に併設されていたゴルフ打ちっ放しの練習場と共にすべて取り壊され、現在は敷地全体が川上17区牛明自治会の住宅地および企業向け用地となっている。プールは個人的に数回利用したことがあるものの当時の写真は手元にない。現地に何か当時の痕跡がないか撮影を行った後で情報収集を求めて[1]で題材投下したところ、平成初期のことでもあり多くの方から情報が寄せられた。これらを元に現地の今の状況の映像と共に記述する。
《 概要 》
以下のモノクロ写真は、1992/11/2(平成4年)に国土地理院の撮影した航空映像からの該当部分である。[3]
映像では下(南側)の方に特徴的な流水プールの概形が見てとれる。


県道西岐波吉見線からの進入路は一本のみで、敷地の大部分はゴルフ練習場である。ゴルフ練習場と併設されていたことから経営母体は同一と思われるが詳細は分からない。西岐波にサンシャインという服屋があり、流水プールの名称は経営者と屋号に由来するという話もある。[1]学生時期に泳ぎに来たことがあることから、営業開始は昭和62年頃と思われる。

プールは屋外式で、上記の航空映像で見られるような陸上競技場のトラックを少し歪めたような形をしていた。映像では単一の池のように見えるが、実際には中央に島状領域があって幅数メートルの閉曲線路だった。深さは1.2m程度で子どもでは足が届かなかった。このプール一つのみで恩田の市営プールのような複数の構成ではなかったと思う。

立地やその形状もさることながら、最大の特徴は恐らく市内初の流水プールという点にあった。常時プールの水は逆時計回りにかなり速く流れていて逆回転はなかったと思う。順方向へ泳ぐのは容易でも逆流方向へ泳ぐことはまず出来なかった。子どもなどは浮き袋にしがみついているだけでどんどん流されていくので、泳げない子どもでも浮いているだけで労力を要さず遊泳気分を味わえる効果があった。水の事故を防ぐため、市営プールと同様に定期的な点検タイムがあり監視員もプールサイドに常駐していた。点検時には流水は停止された。

恐らく中の島にスライダーが設置されていた。これは現在のココランド(旧厚生年金センター)にあるプールと同様な筒状のもので、梯子を登って筒の中に入り、若干の流水と筒の滑りやすさで一気に滑り降りるというものである。ぐるぐる回る流路へ直接滑り落ちると泳ぐ人と接触して怪我をする恐れがあるため、スライダーの排出口は中の島にある流水の影響が及ばない緩衝地帯へ設置されていた。泳ぎの達者な人でも流水に身を置き続けるのは疲れるため、この緩衝地帯で休むこともあった。

プールサイドには自動販売機と日射を避けられる庇つきのベンチ程度で特別な設備はなかったと思う。受付で料金を支払うとロッカーの鍵を渡され、更衣室で着替えてシャワー室を通ってプールに出ていた。ロッカーの鍵は泳いでいる最中なくすことがないように太いゴムがくくりつけられ、遊泳中も手首に巻いていた。料金は小中高生でも500〜800円くらいで当時としてはかなり強気の値段設定に思えた。子どもでも料金が高いために泳ぎに行かないよう指導していた小学校があった模様。[1]

後述するように日没後もプールサイドの外灯を点灯することで夜間営業していた。夜間割増料金があったかは分からない。プールは屋外吹きさらしで加温もしていなかったため、夏季シーズンのみの営業だったと思われる。
【 営業末期 】
サンシャインリバーがいつ頃まで営業していたか分かっていない。現在の川上17区牛明自治会のある住宅地は、平成10年頃に一般住宅と企業団地の混成として36区画を整備し、翌年平成11年より売出が開始している。平成13年に住宅地へ最初の2戸が入居することで牛明自治会が誕生したとされている。[4]したがって営業終了は平成10年以前と思われる。

県道西岐波吉見線のこの区間は車で通る機会が少なく、変化は完全には把握していなかった。それでも流水プールで泳いだ記憶は鮮明であり、ここを通るとき県道から何度か観察している。閉鎖されてからは県道の出入口にロープか鉄柵で塞がれていたような曖昧な記憶もある。閉鎖後最終的には裁判所による競売物件として売りに出されたという報告もある。[1]

競売に出されたという経緯から、末期には集客力を失って経営難に陥った可能性がある。市内唯一の流水プールという点での優位性は揺らがなかったが、昭和後期から平成初期にかけては世はバブルの様相を呈しており、市内各地にいくつかのアミューズメントが新設された時期であった。明神町にできたワンダーボウルや流川のユーズボウルなどボウリング場やゲームセンターが誕生し、人々が近場でレジャーを愉しめる選択肢が増えていったのが要因と思われる。
《 現在の状況 》
この総括記事を作成するにあたって現地を歩行踏査した。車は県道西岐波吉見線の線形改良により取り残されたホテル前の旧道部分に停めて歩いた。

写真は県道からの出入口。
当時と進入路の線形はあまり変わらないが、もしかすると流水プール時代は未舗装路だったかも知れない。


ゴルフ練習場と流水プールで敷地全体は造成済みだったので、現在の住宅地は全体を統合した上で宅盤整備し分割されたようである。ゴルフ練習場の外周をなぞるように宅内道路が整備されている。

最も南寄りの山の斜面を削る形で流水プールが設置されていた。
下の写真では右側がプールのあった位置である。


プールのあったと思われる場所は既に個人宅および事業所の敷地となっているためカメラを向けていない。宅内道路から観察した限りでもプール関連のものは完全に除却されているように思われた。

自治会のゴミステーション付近。すぐ後ろに藪へ包まれたブロック塀が見えかけている。
このブロック塀はプール時代のものかも知れない。


このブロック塀の後ろ側を丹念に観察すればあるいは駐車場時代やプール関連の遺構が現れるかも知れないが、社有地でもあり観察はしていない。なお、現地を調べる積もりになったのは、これ以前にホテル錦水付近にある山陽自動車道の宇部本線料金所に向かう専用道入口を調べる過程で牛明地区を訪れたことに依る。[5] 流水プールの存在は当然覚えてはいたが、県道からも住宅地になっているのが見えているため当時のものは何も遺っていないだろうと考えて調査していなかった。
出典および編集追記:

1.「FBページ|2019/6/6の投稿

2.「FBタイムライン|痕跡探し(2019/6/6)

3.「国土地理院|1992/11/2撮影の高解像度表示より周辺部分を含めて閲覧・ダウンロードできる。
なお、400dpiの航空映像は出典を明示すれば利用可能であるのでこの総括記事より部分画像をそのまま掲載している。1200dpi画像の閲覧および利用には購入手続きが必要である。

4.「歴史散策かわかみ」p.126

5.「FBタイムライン|大字善和字牛明(2019/5/21)

《 Googleストリートビュー 》
牛明自治会の宅内道路が採取されている。
映像は県道西岐波吉見線側の出入口。2013年5月データ採取。

ゴミステーションの背後に建築ブロック塀があり、その後ろに球状の外灯が見えている。この外灯は明らかに建築ブロックの内側にあって藪に埋もれている上に近傍の電柱からの電線が繋がっていないため、流水プールが営業していたときの駐車場の外灯かも知れない。
《 個人的関わり 》
既に存在しない施設であり、個人的関わりのあった時期もそれほど長くないので全文を既定で表示状態にしている。
【 学生期 】
初めてプールに行ったのが正確にいつのことかは分からないが、社会人になる前に少なくとも一度は訪れている。大学を卒業する前のこと、小学5〜6年生の生徒を家庭教師で受け持っていた。夏休みに入って流水プールに行きたいけど子どもたちだけで行けないからとせがまれ、自分も物珍しさで行ってみたい気持ちがあったので引率者役となって連れて行ったことがある。教え子の生徒とその友達の男の子ばかり4〜5人だった。生徒の家から自転車で引率したと思う。引率するだけでプールでは別々に泳いだ。小学生では足が届かない程度に深いので危険ではあったが、当時は泳ぎに来ている人がとても多いため誰かが溺れればすぐに分かるので心配はしていなかった。

現地での記憶は殆どなく、私が潜水で10mくらい流水プールの底を泳ぐのを見せたとき生徒たちが驚いていたのを覚えている。この時の記憶はその程度だが、当時は日記をつけていたので何か書いているかも知れない。また、この時に泳ぎに来たのが最初だったかは不明である。
【 社会人 】
社会人になってすぐ付き合い始めた彼女と一度は泳ぎに来ている。このときは夜間だった。恩田運動公園にある市営プールは午後5〜6時頃まで営業していたが、流水プールは夜9〜10時頃まで営業していた。夏場とは言え当然真っ暗になるのでプールサイドにある外灯に明かりが灯った。プールのすぐ外は笹藪で、笹の葉が流路に落ちていた。外灯を頼りに山から蛾が飛んで来る蛾もそのまま流されていた。夜間営業では泳ぐ人がそれほど多くはなかったものの自分たちだけではなかった。夜泳ぐという雰囲気を味わえるメリットだけで、水がとても冷たく長時間泳いでいられなかった。

このときは印象的な事件があった。当時既に眼鏡を掛けるようになっていたのだが、不注意にも眼鏡をしたまま泳いでプールに落下させてしまい行方が分からなくなった。水上に顔を出して暫く経ってから眼鏡がなくなっていることに気付いたため、どの辺りでなくしたかまるで見当がつかなかった。現在では眼鏡など安く手に入るのだが、当時は専門店で誂えた数万円する眼鏡でしかも車で来ていて予備の眼鏡もなかったため、見つけなければ帰宅することも出来ない状況だった。プールは広大な上に水が流れているため自力で探すなどままならなかった。

監視人に相談したところ、流水を停止した後で探しますからお待ち下さいと言われた。営業終了時刻までそれほどなかったことも幸いだった。私たちは営業時間終了まで滞在し、流水が停止すると同時にプールへ入って探した。水深がある上に殆どガラス製のレンズは透明なので目視では水中へ潜ってもまるで分からず、足でプールの底をまさぐって調べた。このとき監視人が流路へ入るや短時間で眼鏡を見つけてくれている。流水プールは完全なトラック状ではなく一部が歪んでおり、水流の弱くなる場所があって落としたものはそこへ留まりやすいと話していた。この時のことも日記に書いているかも知れない。
《 その他 》
上記の個人的関わりを含めて、大半が当時を知る読者の報告や自身の曖昧な記憶を元に記述している。記載されている以外の情報をお持ちの方はお寄せ頂ければこの総括記事に反映させる。流水プールなど関連する写真も掲載可能である。既に存在しない単一の小口な物件ではあるが、時代が新しくなり今や平成時代でも初期のものは記録がなければ当時を知ることが困難になってきている。

ホームに戻る