小学校の授業(恩田小学校・昭和40年代)

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ここでは、主に小学校時代の各教科の授業を含めて週単位で反復される経常的な活動について項目毎に記述する。
学校の校門をくぐってから下校するまでの全てが授業であり、朝礼から給食、掃除に至るまですべてが広義の授業の一環とみなされる。それらのうち科目の授業以外の部分については小学校の日常生活に記載した。更に反復頻度が少ないか殆どない単発的な行事は小学校の行事の項目で述べている。当面は全部を一括記述するが、記述項目が多くなったら各科目の授業と、授業に該当しない朝礼や給食などを分割する予定である。

自身の学童期における体験に基づいた話なので時代は昭和40年代半ば〜昭和50年代前半である。特段の必要ある場合を除いて個人的関わりの項目も分離せずそのまま本編に盛り込んでいる。
《 授業に関する総括 》
【 日課 】
授業は各教科とも45分で、合間に5分間の予備の時間が設定されていた。この45分単位は一般には「時限」と呼ばれる。しかし小学校時代は(実際には一時間に満たないのだが)この単位を「一時間目」「二時間目」と呼んでいた。午前中に4時限分、午後に最大2時限分の授業が行われるのは現在と同じである。午前と午後の終わりの授業を除いて挿入される5分間は、トイレに行く時間や次の教科の準備を行うためのものだった。

午前中は常に4時限の授業が行われ、午前と午後の授業の間に給食と昼休みが入った。午後は最大2時限の授業があってその後で掃除、終礼という順だった。昭和期は週休二日制とは無縁な社会だったので、土曜日も午前4時限の授業があった。それ以外の平日は6時限が基本だが、水曜日あたりに5時限となる日が一日だけあった。
一般には45分という時限枠は固定されたものであり分割されることはなかったが、2時限分を併合させることは割と頻繁にあった。例えば国語で何かの作品を読んで感想を作文にするという課題では1時限では足りなかった。体育も学年によっては複数のクラスを併せて倍の時間を費やして行う授業(合体)があった。そのような併合の2連続で日課表が「国国体体」のようになることもあった。

各曜日の時限に何の授業が行われるかを割り当てたスケジュール表がいわゆる日課表である。日課表は学期単位で更新された。次の授業が何かすぐ分かるように各クラスの黒板の横の壁にはかならず大きな日課表が貼られていたし、子ども部屋の机の横には毎月の給食の献立表に並んで日課表を貼るのが定番だった。子どもたちは日課表を見て翌日学校へ持っていく教科書とノートをランドセルに入れから就寝するものだった。
朝起きてから当日の教科書やノートを慌てて揃えるのはだらしない子どものすることだった
【 持参するもの 】
学校では当日使う教科書やノートを机の中へ置き去りにするのを認めていなかった。辞書なども例外ではなくすべて一旦家に持ち帰り、カバンに詰めて持参する必要があった。低学年および中学年時までは木製の机で上に蓋が付いているタイプだったが、高学年ではスチール机となり横から入れるタイプになった。これは横から見ないと教科書類を取り出せず不便だった。そこで机のサイズに合うプラスチックの網目のケースをみつけて持参し使っていた。これらを使わず直接机の中に仕舞う学童もいた。

筆記用具は緑色のプラスチック製筆箱を使い、消しゴムや鉛筆を数本入れていた。これといった決まりは特になく各自が自由なものを使っていた。高学年に入る頃には飛び出す筆箱のようなものが出回り、一定の操作をすると鉛筆を入れた部分が機械動作で持ち上がるものが現れた。あるいは鍵をかけることのできるものも登場したが、授業中に開かなくなるなどの事態が起きて問題化したことがある。もっとも身の回りでそういうのを使っていた学童は少なかったと思う。
特筆すべきことは、高学年に上がった頃に出回り始めたいわゆるシャープペンシル(R) の扱いだった。恐らく恩田小学校に限らず当時の小学校ではシャーペンの使用を認めないスタンスだった。芯詰まりを起こしやすく書きたいとき書けない現象が起きること、芯のノック音が耳障りなことなどが理由だった。しかし持参したからと言って注意したり没収されたりといったことはなく、概ね黙認されていた。6年生のときにはかなりの学童が使っていたと思う。ただし私自身は小学校時代にシャーペンを使ったことはないと言うか、そもそも実物を持っていなかった。シャーペンを使い始めたのは中学校の入学祝いとして贈られたときからである。

ノートはどの種のものを使うなどの通達はなかったが、購買部では概ね単一のノートしかないので各教科のノートを買うとデザインが一致するのはよくあることだった。当時は極東ノートが主流だった。これには当時何処の学校でも収集していたベルマークが付属しているからというのも理由にある。バインダーを元にしたルーズリーフやレポート用紙の使用はないと言うか、これらもまだ一般的に市販されるアイテムではなかった。

自宅での日々の復習や宿題で使う可能性のないもの、例えば体育で用いる体操着や絵の具セットなどは学校へ置いて帰ることができた。この目的のために教室の一番後ろには人数分の木製の棚があった。中学年次の木造校舎では教室とロッカー部分が壁で分離されていた。

小学生と言えばランドセルが必須アイテムとして語られる。当時は男児は黒、女児は赤でそれ以外の選択肢はなかった。あるいは入学時にランドセルの一括購入があったかも知れない。実際には私たちの時代でランドセルを用いたのは中学年までだった。5年生以降になると手提げカバンに入れて登下校する学童が大多数で、ランドセルを背負っている学童は皆無だった。別に学校側で指導していたわけではないのだが、周囲でランドセルを背負っている学童が誰も居ないので自然に継承されるような状況だった。このため中学生に上がるまでもなくランドセルは廃棄している。
【 主要教科 】
公立の小学校だったので小学校時代から受験云々という話は殆ど耳にしなかった。しかし先々で勉強について行けないのは困るという考えは殆どの保護者に浸透しており、その中で主要教科を重視する考え方が一般的だった。小学校時代では国語・算数・理科・社会であり、中学校時代では国・社・数・理・英である。この主要4教科の「国語・算数・理科・社会」は、当時流行っていたゴールデンタイムの番組で歌われる挿入歌にも現れるフレーズであり、上記4教科の順番を違えて呼ばれることはまず有り得なかった。

主要教科から外れる科目としては音楽・図工などがあり、特に軽視されていた訳ではないが苦手であったり成績が伸びなくても主要教科ほどに案じられなかったのも確かである。道徳や図書、正課はテスト自体が存在しないので理解度の数値的評価はされなかったが、代わりに通信簿で日ごろの素行をクラス担任に報告されることで学力面以上に保護者の教育における指針となっていた。
学校の授業からは離れるが、当時は小学生向けの補習を行う塾は存在しなかった。個人の塾はあったものの概ね中学生からの扱いで、小学生時代は塾よりもむしろ算盤やピアノ等の習い事にウェイトが置かれていた時代だった。
【 専科の先生 】
基本的に小学校では主要教科すべてをクラス担任が教える。しかし高学年になると一部の教科には専科の先生が置かれていてクラス担任でない先生が教室へ来て教えたり、専用の教室へ移動して授業を受けた。代表的な科目は音楽である。小学3〜4年生で音楽の先生がクラス担任ではなく専科だったのが自分としては初めての事例だった。当時のクラス担任は男性だったので、歌ったりピアノを弾いたりができないから専科の先生になったのだろうかと思っていた。[1]
小学校5〜6年生からは理科も専科の教諭が担当した。したがって理科の授業は自分たちのクラスではなく理科室へ移動していた。
【 教材 】
各教科に教科書が付属し、必要に応じて補足する冊子やプリントが配られた。現在では教科書の解説を行うガイドブックや学童が授業や宿題で書き込みつつ理解を深めるワークブックが常用されるが、当時はそのようなものは少なかった。教科書の補足として取り扱われたものとしては、漢字学習帳(国語)、わたしたちの宇部(社会)だった。社会の「わたしたちの宇部」は、特に郷土の理解に特化した副読本で授業に使用されたが内容に関するテストがあったかは分からない。算数に関しては計算の反復が必要なのでドリルが使用された。確か当時の算数の教科書の販売元と同じ啓林館によるドリルで、表にはサバンナでキリンが草を食べる写真が掲載されていた。当然ながら早期に廃棄されて手元にはない。

学習に必要と判断して教師自らが別の書籍から転記しガリ版を作成してプリントを配るのも一般的だった。当時はコピー機なるものが存在しなかったので、書籍からガリ版を起こす必要があった。このような形式で先生が拵えた作文に関する学習教材を配られ、今も現物を保有している。現在においては明白な著作権法違反なのであるが、当時は著作権云々などという言葉を口にする先生も保護者も皆無で、授業に役立てるものは身の回りの何でも利用していた。小学校4年生のとき配布された作文指針に関する教材は、後年の文章作りに大きな影響を与えた。

小学校は義務教育なので教科書および付随する副読本類は無償だった。ただし算数のドリル、音楽で用いるリコーダー、図画工作で必要な彫刻刀などの物品は保護者負担だった。ドリルなど書き込んで使うものは再使用が効かないが、楽器類は上の子のお下がりを使うことが可能だった。特に絵画で使う絵の具セットや習字の一式道具は値も張るので既に小学校を卒業した子どもがいる過程ではお下がりを使うことがあった。しかし他の子が持っているものとデザインが違うことでお下がりであることが分かるのを嫌がる場合もあった。
【 テスト 】
当時は小学校のテスト向け問題を作成する業者が殆どなく、教師自らがガリ版で問題を作成して使っていた。ガリ版で印刷する部屋(謄写室)は学校玄関を入って事務室の横か裏にあり、恩田子ども会のプリント作成のとき中に入って実際に印刷作業をやったことがある。

中学校以降のテストとは異なり、中間とか期末など時期を定められたものではなく、出題範囲の予告はもちろんテストが実施されること自体の予告も殆どなかった。精々、明日の授業ではテストをしますとの宣言があった程度と思う。個人的にはテストをしますと言われたところで何らの対処もしなかった。日ごろから相応に勉強していたので、事改めて家でテスト対策のようなことをする必要もなく、一度もした記憶がない。図書館で借りてきた本を読むことはあったが、基本的に学校でしているのと同等の勉強を家に帰って取り組んだ記憶が甚だ薄い。

テストはその時間をフルに使ってやっていたかどうかは覚えていない。ただ、制限時間が来れば答案を回収されるのは中学生以降と同様だったと思う。正しい答にはマルを描くのだが、その作法はもしかすると統一仕様があったのではと思えるほど一定していた。即ち真円ではなく、斜め右へ傾斜した楕円で、描き始めは常に左下である。用いられるペンも一定で、常に水性ペンだった。赤のボールペンなどが用いられたのは中学校に入ってからだった。間違っている答えには×ではなく、いわゆるチェックマーク(✓)が描かれた。×で誤答を示すようになったのも中学校に入ってからである。各設問の小計の数字が書かれ、最上部の名前がある横の欄に点数が書かれた。この数字には常に一本ないしは二本のアンダーラインが引かれていた。残念ながら採点済みのテスト用紙は一枚も残っていない。
小学校共通で実施されたと思われる業者印刷によるテストのプリントが僅かばかり遺っている
出典および編集追記:

1. 音楽の項目でも述べているように、当時は男性が人前で歌を歌うのは大変に恥ずかしいことと考えられていた。子ども心にもクラス担任が歌を歌うなどとは思ってもみなかったので女性の専科の先生に任せたのだろうと思っていた。実際のところは分からない。
《 道徳 》
道徳の授業は毎週1時間単位で、どの学年でも概ね月曜日の第一時間目が多かったように思う。道徳向けの教科書があったかどうかは分からない。教室に備え付けられているテレビで教育番組を視ることもあった。
《 国語 》
国語の授業では分厚い教科書を中心に行われ、漢字の学習には別途漢字ドリルが付属していた。国語事典と漢和辞典は学校の斡旋で共通のものを購入することとなった。ただしお下がりが使える場合もあったと思う。
【 漢字 】
小学3〜4年生次において漢字の学習が異様に進んだ時期がある。クラス内の競争心が学童同士の良い意味での刺激となった。如何に難しい漢字を知っているか、それが書けて読めるかが一つの自慢の種にもなった。このため本を読むような意識で漢和辞典を読んでいた時期がある。この手法は恐らく中学生以降で英単語を覚えるときの手法に転用された。
漢字検定なるものは当時から既に存在していた筈であるが、検定を受けようなどの話は学童同士でも先生からも出て来なかった。実際、漢検の存在を知ったのは社会人になってからである。
小学生時代に漢字の読み書きを標準以上にやっていた成果は中学校以降になっても効いていた。今は手で漢字を書かずともキーボードを叩いて変換キーを押せばいくつかの候補が現れる。いずれも見慣れた熟語から選択するだけで済むのでタッチタイプミスを除けば(一部の非常に紛らわしい同音異義語が犇めく例を除外すれば)誤変換率は極めて低い筈だ。
【 作文 】
何かのイベントがあった後日に課されることが多かった。例えば社会見学を行ったときはかならず国語で作文の課題が出された。この他に読書感想文や夏休みや連休で想い出に残ったことなどを書かされた。

小学5〜6年時には作文に対する抵抗力が殆どなく、好んで長文を書いていた。400字詰めの原稿用紙を使っていて最初に一枚ずつ配布され、必要に応じて教卓の上に置かれた用紙を取りに行った。長ければいいというものではないという教師の指導があったにもかかわらず、級友と共に誇らしげに前へ歩み出て追加分の原稿用紙を取りに行ったものだった。45分授業のなかで仕上がることは稀なので、大抵はそのまま家へ持ち帰り宿題となった。
提出された作文は、先生の赤ペンによる添削を経て返却された。このときに句読点の打ち方、原稿用紙の使い方、漢字や送り仮名の誤記の指摘、分かりづらい言い回しの指摘を受けた。冒頭部分に全体の内容に対する先生からの感想が書かれていた。
手元には小学1〜2年生の作文は殆ど残っておらず、それもあまり良い評価はない。ところが小学5〜6年生の作文は一様に微細な修正部分の指摘以外では内容を褒められているものが多い。小学3〜4年生のときの指導と付随して配られた作文の教材と読書の習慣が作文力の向上に大いに影響している。

作家と目される人たちの作品にはそれぞれ個性があり、独特の言い回しを含む場合がよくある。その表現法が作家の一つのキャラクタと考えられる場合も多い。そして自分自身、小学3〜4年生の頃から読んできた本の中で独特な言い回しに影響されてそのまま自分の作文で用いるようになった事例がかなりある。小学4年生時だったか、椋鳩十氏が招聘されて小学校体育館で話を聞く場面があった。どういう話だったか覚えていないが、教室の後ろの方に椋鳩十氏の著した学童向けの本が何冊かあった。その殆どが動物記だったように思う。その内容は別として、本の中に「××は○○しました、が…」という形式の表記が目立ち、それは当時の自分がそれまでに読んできた本の何処にもない表現手法で目を引いたのを覚えている。

ついでながら、当サイトのあらゆるドキュメントにおいて「〜であるために」を指して「〜であるが故に」がかなり多い筈である。この表現は小学3〜4年生のとき熱中していた切手収集において注文した切手商のよこした説明文に影響されたような気がする。注文品に相当する代金の送付方法の説明文で「切手代用・為替・現金などまちまちでありますゆえに…」という表現があり、教科書でも見たことのない表現だと感じてそれがいつの間にか模倣された。正確にこのカタログが起源とは言い切れないが少なくとも学校の教科書由来ではなく、何かの書籍に接して初めて知ってそのまま用いるようになった表現法の一つである。何十年と経てばこういった癖はかなり薄められ平板で当たり障りのない文章を書くようになるものだが、一部はこのように未だ何処で覚えてきた表記法かが分かるものもある。
出典および編集追記:

1.「FB|【押し入れタイムスリップ - 小学校低学年時の作文】(要ログイン)
【 図書 】
図書の時間はどの学年でもあったと思われるが、殊の外思い出深いのは小学5〜6年生の図書である。日課表では国語とは別枠で図書という時間枠が設定されていた。
図書館と言うよりは当時は図書室と呼んでいたのだが、その部屋は新校舎3階の東の端だった。図書館に司書が置かれるように小学校の図書室にも専科の先生がいらした。中島先生という常に白衣を纏った年配女性で、この先生が殊の外厳しかった。特に理不尽に怒りまくるという訳ではないのだが、子どもにとっては小さなことでも口うるさく叱る煙たがられた存在だった。反抗期に差し掛かった男児などは口答えしたりわざと挑発的な態度も取っていたようである。

まずこの先生は図書の授業の前にかならず手を洗うことを求めた。手洗い場は図書室前の廊下にあり、図書の授業に限らず図書室に入るときは例外なく手を洗う必要があった。手洗いの後にハンカチで手を拭くのだが、そのハンカチを忘れた子は図書室へ入るのを認めなかった。蛇口の数だけの少人数単位で手を洗わせ、先生は横で監視していた。ハンカチでキチンと手を拭いた子はそのまま図書室へ入ったが、ポケットからハンカチが出て来ない学童はそのまま廊下へ置き去りにされた。

小学校では忘れ物検査という項目はあるにはあったが、授業の教科書やノートを忘れると本人が困るだけで特に罰などはなかった。給食のときは机の上にナプキンを敷くのが必須であるにしても、忘れたからと言って給食を摂らせないといった事例はなかった。しかし図書の授業だけは本当に厳格だった。実際、幼少期から忘れ物の多いぼんやり学童だった私もハンカチを忘れたために図書室へ入れてもらえず、他のハンカチ忘れ組と共にずっと廊下で過ごしたことがある。大人の感覚なら図書の時間に入る前にハンカチを忘れていないかチェックし、もし忘れていたなら隣のクラスの誰からでも借りるなど機転を回すところだが、そこは子どもである。図書室の前に来たところで手洗いが必要なことを思い出し、慌ててポケットを探ってハンカチ忘れに気付く…という学童が殆どだった。個人的には本を読むのが大好きだったのだが、ハンカチ忘れ程度のことで本を読ませてもらえないなんてという気持ちがあった。[1]

図書室を離れればクラス担任もこなす先生だったのだが、私の学童期は担任だったことがないので詳しいことは分からない。聞く話では生意気な態度を取る学童は容赦なく叱り飛ばしたという。男児も女児もなくこの先生に叱られた学童は相当に多い。保護者には厳しい先生という評価があったし、他学年の一部の学童にさえもおっかない先生という話が及んでいた。私自身はハンカチ忘れ組ともども仲良く叱られたことを除けば個人的に怒られたことはない。しかし今でも印象的な想い出が2つある。

一つは確か放課後に本を借りようと図書室を訪れたときのことだったと思う。紙に孔を空けるための千枚通しが要るので職員室に行って取って来てと頼まれたことがあった。私は言われるままにそれを調達し、中島先生は図書室前の廊下で待っていた。自分は伝書鳩の如く用事を達成できたと思って得々と千枚通しを先生に渡そうとしたとき、中島先生は別に怒った声ではなく穏やかにこう諭した。「山本くん。人にこういう先の尖ったものとか刃物を渡すときには、こうやって相手に柄の方を向けて渡すものなのよ」と。そうして尖った部分を持ち、やってごらんなさいと再度先生に渡す動作をさせた。これは恐らくよほど子供心にも印象的だったのだろう。何故なら今この項目を記述したとき、数十年も前のことながらまったく淀みなくそのときの様子が再現できたからだ。そしてその後の人生において親でも誰でも包丁からハサミから何を渡すにしてもこのルールが頭を過ぎり、躊躇無く自分が刃の方を持って渡す習慣が完璧に身に染み付いた。親も間違いなくこの作法を教えていると思うが、今でも包丁からハサミに至るまで刃物を手渡す動作 - 今となってはそう頻繁にはないのだが - を行うとき中島先生のことが頭を過ぎる。

もう一つの印象的な出来事は、私が小学校を卒業してしまった後に母か兄から聞いた話だった。兄貴は小学6年生のとき中島先生が担任で、自分を含めたクラスの男児のやんちゃ振りにほとほと手を焼いていたという。言うことを聞かずわざと挑発するような口答えに逆上し「もうあんたたちのことなんか知らん」の如く匙を投げてしまわれる程の状況だったらしい。ところが卒業式を迎えてこのクラスともお別れという段になったとき、しんみりとした表情の先生方が多い中でわんわん泣いて学童たちの卒業を見送っていたのがかの中島先生であったという。今までおよそ見たこともない先生の姿に、クラスの悪ガキ連中は唖然としていた。このとき同席していた母親たちは我が子に「疎まれていたように思えて実はちゃんとあなたたちのことを考えてくれていたのよ」と諭し、やんちゃだった学童は改めて中島先生と過ごした日々を胸に刻んで巣立って行ったという。
出典および編集追記:

1. もっとも図書の授業が終わるまで図書室に入らせないことは稀で、一定時間が過ぎて反省の弁を述べさせられ入室させてもらえた時もあった。本当に終了時間まで入室できなかったこともあったと思う。
【 習字 】
習字は国語の授業の一環として行われ、全学童が習字のセットを購入した。ケースの中に硯と墨石、大筆・小筆とスポイトが格納されているセットだった。墨石は半分以上使ってすり減った一部が残っている。墨汁は恐らく中学時代のもので、使うあてがないので2014年に廃棄処分した。

鉛筆による文字書きは苦手意識がなく、小学校低学年時において表彰状を得ている。これは小学校時代で授与された唯一の表彰状であったが廃棄してしまったらしく見つからない。しかし鉛筆の筆記とは対照的に習字はとても嫌だった。嫌と言うか習字のできる子どもに虐められていた背景がある。

昭和中後期は子どもに習い事へ行かせる例が多く、算盤を筆頭として男児では習字、女児はピアノという例が多かった。このため習字の授業は既に習い事へ行っている学童には退屈なものだったようで、自分が出来るのを自慢するだけでなく習っていない学童へあれこれ指図する事例があった。小学4年生のときやれ筆を二度硯の墨へ漬けるなとかあれこれ口出しする学童があり、すっかり嫌いになってしまったようである。
町内には習字の塾があり、近所の子どもたちは殆ど通っていた。兄貴も短期くらい通っていた時期があると思うが自分はどんなに親に勧められても絶対に行かないと言い張っていた。恩田へ越してきて小学校低学年時からもう一人の男児を含めて虐められていた。名前は覚えているし何をされたかも覚えているが、現在では別に遺恨はない。

こうした背景から現在でも習字の良さと言うか、いわゆる達筆とされる作品を理解できない。哀しい事ながら自分の中では現在でも楷書が最も美しい文字と認識しているし、楷書体以外の文字を書くことができない。崩し字のルールを理解していないので手帳への走り書きは「自分だけに何とか分かるただの悪筆」である。朝日新聞にしばしば超大作と呼ばれる草書体などの習字の作品が掲載されるが、幼少期から何が良いのかまったく分からず落書きと等しく映った。これには草書・行書の類を国語の過程で習わなかったことも遠因にあり、書くどころか現在でも昔の石碑に接して何と書いてあるか分からず苦労している。書道のみならず広義の美術に対する無理解の元にもなっており、習字を生涯に渡って毛嫌いすることになったのは自分としては大変な文化的損失だった。
《 算数 》
数そのものに対する興味が強かったわけではないが、日常的に数えるという行為は学童期から興味があったようだ。親元はどちらも鉄道沿いにあるせいか、行き交う貨物列車の両数を数えることはよく行っていた。美祢線の石灰石輸送列車が牽引する機関車を含めて常に23両編成であったことは小学校中学年の頃に気づいていた。
国語分野での学校外教育として習字があるように、数を扱う教育として算盤があった。しかし受験勉強とは無縁な時代だったせいか、公文のような一般的な計算術や公式に慣れさせる種の学校外教育機関はまだ一般的ではなかった。

数に対する興味と言うよりは嗜好だが、学童期から数字の4と7を好んでいたようである。この理由は自分で分析しても困難なのだが、一つの理由として図形的な興味に関連しているかも知れない。4と7はいずれもアラビア数字で一般表記したとき直線要素だけから構成される。そして図形的な興味においても円のような曲がりのある図形よりも三角形や直方体のような直線で構成される図形をより好んだ。この傾向は学童期以降のデザインにも影響を与えている。
【 道具 】
記事作成日:2016/7/8
低学年時の最初期に接したのは算数セットとされる一式道具だった。詳細はもう殆ど覚えていないが、紙箱に必要なものをまとめたもので、いろんな色のついた花びら型をしたプラスチック製のおはじき、着色された木製の大きめのさいころ、麻雀で使われる点棒のようなもの、この他にカードなどもあったかも知れない。これは恐らく入学時に一斉購入を求められた。当然ながら存在を覚えているだけで当時のパーツのどれも手元に遺っていない。

学年が進むと図形を扱うため物差しや三角定規、分度器といった器具が要った。一式で揃えられるようにこれらがセットになったものが購買部で販売されていたが、単品を別々にも買えた。分度器などはそう頻繁に使うものではなく日常生活にも不要なので、兄弟がいる家庭では共用することが多かった。
中学年から先では授業で算盤を使う場面があった。昭和中後期はまだ電卓が一般家庭には極めて稀で算盤が一般的だったので、どの家庭にも備わっていた。しかしある程度の桁数を備えた算盤で共通の操作ができるように一斉購入した。共同購入の算盤はチャックのついたケースが付属していて、長さは30cm程度ある5つ珠の算盤だった。
算盤は当時、学校外での習い事としてはトップクラスに入るほど一般的で、クラスでも数人に一人は算盤塾に行っていた。級や段を持っている学童もいたと思う。学校での時間配当はわずかで、珠の役割や加減算の操作程度で、かけ算は簡単なものくらいで割り算は殆どしていなかったと思う。算盤にまったく慣れない自分は、数式をみて頭の中で暗算しつつ珠を置きに行くも同然で、最後まで算盤の効用が理解できなかった。ただし珠の動きには少し興味はあったようで、数を1ずつ足していったときの途中経過を延々と記録したメモが今も手元に遺っている。
算盤で言語道断クラスにやってはいけないものの一つとして「算盤スケート」がある。何故いけないかについて改めて理由を書くまでもないのだが、漫画では割とみられた表現だしやんちゃな男児にとっては試してみたい衝動に駆られるものだったかも知れない。学校ではさすがにやらないものの、家の中でやったことの一度くらいは「絶対に」あると思う。
【 立体図形オブジェ 】
中庭(新校舎と木造校舎の間)に算数の立体図形学習用のオブジェが置かれている場所があった。円錐、三角錐、四角錐などの錐体は鋼鉄の銀メッキ、三角柱、四角柱などの角柱はコンクリート製だったと思う。ただしそれは学童が任意に眺めて理解を助けるためのものであって授業の一環でこの場所に連れてこられたことはなかった。
【 ≠の誤記を誤解されたこと 】
記事作成日:2015/3/2
いつだったか正確に思い出せない。小学校低学年のことと思う。[1]どういう経緯だったか分からないが、確かプリントにかけ算などの問題があってそれを解く課題だったと思う。当時はガリ版で青いインクで123×456などの数式が間隔をあけていくつか書かれていた。
こういった問題を解くとき、かならず数式の横に=[2]を自分で書いてから次の数字や式なりを書くようになっていた。どういうやり方だったか知らないが別の余白に筆算でかけ算を解き、結果を式の横へ=を書いてから続きを書くという作法だった。

ある問題を解くとき、自分は=を書く積もりだったのだがうっかりかけ算の記号である×を書きかけてしまった。完全に書いたのではない。最初の斜め棒\を書いた直後になって、そこは=を書くべき場所だったと気付いたのだ。あいにく筆箱の中には消しゴムがなかったし、テスト中だったので隣りの子に消しゴムを貸してくれとも言えなかったらしい。そこで自分は\を書いてしまったのを消さずにその上から=を書いて続きの式を書いた。結果として≠[3]と同じ意味を持つ「等しくない」を書いてしまった。
小学校低学年だったのでもちろん≠なんて意味のある記号があることなどまったく知らなかった。純粋に消しゴムがなくて消せなかったのである。しかし先生はこのことを悪意に解釈してしまった。テストが終わった後に私の≠が書かれた例を引き合いにし、わざわざみんなの前で黒板にチョークで≠を大きく描き、「山本君はテストの回答に≠という習ってもいない記号をわざわざ書いて知識をひけらかそうとしました。こんなことをしてはいけません」と言った。クラスの学童はちょっと知っているからと言って偉そうな態度を取るななどと言われ、私は言い返すこともできずもう半泣き状態だった。級友から虐められるのは幼稚園児からのことなので辛さは相応だったが、大人に対して受けの良い子を演じていた先生自身に信用してもらえなかったのが酷く応えたようである。周知の通り、実際に≠の記号を習うのは中学生に入ってからであり、小学校低学年の学童が(私のような偶発的な事態が重なって起きたならまだしも)故意に気取って書いてしまう可能性は有り得ない話だった。しかし中学生で初めて正式に≠という記号を書いたときどう思ったかは今となっては思い出せない。同様の経験をした学童は居るのだろうか。

出典および編集追記:

1. 小学3〜4年生ではないと思う理由は、叱られたのが女の先生だったことだけを覚えているからである。

2.「わ」と読む。=を「イコール」と呼ぶようになったのは小学4年生以降である。

3. PCのキャラクタでは=に/が重なった形をしているが実際に描いたのは\が重なった形である。
《 理科 》
低学年から中学年にかけては植物を育てる実地教育があり、この課程でアサガオの種をまいて育てる授業があった。学童一人ずつに植木鉢とアサガオの種が与えられ、自分のものと識別できるように名前を書いた札を立てて育てていた。鉢は日当たりの良い校舎南側の端に並べられていた。水やりの問題か種子自体の当たり外れなのか、よく伸びるものやまったく芽吹きすらしない鉢もあった。花が咲くまでその場で育てたかどうか分からない。我が家のベランダ先にはスレート屋根に向かってアサガオが伸びていたので、時期が来れば持ち帰って庭に植え替えたかも知れない。
自分自身の体験談ではないが、高学年のときの友達がアサガオを育てる課程でいじめっ子に報復した話を聞いている。本人が居ないときに伸びかけているアサガオの鉢へ小便を放ったと言うが、枯れるどころかすくすくと育ったと言う。本人は小便の栄養分が効いたのではないかと述懐しているが、植物学的にはあり得ない話である。[1]
花が咲いたアサガオを摘み取って紙へ押しつけ、色素を取り出す授業があったかも知れない。

高学年になると理科は専科の先生が教えるようになり、授業の都度教科書とノートなどを持って理科室へ移動した。別に実験でなくても理科室で授業をしたと思う。
人物を特定可能かも知れないので詳細は控えるが、このときの男の先生は不適切な振る舞いが目立った。特にクラスでも男児に人気の高い女の子には甘く、やたら身体を触りたがった。さすがに胸やお尻を触るようなことはなかったが、気を惹くためかいくつかの質問に答えさせるために特定の女の子だけ何度も呼び上げたこともあった。小学6年生ともなれば男児でもクラスに好きな女の子の一人や二人居るのが普通で、先生というかさをきて、みんなの前で堂々とお気に入りの女の子に後ろから抱き付くのが許せなかった。今だったら明白なセクハラであり教諭の不祥事となるところだが、正直言ってこの程度のことは昭和期ではまったく普通だったしまた表に出る余地もなかった。しかし人気のある女の子がそういうことをされるのを見て愉快な筈もなく、クラスの男児は概ね軽蔑していた。今一つこの時期の理科の授業に対して良い想い出がないことの遠因である。
出典および編集追記:

1. 一般には植物へそのまま放尿するのは(尿中に含まれる塩類のせいで)普通に水を与える以上のダメージを与えることが判明している。
《 社会 》
【 はたらくおじさん 】
社会の授業と言えば「はたらくおじさん」[1]を抜きには語れない。今調べたところによると小学2年生向けの番組なのだが、小学校を卒業した後も当時の級友がこの件について深い情報を語っていたために未だに覚えている。主人公「タンちゃん」の名前は覚えていなかったが、相棒犬の「ペロくん」は主題歌の歌詞[2]で覚えている。さすがに個別放映回の内容までは覚えていない。また当然ながら映像はモノクロだった。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - はたらくおじさん

2.「ワン、ワン、ワワーン!ぼく、ペロくん♪」の下り。
《 体育 》
体育は教室を離れて屋外で行われることが多いため、他の教科と比べて環境が違うことより多くの出来事が想い出に残りやすい。また、学力と身体能力はしばしば別物で、勉強はできないが体力はあるという学童はごく一般的だった。日ごろ教室では理解度が悪いと先生から冷たい目で見られている学童が優位に立てるので、下克上的な扱いが起きやすい科目である。実際、そこそこ学力はありながら体力のない子、要領の悪い子は先生の目の届かない場所で運動のできる学童から徹底的に虐められた。この種の扱いに対してはどの教師もまったく無力で放任状態だった。このため運動が好きな子どもはどんどん伸び、そうでない子どもはどんどん運動から遠ざかってしまう現象を惹起した。
学童期、外でソフトボールをして遊ぶ位なら机に齧り付いて勉強する方がマシだと豪語していた故に、義務教育の全過程を通して体育は私がもっとも出来ていなかった教科である。この件に関して「お前は勉強さえ出来ればそれで良いのか?」などと親から先生から級友などあらゆる人からなじられた。しかしだからと言ってどうすべきか導くことのできた大人は誰一人とて居なかった。うちの親とて精々、家の前でキャッチボールをさせる程度で、それも生憎運動が好きになるような指導ではなく「下手だ」「そんなやり方駄目だ」の如き否定句のオンパレードだった。運動嫌いの程度は深刻で、自ら進んでスポーツに馴染めるようになるには社会人を待たねばならなかった。このことは学童期から大学生時に至るまで体力のみならず体質にも悪影響を及ぼしていた。[1]
【 準備 】
授業の場所が体育館や運動場に限らず、水泳を除いて指定された体操着に着替える必要があった。体操着は白で、下は男児は半トレ、女児は昔からよく知られる紺色のブルマーだった。帽子は紅白で被り直すことで赤と白を変えられるリバーシブルになっていた。必要に応じてあご紐を取り付ける学童もあった。
今からすれば有り得ない話だが、体育の服装への着替えは学年に関係なく男女共通して教室で行っていた。小学6年生ともなると女児は思春期特有の身体の変化があり、また男児はそのような変化に興味を持ち始める年頃であった。しかしこういったことへの配慮はまったく行われず、どの女児も恥じらいながら着替えるか、あるいは殆ど開き直ってシャツもスカートもパッと脱いで下着姿で着替えていた。その様子を眺めることはできたし、実際当時の男児は好きな女の子の着替えはつい目が行ってしまうものだった。ジロジロと観察するのは下品でスケベ扱いされるのは必至で、女児だけでなく男児もそのような所作の学童を批判していた。したがって観察されることがないし短時間でもあったせいか、元から強気だったり自信のある女児は平気で下着一枚になって体操着に着替えていた。

プールの場合は下着すら全部脱がなければ着替えられないせいか、さすがに男女別の更衣室が造られていた。それは現在のプールのすぐ横、正門へ向かう道の近くに平屋として存在していた。

運動場における体育の授業は裸足で行うため、下駄箱で上履きを仕舞ってからそのまま裸足で運動場まで出たと思う。終了して校舎にあがるときには下駄箱の横にある足洗い場で土を落とす必要があった。この足洗い場は各校舎に設けられていた。
【 整列 】
運動場や体育館を問わず、体育の授業が始まる前では整列が求められた。この作法は授業のみならず全校集会で多くの学童が整然と行動するときのためにも身につけることが要求された。
場所が広い場合の整列では特段の決まりがなければ出席番号順(しばしば「出席番号の若い順」と呼ばれる)で、体育のときなど身体的差を埋めたい場合には背の低い順もあった。いずれの場合も男女2列の縦並びが原則で、両腕を大きく前へ伸ばして前の学童の背中に手が当たらない程度までの距離を置くのが「前へ倣え」である。場所に制約があり詰めて並ばせたい場合には両腕を肘のところで折った状態で同様の距離を置いて並び、これが「小さい前へ倣え」であった。この号令は当然先生が行ったが、場合によっては級長が行うこともあった。

先生による説明が長時間に及ぶ場合などでは地面へそのまま座った。このときの座り方も作法があり、お尻を地面に着いて両足を閉じ、その両足を両腕で抱え込む動作である。これは一般に「体育座り」と呼ばれている。土の運動場にしろ板の間の体育館にしろ正座では膝が痛くなるので長時間座り続けるための姿勢である。言うまでもなく足を伸ばした状態で座るのは、少なくとも授業や全校集会などの場では有り得ない作法だった。
【 合体 】
記事作成日:2016/7/8
がったいではなく「ごうたい」と読む。合同体育の略である。同学年の2クラスの学童を合わせて同一の授業を行うもので、男子の場合は常に屋外の運動場における授業だったと思う。あるいは女子は体育館での合体もあったかも知れない。現代の学童が少ない環境ではサッカーや野球など一定人数を要する授業では合体が必須になるだろうが、昭和期はまだ学童数が多く、私たちの頃は6クラスあってクラス当たりの人数も相応にあったので、合体は人数揃えというよりは効率面を重視した方法と思われる。体育の先生は学年単位で共通だったので可能となる授業形態だった。

通常の体育の授業が1時限分なのに対し合体ではその倍の2時限あった。午前の3・4限か午後の5・6限が殆どだったと思う。2時限分の枠を使っての授業なので、中間休みは恐らくなかった。トイレに行きたい学童は自由に行けたと思うが、もっとも行く学童は殆ど居なかった。具合が悪くなって保健室へ行く学童はときたまあったと思う。
運動会が近づくと合体の時間枠を利用して行進やダンスの練習をしていたし、前日くらいになると午前中の4時限枠を一杯に使った形式の合体もあった。これは合体と言うよりはむしろ運動会の予行演習としての特別授業と言えるかも知れない。
【 プール開き 】
プールを使った水泳授業は7月から夏休みに入るまで行われたと思う。当シーズン最初にプールを使う学級はプール開きの行事を見ることができた。水泳中の事故は起こりがちな出来事なので、神主も招かれたかも知れない。校長が日本酒の一升瓶を抱えてプールの四隅に注ぎ入れるのを見た。
ちなみにプール開き前にはプールに張られた水を一旦抜いて棒ずりで擦った上で新たに水を張ったと思う。プール清掃は最初にプール開きの授業に参加するクラスで行われた。プール納めという行事はなく、授業期間が終了したらそのまま放置されていたのではないかと思う。プールのすぐ外側にブランコが設置されていて、高く漕ぎ上げるとプールの水面が見えた。冬場は苔が生えていたような気がする。
【 器械運動 】
跳び箱やマット運動の部類である。雨の日の体育は体育館で行われたが、雨でなくても体育館向けの運動が行われた。外へ跳び箱やマットを運び出して授業したことは殆どなく、運動会のとき位のものである。
体育が嫌いで運動神経が鈍いと思われていた中、器械運動は意外にも苦手意識はなかった。跳び箱も小学校高学年時には6段を労せず跳び越している。これには小学校低学年時、放課後に体操クラブというものの存在があり、体操服に着替えて簡単なリトミックのようなことをやっていた効果ではないかと思う。この記憶は小学生時代の中でも相当に古いものの一つである。
【 マラソン大会 】
記事作成日:2015/2/11
小学校3〜4年生までは新校舎と旧校舎の間を周回し、高学年では陸上競技場のトラック外周を周回した。当時は外回りの散歩道は未舗装路だった。各クラス6組まで存在し一クラスが概ね40人近く人数が多かったせいか上位30位まで小さな表彰状が出た。賞状はB6くらいのサイズの縦長長方形で、友達の家へ行くと他の賞状と一緒に額縁へ入れられ鴨居の上に飾られているのをよく見かけた。もちろん自分は表彰状を手にしたことは一度もない。

自分を含めて運動が嫌いだったり体力の弱い子には甚だ苦痛なイベントであった。指定された周回を走りきることができそうにない場合でも速度は落ちても良いからなるべく走るように、それも無理な場合は歩いてでも周回することを求められた。校舎を周回するときは一定間隔で先生たちが並んで立ち、手を叩きながら「頑張れ〜」などと応援していた。体力のなさが明白に露呈する行事であり、女子ですら余裕で走っているのに男児たるもの歩くなどまったく恥ずべきことだった。昭和中後期は一般にも健常者や体力がある学童の増強を求められ、体力的に劣っていたり病弱な子どもに配慮する社会ではなかった。
【 なわとび競争 】
小学校高学年でなわとびカードなるものが造られた。前回し・後ろ回しに始まり、片足跳び、綾飛びなど次第に難易度が上がっていった。小学6年生の男児では二重跳びはできて当たり前レベルで、一部の学童は隼に憧れていた。両腕を交差しての二重跳びはリットルと呼ばれていた。当時この言葉の意味が分からなかったが、後に腕の形によるもの[2]と教えられた。

当時の自分は前回しの二重跳び数回が限界だったようである。後ろ回しの二重跳びは遂行できる学童自体がかなり限られていた。後ろ回しは失敗すると縄が顔、特に目に当たるので恐怖感が強く、どの学童もやりたがらなかったようである。
耐寒訓練で校舎と運動場の周りを走るとき、縄跳びを跳びながら走ることもあった。

小学校を卒業して十数年近く経過し、たまたま小学6年生の学童の家庭教師を行う機会があってそのとき体力作りと技術チャレンジを兼ねて一から縄跳びの技術を磨いていた時期がある。この過程で後方の隼を数十回遂行できるまでになった。一連の技術習得にあたって当時覚えたてのワープロを用いて手引き書を著している。これは現在も手元にある最も古い著書である。
【 ポートボール 】
小学校時にしばしば行われるものの一般向けスポーツとしては営まれない代表的運動である。ルールはバスケットと同じでゴールポストの位置に紅白の台とその上に立つゴール役の人間が居るだけである。
小学3〜4年生のとき、クラスの中でも運動が得意な2人が共謀してゴールに向かって走りながらこの2人だけが交互にボールを受け渡ししつつ走り得点を稼ぐということをやっていて先生から注意されたのを見た記憶がある。せっかく良いパスとシュートを行ってもゴール役の子がオフェンスを避けて正しくボールをキャッチできないと得点にならないので、よくボールを落とすゴール役はしばしば非難の対象となった。
【 スポーツテスト 】
体育の授業の一環としてスポーツテストが行われた。人数をまとめて行うので恐らく合体の時間だったと思う。テスト項目はソフトボール投げ、懸垂、走り幅跳び、持久走などだった。テスト項目は男女共通だったが、懸垂だけは男子は完全に鉄棒へぶら下がった状態から首から上が鉄棒を上回る回数をカウントしたのに対し、女性はより低い鉄棒で地面に足を着けた状態で斜めに立ち、腕を完全に上した状態から首が鉄棒に接触する回数だった。

明白に優劣の差が露呈するテストのため、いじめやからかいが起きやすいイベントだった。学童期で威張れる要素と言えば頭の良さか体力だけなので、体力はあるが日ごろから勉強ができない学童は天下を取れる一日となった。特に当時は男児ならソフトボールができて当然という風潮があったので、ボールの一つもろくに遠くへ投げられない男児は蔑称の対象だった。より学年が進めばサッカーなども羨望の眼差しで見られたが、少なくとも昭和中後期はソフトで満足にボールキャッチができない男児はオトコではないと言う程の扱いだった。
ソフトボール投げはもちろん日ごろから運動するのを極端に嫌がっていた自分は、どの項目を取っても平均よりはるかに劣っていた。スポーツテストの結果はそのまま体育の評点に繋がり、小学生時代は常に2か1だった。他教科はどれも5段階評点の4か5でありながら体力差は努力して伸びるわけではないし、何よりもどう努力すべきかの方針は授業においてもまったく示されなかったが故に早期に体育への興味も努力も完全に失っていた。先生のみならず体力は生まれつきのもので、努力しても仕方がないことだと考える風潮があった。
出典および編集追記:

1. 運動を極端に避けていたため筋力が殆どなく、異様な寒がりだったようである。学童期は夜寝るとき常に足へ充てるコタツが必要だったし、中学生に入っても同様だった。

2. 両腕を交差したときの形と計量単位で習うリットルの筆記体の形状が似ていることによる。
《 図画・工作 》
図画工作は日課表ではしばしば図工(ずこう)と略記されていた。図画は専ら水彩画で、取り扱いが難しい油絵は小学生期には扱われなかった。ちなみに後述するように正課クラブは絵画だったもののこのときも油絵はいっさい描いていない。
工作は彫刻刀を用いた版画が多く、木版を削ってオブジェを作るなど技術・家庭に近い内容のものもあった。
いずれの作品も優れたものは市展などに提出されたが、そのような経験は(あと一歩という惜しい場面はあったが)一度もなかった。また、絵画は現在当時のものは一枚も見つかっておらずすべて廃棄された模様。版画は卒業文集の似顔絵に転用されたもの一枚だけが残っている。
【 水彩画 】
小学5〜6年生のとき隣り合っている学童をお互いに水彩画で描くという課題があった。このときの席順がどうだったかは不明だが男女の机をくっつけて2列に並べていた。私の隣りは木下さんで、お互いの顔を見なければ描きようがないので机を向かい合わせにくっつけた。最初に4Bなどの濃い鉛筆で描画しそれから水彩絵の具で着色した。
かなり鮮明に覚えているので小学6年生次かも知れない。ちなみに小学6年生にもなると男女はかなり意識するようになり、好きや嫌いの学童が出てくる時期だった。自分はもの凄く好きな子がクラスにおよそ3名いたが、いずれも私のことは友達の一人と思われていただけだった。木下さんは好きでも嫌いでもない子だったが、描画作業のときにはお互い描きやすいよう協力し合ったと思う。
【 焼き粘土 】
小学2〜4年生頃と思うが、粘土工作で動物を拵えたことがあった。捏ねて丸めて造ってすぐ崩せる可塑性のある粘土ではなく、高温で焼くタイプのものだった。最初に動物の形を粘土で造って焼き入れし、取り出して冷めたところに色づけして上薬を塗って仕上げ焼きしたと思う。
最初に粘土を支給されたとき、中に空気が入っていると高温で焼いたとき破裂するから何度もしっかり捏ねて空気を抜くようにという指導がされた。自分は確か親子のキリンのような動物を造った。全員が造り終えたところで専用の板の上に載せて窯へ入れた。当時はこうした焼き物学習をするための窯が学校敷地の東側、南門から東門に至る道に面した場所にあった。空気抜きが不十分なための破裂は結構起きやすかったようで、板を取り出したとき破裂してバラバラになっている粘土がいくつか見られた。自分のは一部が欠けていたが、中には首チョンパ状態になっていたり手足が取れてしまった作品もあったようで、泣き出す児童も居た。
焼き上がった粘土は素焼き状態なので、そこに水彩絵の具で着色した。確か肌色と黄土色に塗り、目と鼻は別途描いた。それから透明な上薬をたっぷりかけて仕上げ焼きした。家に持ち帰って応接間の棚に長いこと飾っていたが、それほど愛着はなかったようで高校生に上がるまでには棄ててしまっている。

小学5〜6年生のときも同様の授業があって五角形をした灰皿のようなものを造った。中央に寿という字を竹串で描いていた。ただし家には誰もタバコを吸う人がおらず実用に供せられることもなく廃棄している。
【 ブローチ作り 】
小学5〜6年次に制作した。銅板の上に着色されたガラス粉を配置し、整ったところで窯に入れて焼くものである。高温になるとガラス粉が溶けてちょうど基盤の上にさまざまな色の釉薬を塗ったようになった。先端には銅の鎖が取り付けられていて実際に首に掛けて使えるようになっていた。
どういう作品を作ったかは覚えていないが単純な模様だったと思う。ブローチは早い時期に廃棄された模様。
【 木製の壁飾り 】
記事作成日:2015/3/1
一枚の木版からジグソーを用いて動物などを切り出し壁飾りを作る課題があった。与えられた板はいわゆる長四角をしているのでこの形からは魚類が連想された。したがって自分はマグロのような海の魚を横から見た形のオブジェを考えた。多くの学童が魚を選んだようだった。
輪郭の線を鉛筆で描き、次にジグソーでラインの通りに切断する作業が要った。しかし工作室にジグソーは一台しかなく順番待ち状態となった。待っている間に手作業でも少しはできるので、手持ちの糸鋸を使って切る学童もいた。私も家から糸鋸を持ってきていたし、他の学童を押しのけて自分がジグソーを操作するなどと言えない気弱な学童だった。板材は厚さが1cmあり、糸鋸でシコシコと切ったところで手間ばかりかかりしかも切断面が曲がるという状況だった。このため殆どの学童がジグソーで切断し終えて次の作業にかかろうという段階なのに、自分はまだジグソーの順番待ちで糸鋸で切っている段階だった。やっとジグソーが空いて殆ど自分が最後という番になったとき、自分は他の子が操作するのを見ていないのでジグソーを使ってどうやって複雑なラインを切断するのか要領を得なかった。魚はアウトラインがシンプルとは言っても口や鰭の部分は結構入り組んでおりジグソーでも難しかった。今でも覚えているのだが、このとき先生が手を貸して殆どの部分を削ってくれている。長時間かけて糸鋸を往復させてしかも仕上がりが斜めになるなど満足いかない状態だった中、先生がジグソーを操作してものの1分程度ですべて切り出してくれたのを覚えている。これでは正確には学童自身の力で制作したとは言えないが、気弱で最後の順番になるまでジグソーを使う列に入り込めなかった心中を忖度してのことと思われる。とにかく自分でジグソーを操作していたらとてもこれほど綺麗にはカッティング出来ないと言えるほど細かな部分までも切り出せていた。

この仕上がりでもしかすると丁寧に作ろうという気が沸き起こったのかも知れない。魚の表面はウロコを象って手間のかかる波線を等間隔に彫り、この過程で生じたウロコに相当するすべてのマス目に市松模様式に○と×を彫った。掘り出した後の着色過程でもウロコ一枚ずつを市松模様で交互にペイントした。最後にニスを塗って安定処理を施し、背びれの部分に穴を空けて壁に架けられるように銅のチェーンを通した。
この作品の意匠は先生も印象的に捉えていたらしく、魚をデザインした中では市展提出候補として先生が現物を持参するように言った。最終的には級友のU氏が作ったカタツムリをデザインした作品が市展に提出された。しかし工作部門であと一歩というところまでの作品が作れたのがよほど嬉しかったらしく、この壁飾りは中学生・高校生になってもずっと自分の部屋の壁に飾っていた。現物も保有しており、小学生時代の工作物で完全な形で残っている唯一のものである。
【 スケッチ 】
記事作成日:2015/2/8
行き先としてうろ覚えながら記憶があるのは常盤公園、渡邊翁記念会館、清水川交差点、神原公園、松山町一丁目交差点である。いずれも中学期が混じっているかも知れない中、清水川交差点でのスケッチは小学校時代だったことは確実である。何処から何の絵を描いたのかも覚えている。ただし当時描いた水彩画は一枚も残っていない。持参する用具は画板、水彩絵の具一式、筆洗だった。このうち画板は学校の貸与品だったと思う。
お昼を挟んでの描画となれば家から弁当を持っていった筈である。しかしそのあたりの記憶は曖昧なので、あるいは午前中で切り上げて学校に戻ったのかも知れない。
【 版画 】
図工の授業向きに彫刻刀を持たされていたので版画は数回あったと思う。このうち一枚のみ小学6年時代のものが手元に遺っている。それは当時の自分の部屋から外を眺めたときの景色を彫ったものであった。しかし自分でその作品を彫った記憶がまったくなく、今でも兄貴が彫った版画板を利用したのではとも思う。
この版画板は6年生の終わり頃に造られたらしく、裏面を小学校の卒業文集で自分の似顔絵を彫るときの板材として再利用されている。
《 音楽 》
音楽は小学1〜2年生を除いて専科の先生だった。5〜6年生は大東先生(女性)だが3〜4年生は後述する千村先生(女性)と思われるが臨時だったかも知れない。いずれの場合も教室で音楽の授業を受けたのは低学年時のみで、その後は常に音楽室へ移動した。
【 創作 】
今、思い出したので大急ぎで書き付けておこう。

小学4年生以下のときだったと思う。音の配置を学習し部分的な創作課題で「ラ〜ソソ、ミ〜ソ、○〜○〜○〜」(長音は4分音符、単音は8分音符)で○に入る音階を各自が考えて発表するというものがあった。
○に入るのが単音3個なので学童が発表する答はかなりが重複した。最も多かったのは「ラシラ」だったと思う。このとき私は「シソラ」と発表した。
どういう訳か先生は私のこの回答をいたく感じ入り、素晴らしいと絶賛して学童全員の前で褒めたことがある。もの凄く優しい感じの音の配置というベタ褒め状態だった。私はこそばゆい感じがしてならなかったが、正直どうして他の発表作に比べて優れている理由がよく分からなかった。それまでに子供心にも先生から気に入られているが故の贔屓かも知れないとは感じていた。[1]しかし褒められて悪い気がするはずもなく学童期はこの先生のことを気に入っていたようである。同様の現象は中学3年生時代の文化祭向けの音楽コンクール練習で接した先生でも起きている。
出典および編集追記:

1. 幼少期から子どもの中に入っていかず大人の中で育ったが故に、先生を含めて大人がどうすれば気に入るかを先読みするような児童だった。このため先生からの受けは極めて良かった半面、他の学童からはいわゆる「良い子ぶり」と思われていたため格好の虐めの対象となった。
仕方がないことと思う…当時の私のような学童なら現在の自分だってきっと虐めたくなるだろう
【 音楽鑑賞 】
専ら音楽室で古典的な作品を聴いた。言うまでもなくレコードである。
この他に一度くらい渡辺翁記念会館に授業の一環として音楽鑑賞に行ったことがあるかも知れない。市子連の大会時に授業の一環として聴きに行ったこともあると思う。詳細を思い出せない。
【 楽器の演奏 】
記事作成日:2015/2/22
小学校低学年では楽器の演奏よりもさまざまな音楽に触れることでの情緒教育とリズム感覚養成が重視されていたように思う。リズム感覚としてはカスタネットが代表格で、幼稚園の延長として低学年でも扱ったと思う。赤と青の二枚貝をした形で片方にイボが付属していて押さえることで音を立てるようになっていた。中学校にあがるとき廃棄したと思う。

小学校中学年でハーモニカ、高学年で縦笛が課題となり、いずれもカスタネットと同様にすべての学童が買い求めて授業で使用した。ハーモニカは外側が橙色をしたプラスチックケース、中身は水色のプラスチックカバーがついた1段穴の統一品で、現在も手元にある。ただしそれ以前からケースがない2段穴のハーモニカがあった。捨てた記憶がないので現在もあるかは分からない。このハーモニカは何処で手に入れたのか分からない。

縦笛はチョコレート色をした統一品だが、ケースは付属していなかったので各家庭で布きれを用いて自前の笛袋を拵えた。うちではイチゴの模様が入った青い布で袋を作った。現存するかどうかは押し入れを調べてみないと分からない。他方、兄貴の頃は購入元が違っていたのか、薄いベージュ色の同じ縦笛だった。
打楽器系では木琴があった。これは学校で買った統一品と二川さんのお下がりを譲ってもらったものがあった。お下がりの木琴は青い袋でかなり古いものらしく、打鍵部分は焦げ茶色だった。使っているうちに紐が朽ちてバラバラになったためか廃棄している。統一品の木琴は同じく外側が青い色の袋で、交通安全をモチーフにしたイラストが描かれていたと思う。木琴自体は黒色に塗られていた。授業があるとき家から持って歩くためだろうか。兄貴と自分ので2セットあった筈だが、嵩張るのと他の用途もなかったため廃棄している。

自前のものではなく学校の備品を演奏することがたまにあった。学校でピアニカ(R) を演奏した記憶がある。音楽の授業だったか別の機会かは分からない。口を付ける部分が共用なので非衛生的で嫌だったのを覚えている。また、小学校ではないかも知れないがチューバのような大型の管楽器の演奏に一人ずつトライさせられたことがある。短音でも出すのは難しいとされていて、自分は吹き込むスーという音しか出せなかった。このときは教諭がアルコールを浸ませた脱脂綿で毎回口をつけるところを拭いて供した。

小学校5〜6年次の楽器総演奏としては縦笛が思い出深い。各パートに別れて重奏を行った。このとき演奏した曲「真っ赤な秋」で、そのパートのみを単独で演奏すると極めて間の抜けた感じの音程で、合奏することによりハーモニーとなった。このパートを練習していたとき間の抜けた感じがおかしくて、演奏中にしばしば笑った。吹奏系の楽器は演奏しているとき笑うのは致命的で、しばしば音程を外れてピキーという甲高い雑音を発する。この失態を狙って演奏中わざと友達同士が顔を見合わせることがあった。先生はこの現象を避けられないものと理解していたのか、突発的な笑いで音程を外れたピキー音を出しても特に怒らなかった。
【 合唱コンクール 】
記事作成日:2015/2/10
年に一回くらいだったろうか。学年ごとの合唱コンクールが行われた。クラス共通の課題曲とクラス毎の自由曲を設定して2曲歌った。合唱コンクールが近づくと音楽の授業は専ら課題曲・自由曲の練習一色となった。当時学年は6組まであり、学年で優勝したクラスは市子連(しこれん)への出場権を与えられた。

大人や先生の感覚では市子連へ出場するのは名誉なことであったが、私たち子どもの中では嫌だという否定的な反応が多かった。女子でも歌うのが好きと言っている子は殆ど居なかったし、男子に至っては人前で歌うのは屈辱的な行為の一つとも言える位置づけ[1]だったし、市子連行きになればそこで上位の成績を修めるためにまた練習の日々となるからである。実際、市子連で歌ったことが一度あり、そのときは放課後居残って練習しなければならなかった。個人的には「しこれん」というキーワードを耳にするだけで、今でも合唱コンクールが連想され当時の練習が嫌だったのを思い出す。

小学4年生のとき市子連で歌った自由曲(課題曲だったかも知れない)は「グリーングリーン」だった。クラスの男子・女性で分かれて各音程を練習した。ピアノの演奏は音楽専科の教諭が行うのではなくクラスでピアノが弾ける女の子(山崎さん)だった。
出典および編集追記:

1. 当時の男の子の一般的な傾向だった。特に音楽の授業で人前で歌うというのは耐え難いほど恥ずかしいことだった。まだカラオケというものが普及しておらず、プロ志向であれば別として一般人は大人も子どもも歌を披露する文化自体が存在しなかった。
《 家庭 》
小学5〜6年生から家庭科という授業があった。中学校では男子は技術、女子は家庭と分化したが小学校時代はどちらかと言えば家庭科の内容が主体だった。自分が男子だったからかも知れないが、実技に関しては女子の技術的内容としては釘と金槌を使った本立て程度だったのに対し、男子の家庭科的内容としては調理と裁縫があった。いずれも日ごろからやり付けておらず印象深かったためによく覚えているのかも知れない。
【 調理 】
調理では野菜サラダを作った。生野菜を刻んでゆで卵を盛りつけドレッシングも付属するもので、別途お米をといで炊飯も行ったため全部仕上げてそのまま当日の給食として予定されていたため、給食前に合わせて4時限に行われた。お米や食器は各学童で定量づつ持参したが、野菜などは学校側で購入したと思う。このときの役割分担などの様子を作文に残している筈である。余ったキュウリを大量に輪切りにし、塩水のみを漬けて食したようでキリギリスになったなどと書いている。
【 裁縫 】
裁縫関連ではテーブルクロスを作成した。台となるクロスが配られ、彩色したり側面に出ている糸を等間隔に結んで装飾とする程度の簡素なものだった。自分はタータンチェックを描いて青・黄・赤に彩色した。このテーブルクロスは小学校を卒業するまで給食時のナプキン代わりとして使っていたが、早い時期に廃棄したようである。
まち針の使い方も習ったようで、布の袋におがくずなどを詰めて作った針山が入った裁縫セットを教材として買わされた。これはクリーム色をしたプラスチックのケースで、各種木綿糸や針が入っていた。中学校へあがるときに廃棄した模様。

ミシンの扱いも授業項目にあった。当時は弾み車を手で回して足で鉄の板を踏むことで針の上下運動に換えるいわゆる「足踏みミシン」だった。課題としてはタオルを縢って雑巾を縫うだけなのだが、どういう訳か当時のミシンは足踏みのタイミングが悪いと弾み車が逆回転し取り付けられた針が曲がったり折れてしまう現象が多発した。自分は最後まで要領が飲み込めずクラスで準備していた幾本ものミシン針を破壊し、最後には担任が「もう雑巾縫いはいいから」と匙を投げられたのを覚えている。自分としては雑巾縫いを含めた裁縫ごとなど男のすることではなく学習する必要もないと感じていた[1]ようで、それほど気持ちの負担にはなっていなかった。このため現在でも自分でズボンの裾上げ一つ出来ない。
出典および編集追記:

1. これは自分だけの問題ではなく当時の一般的な世相である。男は外で働いて稼いで家族を食べさせることが至上命題であり、炊事洗濯など一般的な家仕事は母親のすべきことであり、男が学習する必要はない(すべきでない)と考えられていた。我が家でも父はその考えだったし母も私に家仕事を求めて来なかった。
《 正課 》
正課は授業と言うよりはクラスを超えた同一の興味や研究で繋がるもので、一般には正課クラブと呼んでいた。正課は小学5〜6年生にのみ導入されていた。小学5年生時には絵画、小学6年生時には将棋クラブに入っていた。他にどのようなクラブがあったか覚えていないが、概ね文化系と体育系に分かれていた。時限は火曜日の午後からに固定されていたような気がする。
学童自身の興味で自由に選ぶことができた半面、人気化して応募の多くなったクラブは抽選になり希望するクラブへ入れるとは限らなかった。自分は描画に特別興味を持っていたわけではないので、小学5年生での絵画は抽選漏れか自主的に人数の少ない正課を選び直した結果である。

小学5年生時の絵画クラブは専ら美術室で行われた。課題として啓発用のポスターを描いたことを覚えている。自分は「セイタカアワダチソウを撲滅しよう!」というテーマ[1]で描こうとした。このとき画用紙を縦置きにしたため標語が一列に入りきらず「セイタカアワ
ダチソウを撲滅しよう!」と配置しかけていたのを先生に指摘され、もっと文字の区切り位置を考えた方が良いと言われたことがある。この他に茶色の単色コンテを使った描画をやった記憶がある。何を描いたかは覚えていない。

小学6年生時の将棋クラブ選択は、父が将棋を覚え始めた頃、自分にも将棋を指せるようになって欲しいと考えていたためである。ところが実際将棋クラブへ入ってみると、基礎を教えるのではなくそもそも駒の動きや読みが分かっていることが前提になっていた。自分は漸く駒の動きを覚えただけで先読みはまったくできなかった。この点、将棋クラブの募集段階でどういう学童を求めるかの基準が提示されておらず、クラブではまったく勝てなかった。正課の教諭も児童が理解していることを前提に進めるので、私が次の駒を指せないで迷っているのを見て「早ょせー、早ょせー」などと無機質にせかすだけだった。この無能な教諭のせいで将棋が大嫌いになり、その後自分の人生において二度と将棋を学習しようという気が起こらなくなったのは特筆しておかなければならない。[2]かくほどに幼少期の教育は重要という反面教師である。
出典および編集追記:

1. 当時、セイタカアワダチソウの急速な勢力拡大が懸念され、くしゃみやぜんそくなどの原因として忌避されていた。小学4年生のときの友達と鎌を持って実際に野中付近に蔓延るセイタカアワダチソウを刈りに行ったことがある。現在ではセイタカアワダチソウとぜんそくの因果関係は明白に否定されている。

2. 教員免許を持った教諭ではなく単純に学童向けの将棋指導ができる社会人というレベルで招聘されたのかも知れない。子供心にも将棋が指せるというだけで、それ以外は何処にでも居る叔父さんという塩梅でまったく先生という目で見ることのできない大人だった。
《 課外活動 》
課外活動は学校のカリキュラムではなく放課後に行う諸々は学童の自主性に任されていた。身体を動かす体育系のみならず文化系の課外もあったかも知れない。しかし運動を殊の外嫌っていた上に学校が終わったら時間を自由に使いたい気持ちがあって自主的に課外クラブへ参加したことは一度もない。どのようなクラブがあったかすら分からない。

小学3〜4年生のとき先生からの強い勧告で放課後に行われるサッカーに参加していたことがある。遺憾ながらこのときに得られたものは何一つなく嫌な思い出しかない。補欠ながら高いサッカーウェアを買わされた挙げ句、そのウェアはレギュラーのメンバーでウェアを忘れて来た学童に貸せと言われて強奪されそれっきり戻って来なかった。結局サッカークラブが続く筈もなく辞めている。強制からは得られる成果は何もないという良い見本であった。
《 宿題 》
一般に宿題と言えば、学童が学校を後にして自宅に帰ってからも一定量の勉強を行うよう与える共通課題を指す。この定義から言えば小学校時代の宿題の占めるウェイトは大きくない。特定の教科に関する与えられた課題のみをこなすのは低学年までで、その殆どが先生の手製もしくは業者により調製されたプリントだった。
【 一般の宿題 】
後述するような学童の自主性にもとづくものではない現代風な宿題はもちろんあった。例えばプリントを配布して次の授業時までに仕上げて持って来るとか、算数の計算のように反復量が重視されるものには計算ドリルが使われた。計算ドリルは当時からすれば学校外の業者によって作成され調達される数少ない宿題だった。プリントも各教科のものを作成する業者はあったが、中学年時までは殆どが先生による手書きプリントだった。業者の教材を使う手抜き云々以前に未だそのような業者が少なかったことに起因する。
【 休暇中の宿題 】
休暇中の宿題と言えば夏休み帳が定番である。現在では学童向け教材を一手に作る業者が供給しているが、当時の夏休み帳は確か市か県が責任を持って制作していたと思う。夏休み帳の表紙はカラーで学年はいつのだったか不明だが錦帯橋の写真が載っていた。一番下には「山口県」と記載されていた記憶がある。それ故に県内の学童は夏休み帳に限って統一された宿題を課されたことになる。

夏休みは課題に捕らわれず自由に遊びたいという気持ちは早くからあったようで、確か一番最後の小学6年生次には配布された夏休み帳を夏休みが始まる前に全部片付けてしまった記憶がある。これは当時の級友(三春氏)と相談し、厄介なものはさっさと片付けようと話し合って協同で勉強もしたと思う。元々の構成は40ページあって毎日1ページづつ解くことによって夏休み終了時にちょうど仕上がるよう設計されていた。
夏休み帳の末尾には保護者の感想を記入する欄があり、親に書いてもらった上で提出するようになっていた。うちの親も友達と協同して夏休み前に宿題を片付ける計画について察知していたらしく、欄には「夏休みの間に日々取り組むという趣旨なのに夏休みに入る前に全部片付けては意味がない。これからは日々きちんと計画を立てて学習するようにしよう」と私に向けての当てつけともとれる感想を書いた。これを提出して先生が記述する感想欄には親向けの「ありがとうございました」の文言が書かれているだけだった。先生も知ってはいたようだが、ズルをした訳ではないので特に叱られることはなかった。それと言うのも夏休み帳だけが夏休みの課題ではなく、他に25メートルをクロールで泳げるようになることとか水彩画を一点描く、思い出深いことを作文にするなどの課題もあったからである。

冬休みも2週間程度あり何かの課題を与えられたと思うが、冬休み帳という形では存在していなかった。春休みは更に短く卒業・進級・仮入学と先生たちも忙しいからか特に宿題は課せられなかったと思う。
【 勉強日記 】
中学年に入ると授業で習ったことをどう理解したか自分の言葉で日々記述することを求められた。どの科目で何を書いても自由だったが、毎日提出するようになっていた。これは「勉強日記」と題され、文章の構成力養成という国語の課題を中心にした各教科の理解度報告というスタイルだった。他のクラスでも同等のことをしていたかどうかは分からない。宿題の出し方は一般的な教科の教育法と同様、担任の先生による一存で決められる部分であり、クラスを受け持つ先生の力量に影響される点は否めなかった。

そもそも大人にしても毎日何かの文章を書くことはそれほど容易なことではない。むしろ何かについて記述せよと課題を限定された方が対処はしやすい。先生は毎日の提出について強制はしなかったが、級友が提出しているのに自分は出さないなんてという張り合いが子供心にもあったと思う。お座なりに書いているときもあるし、気分が乗っているのかかなりまとまった分量を書いている日もある。

提出された勉強日記は、その日のうちに先生によってすべて査読され下校時までに返却された。そこには確かに査読されたという認め印が押されるのだが、今から思えばそこには絶妙に工夫された「記号的な短信評価」があった。
作文とは言っても横罫のノートに記述するので原稿用紙の使い方のようなルールはなかった。ただし内容的には作文であることを重視し、すべての日記には日付の他にタイトルを付けることを求められた。その後に本文となる部分があるのだが、先生による記号的な評価はタイトルと本文の内容に対して下された。まず内容に関して認め印の数は1〜5個で、ざっと見た限りでは3個が標準レベルという印象を受けた。時間がなくお座なりに書いただけという内容の日記は先生にはお見通しだったようで、アッサリと認め印1個の評価だった。しかし力作などには5個続けて押されることがあり、これは大きな励みになった。押された認め印の数は、当時張り合っていた学童同士の自慢の対象にもなった。
タイトルに関して評価されることはあまりなく、標準は0個だった。タイトルの付け方が特に本文によく合致している場合には本文の評価とは別に1個離して認め印が押されるので、そのことでタイトルの評価が分かった。

特に印象的だったのは、先生が戦時期に半島の人々を徴用して強制労働や差別を行ってきたというのを社会の郷土史話として話したときの感想を書いた日記だった。このとき「ひどい差別」というタイトルで長文を書いたところ、タイトル部に2個、本文に6個という見たこともない認め印の多さに驚いたことがある。文末に2個+6個と続けざまに押された認め印だけで特に先生直筆による評価の言葉があったわけではない。どちらかと言えば客観的評価でも口頭で述べることはあっても記述として書き与えることが少なかった先生であった。しかし幼少期から大人の顔色を窺う子どもだったせいか、褒められてもそれほど喜ばず[1]むしろ努力を評価されていることに重きを感じていた。今から思えばこのときの出来事が文書構成の原動力であったことは確実であろう。

後年のことになるが、中学生に入って自主的に日記を書き始めている。初期の日記は本文のみであったがほどなくして特筆すべき話題のおある日記にタイトルを導入している。これは紛れもなく小学校中学年時代の勉強日記のスタイルが色濃く影を落としている。なお、勉強日記は主要な一冊のみが完全な形で保存されている。
【 自由学習帳 】
高学年になると、勉強日記ではなく自由学習というスタイルになった。特定のノートに予習復習的内容を書き、毎朝提出した。先生はそれに目を通して採点のときに使う赤の水性ペンで評価をかいて当日中に返却した。ただしこのときの書き方は日記帳ではなく、理科などは図を描いたり算数ではグラフを導入したりもあった。

自由学習帳も学童の自主性に任されていて、提出されれば評価するという方針だった。これも中学年時代と同様に学習帳の冊数が進むことを友達と競い合うことで切磋琢磨されていた。一連の自由学習帳はすべて完全に保存されている。
出典および編集追記:

1. 如何にも素直でない子どもの姿であるが、そもそも子どもをどのように教育するか云々のような大人が読むべき本を当時から読んでいたこと、早い時期から大人の中へ入って育ったこともあったため、褒め方一つにしても真にそう感じているのかお世辞で言っているのかを察知していたと思う。

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