維新山

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記事作成日:2023/8/17
最終編集日:2023/8/21
ここでは、宇部市内に存在する地名としての維新山(いしんやま)について記述している。
写真は地元管理の維新山公園の標識柱。


維新山は小羽山地区にあり、所在地としては大字中宇部にあたる。かなり特異な地名であり、市内のその他に同名の地名は存在しない。地区外での知名度はそれほど高くないが、郷土史研究者や小羽山地区の広域で活動している人たちは維新山というだけで概ねどの辺りか知っている。

現在は鳴水、西沖田を含めて小羽山3区の自治会区の名称となっている。小字名としての字維新山は、所在地表記としては大字中宇部××番地に相当する。現在は小字表記そのものを行わないため、住所名として維新山が書かれることは殆どない。

代表的な史跡として、宇部護国神社は維新山にある。初期は崩招魂社、後に維新招魂社と呼ばれるようになったのは、そのまま地名から由来している。漢字表記だけを見ると明治維新に関係があるのではと想像されるだろう。あながち無関係ではないが、読みとなる「いしん山」なる地名(および山の名)は明治維新より遙か昔から存在していたことが分かっている。詳しくは歴史の項目で後述する。
《 現地の維新山 》
字維新山の位置および範囲は概ね以下の通り。
小字絵図を元に地理院地図の重ね描き機能を用いて、他の小字と共に復元している。


字維新山は、大字中宇部に属している。東側の赤線は大字上宇部との境、西側の赤線は大字小串との境を示している。この辺りは住居表示対象区域から外れているので、現在でも登記簿などの厳密な地先表示では字西山や字岡ノ辻が表記される。
【 維新山の地勢 】
宇部護国神社の参道を訪れた人なら理解されるように、維新山は山野の中腹にある。より正確には、北東から南西に向かって伸びる尾根の南東側斜面である。このため尾根に沿った方向の道筋は平坦なのに対し、尾根を横切る方向の道は極端な坂道か階段である。かなり角度のきつい傾斜であるが、急傾斜地指定はされていない。ただし過去には斜面が崩れる現象は起きている。

傾斜地にあるため、土地利用としては東側の市道沿いには新興住宅地があるものの、その他のエリアは概ね昔からの民家が散在する程度である。特に宇部護国神社のある側は雑木林の状態に保たれている。傾斜地の麓ではよく見られるように、山野へ降った雨が永年かけて移動し良質の湧き水を供給している。宇部護国神社を始めとして一部の民家では現在でも飲用に適する井戸を使っている。

地名の由来で後述するように、維新山を含めた周辺は岩質の山の上に風化した土壌が乗った地形と考えられる。ただし現在の地形がオリジナルのものとは言えず、居住や耕作地として適するように早い段階で手を加えられたようである。

随所でみられる大きな割石は、緻密で硬い中に霜降りのような白い斑点がみられるものが多い。宇部護国神社を含めて維新山の南東に面した斜面にかなり目立つ。


石切場のような場所は知られていない。しかしこれほどの石材を別の場所から調達するとなれば非常な労力を要するので、風化した粘土が表土として覆っているだけで少し掘れば岩の多い山なのかも知れない。
《 維新山にある物件 》
史跡は現存するものの他に未発見のものが含まれる。ただし私有地に存在するものは、写真を示さず概要を記述するに留めている。
【 宇部護国神社 】
宇部の基礎を創った福原公由来の神社で、維新山のみならず宇部の代表的な史跡である。この場所を特に選定して造られたのは元からの地名にまで遡ると想像される。詳細は項目に張られたリンクを参照。
崩の坂
上宇部と小串の往還路とされ、大変に古くからあった坂道。特に坂の上部付近では両側から鬱蒼と垂れ込める樹木で常に暗いことから幽霊坂と呼ばれた時期もあった。詳細は項目のリンクを参照。

2023年8月に最後の狭隘区間の法面補修工事が始まる予定。
【 崩の道標 】
崩しの坂の最下部、市道維新山西山線との分岐点に存在していたと考えられる。
写真は現物を撮ったカラー写真のデジカメ接写画像。
(出典:小羽山小学校寄贈写真)


名称は崩の道標とあるが、カラー写真で後掲する写真の練積ブロックが写っていることから坂の中腹よりやや下側の維新山側に存在していたと考えられる。ただし道標は辻に置かれるものであるから、最初期は市道維新山西山線との分岐点にあったかも知れない。石碑に刻まれた内容からある程度判明するが、実物が何処へ移設されたかは分かっていない。[1]

この他、崩の坂の最上部私有地に庚申塚が存在するようで、同様にカラー写真が見つかっている。
【 林仙輔の墓 】
宇部市長の2代目を務めた林仙輔の墓は維新山に存在する。ただし私有地にあるため見学したい場合にはかならず関係者の承諾を得てからにしたい。

林仙輔は若かりし頃の渡邊祐策が教師になろうとして家族に引き留められ断念した後、役所勤めを勧めた人物だった。後に渡邊祐策が炭鉱経営で初期の成果が芳しくなく金策に行き詰まったとき、資金を用立てしたのも林仙輔である。

ちなみに渡邊祐策の墓は生誕地である島ではなく、厚南の蓮光寺にある。詳細は人物カテゴリを参照。
《 地名の成り立ち 》
冒頭に書いたように現在は維新山と漢字表記されるこの地名は、明治維新よりもずっと昔から大元となる地名または山野名として存在していた。この間接的証拠となる客観資料がいくつか知られている。

享保年間に作成された地下上申絵図の小串付近。
左下に「い志ん山」の筆書きがみられる。
出典:地下上申絵図(県文書館所管)


すぐ北にある「うしころひ山」と共に、別途和紙を切ったものに筆書きして貼り付けている。このため制作完了して藩に提出した時点にはなく、後付けで追加された可能性もある。

ただし江戸期には少なくとも山の名として存在していたことは、防長風土注進案に村内の御給主御立山として 意信山 貳町五反 と記載されていることから明白である。漢字表記の「意信山」は、別の文献では「意心山」と書かれているものもあり、意も信も観念を表す漢字で地勢とはまるで無縁なので、音のみを適当に借りてあてがったと考えるべきである。由来を考えるにあたっては「いしんやま」という読み方のみが本質である。

明治初期の地名をまとめた地名明細書では、中宇部村の中村小村に小名の筆頭格として記載されている。配下には岡ノ辻、崩、西山、いか土、上人塚の小名が収録されている。
【 石ノ山由来説 】
個人的には地名の「いしんやま」は、石がちな山を示す「石ノ山」に由来すると考えている。その理由は以下の2つに依拠する。
(1) 助詞の「ノ」が「ン」に転訛する例が他にもみられること
(2) 隣接する崩が崩山(くずしやま)に由来していること
地名に現れる「の」は、芝ノ中や迫の田といった「AにあるB」の如く一時的な代替表現として発生している。芝ノ中は江戸期には柴ノ内(シハノウチ)であり、これは丈の短い草が生える湿地帯の中という表現であり、迫の田は谷間にある田を意味している。このような地名は、殆どが後年「の」が脱落するか転訛した「ン」に置き換わっている。芝ノ中は後年芝中と書かれながらも読みは昭和中期頃まで「しばのなか」だった。迫の田も迫田と書かれることが多いが、現地の字名は現在でも迫ノ田が正規であり、江戸期は迫田(さこんだ)と読まれていた。

したがって元々が石がちな山だった「石ノ山」が「いしんやま」の読みに転訛することは、ごく自然なことと言える。現状は特に岩がちな地形はみられないが、宇部護国神社周辺には現地から切り出して積み上げたと思われる石積みがある。

隣接する小串村の崩は、近年まで崩山と呼ばれていた証拠がいくつかある。崩しの坂に向かう経路に沿って設置された家庭用配電線の柱には「クズシヤマ」ないしは「崩山」の表記が入ったプレートがみられる。宇部護国神社は維新山に属するのだが、以前は維新招魂社と呼ばれ、更に遡れば崩招魂社と呼ばれていた。これは小字名由来ではなく、維新山を含む周辺が崩山と呼ばれていた可能性を示唆する。
【 維新山という表記の定着 】
漢字表記で維新山と書かれるようになったのは福原越後公自刃後、藩から罪状を解かれ招魂社を建ててから以後と考えられる。元治元年(1864年)に福原公が自刃し、その翌年となる慶応元年(1865年)に藩の許可を得てまず琴崎神社(今の琴崎八幡宮)に合祀された。更に翌年慶應2年(1966年)に藩の主導権が維新派に渡ることで福原家の罪状を解かれ、功労者として現在の宇部護国神社の元となる崩招魂場の社殿が落成された。

慶応の後に明治と元号が改まったのは1868年であり、後に維新招魂社と呼ばれるようになったのはこの頃からかも知れない。ただし維新それ自体は普通名詞であり、明治維新がすぐに想像されるもののそれ以前からあった言葉である。崩招魂場がこの地に選ばれたのはまったくの偶然とは思われない。「いしんやま」=「維新山」という連想が働き、この地を選好して設立されたのではないだろうか。
《 隣接する小字 》
冒頭の地図で示したように、維新山は大字中宇部内に西山、岡ノ辻、西岩田と大字小串の崩と隣接している。
【 崩(くずし)との隣接状況 】
市道丸山黒岩小串線の終点付近にあたり、尾根を直角に登るきつい崩の坂より南西側が字崩である。この道は上宇部から小串へ抜ける古くからの往還路であり、現在でもこの道筋が大字中宇部と大字小串のみならず、学校区の小羽山地区と新川地区の境にもなっている。


近年、崩の坂に沿って新興住宅が雛壇状に建ち並んだ。平成初期頃までは曲がりくねって途中での車の離合も困難な坂道であった。崩という字名は、維新山周辺も含めた崩山という山の名に由来している。
【 西山との隣接状況 】
崩しの坂を登り切った地点は、昔の県道琴芝際波線(現在は市道小串小羽山線)の急カーブとして知られる。これより宇部護国神社の裏手へ伸びる地区道があり、これが維新山と西山の境である。


写真のように、維新山が斜面であるのに対して西山側は平坦地である。風化した粘土質で覆われた山だったようで、これを切り崩して開拓したものと思われる。
【 西岩田との隣接状況 】
崩しの坂の麓から山野の麓を辿る道(市道維新山西山線)が維新山と西岩田の境である。
この道は途中から四輪の通行ができなくなる昔ながらの道を遺している。写真は宇部護国神社前に至るまでの車両通行不能区間。


麓から真締川までの間が西岩田であり、特に真締川筋の土手は古くは宥免土手(ゆめんどて・ゆうめんどて)[2]と呼ばれていた。
【 岡ノ辻との隣接状況 】
現在では岡ノ辻と言えば黒岩山の南側にある地区の方が知名度が高い。しかし岡ノ辻という地名は市内随所にみられ、ここでは宇部護国神社から北東側の牛転び坂に隣接する部分である。
写真は宇部護国神社の上参道にある鳥居。


境界は冒頭に示した地図のように奇妙にギザギザした折れ線として描かれており、これは上参道とは一致しない。字岡ノ辻にはキリスト教関連の墓地が存在していたことが分かっており、今は通行者が殆どないが墓地へ上がる小径が見つかっている。この小径を反映したものかも知れない。
この総括記事以前に作成されていた維新山の項目。
派生記事: 市道維新山線|地名としての維新山について
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」(黒木甫)でも”崩しの道標は確認していない”という記述がみられる。

2. 油免土手という表記もみられる。菜種油を採取するための菜の花植え付けなど租税を免除された地に由来するという説がある。

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