小学校の生活(恩田小学校・昭和40年代)

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ここでは、小学校時代において週単位で反復される学校生活について項目毎に記述する。週単位でない単発イベントや行事については小学校の行事の項目に記載している。
厳密には校門をくぐってから下校するまでの全てが学校に係る勉強時間だが、学校生活の最も中核的な部分は各科目の授業であろう。それらは記述項目が多いので小学校の授業全般という項目を作成した。自身の学童期における体験に基づいた話なので同時期の他の小学校について必ずしも同様だとは限らない。時代は昭和40年代半ば〜昭和50年代前半だが、高学年時の記憶が最も鮮明なので、時期を明記していないものは概ね小学6年生時(昭和50年前後)の状況である。
《 集団登校 》
現在では当たり前のように行われている集団登校は、記憶が確かなら私の学童期において小学校入学時からただちに行われていたとは思われない。学童の数が多くしかも正門(東門)・南門・西門とあるうちの正門から入校する学童が極めて多かったことから、国道190号の恩田交差点辺りでは登校時間ともなれば学童がゾロゾロ歩いている状態で、よほど遠方から通うのでもなければ一人で登校していても事実上の集団登校状態であった。記憶にある中で町内単位で集団登校するようになったのは、小学3〜4年生時のことである。

集合場所はうちに関しては特になかったと思う。概ね同じ時間に家の前の市道をゾロゾロ歩いて来るので、殆ど待機することなく集団登校のグループに入ることができた。当然組も学年もバラバラだった。そのせいか集団登校のとき一緒に登校する仲間と話が弾んだ記憶がない。2列に並んで整然と歩くのでおしゃべりする余裕がなかったか、この頃は町内の学童よりもクラスの仲間との繋がりの方が強くなっていたからと思われる。
【 集団登校で担任に怒られた事件 】
確か小学4年生に上がって間もないとき、担任に近所で小学1年生にあがったばかりの男児を集団登校するよう誘わなかったことについて酷くなじられたことがあった。同じ町内に居るなら近所の子どもが小学生に上がるのは知っている筈で、まして学校に不慣れな1年生の子どもを集団登校へ誘わず一人で行くとは何事だと厳しく叱られた。
しかしこの件については担任には話せない我が家の事情があった。町内でうちの親とその家とは付き合いがないどころか村八分状態だったのである。幼少期に近所の子どもと家の前で遊んでいたとき、そこの家の門柱を傷つけたか何かしでかして主人の怒りに触れ、子どもたち全員が「お前ら一人ずつここに来い!俺が殴ってやる!」などと酷く罵倒された。私も兄貴も居たことだし、当然ながら家に帰って報告することで同じ町内ながら断絶状態になった。私もトラウマになっていたし親からもあの辺で遊ぶんじゃないなどと言い渡され避けるようになった。担任はもちろんそのことを知らず、今後は毎日かならずその子の家へ行って集団登校に誘うよう厳しく言い渡され「高学年だと言うのにそんな無責任なことじゃダメじゃないか!」と、学童であった私の話をいっさい聞くこともなく叱り飛ばした。信頼していた担任からこれほど酷く叱られたことはなく、かなり堪えたと思う。当時の自分は怒られながらもなお納得しておらず、ひたすら理解してもらえない悲しみを味わったのを覚えている。

しかし担任の話すことは尤もであり、近所の関係がどうであろうと低学年の学童を学校へ安全に行けるよう手引きしてやることは上級生の義務であった。その後自分は毎朝、その児童が居る家まで行ってドアノックをして集団登校に誘った。親は出て来なかった。私が5年生へ上がる頃には自分で集団登校の列に加わるようになったので再び用事がなくなったし、当然ながら最後までその家との関係は修復されなかった。
この他にも多くのトラブルを経験しているが今思えばうちの親の方にも責任がある
【 下校について 】
集団登校はルールとして定められていたが下校についてはまったく規則がなかった。学年が異なれば授業が終わる時刻がまちまちであり時間を合わせて帰るのが困難だからだろう。ただし下校路についてはかならず毎日同じ道を通ること、寄り道しないことを校則に定められていた。
《 朝礼 》
午前8時半に朝礼が始まり、その時間までに教室の自分の席に着いていなければならない。しかし小学校では遅刻に関して特に罰則のようなものはなかった。朝礼が始まるまでは校内放送を介して音楽が流れていて放送室から放送係の学童の声が聞こえることもあった。
遅刻は問題だが、逆に朝早く来ることに関してはどうなっていたかは分からない。当時既に町内の学童は独り歩きではなく集団登校するよう求められていたので、よほど朝寝坊しない限り学校へ到着する時間は常に一定だった。したがって登校して朝礼が始まるまで遊んだ等という記憶がない。それほど時間的余裕はなかったと思う。

先生が教室へ入って来ると、学級委員が「起立!」の号令をかけた。号令のかかるまでに学童は自分の席へ着いていなければならなかった。「礼!」で頭を垂れる礼、そして「着席!」で座るというお馴染みのものである。
朝礼時に出欠をとっていた筈だが、どのようにしていたか思い出せない。もっとも素朴な作法は出席番号順に名前を呼び、学童の「はい!」という返答を確認するというものである。しかし教室内には使われない机や椅子はなく、学童が着席していない椅子を目視することで誰が休みかは判別できるから呼び上げはなかったかも知れない。それと言うのも当日具合が悪くて欠席したり酷い朝寝坊で遅刻する場合は保護者が朝礼時までに学校へ電話連絡するのが通例であり、朝礼に姿を現さず先生もその理由を知らないという事態は殆どなかったからである。

出欠確認後にまず提出物があるときは提示を求められた。参観日の保護者出欠確認票や前日の宿題となっていたプリントなどである。もっとも学習帳やノート類は朝礼前にあらかじめ学童自身が提出物を出す場所があったかも知れない。また、伝達事項や保護者向けのプリント配布もこのとき行われた。
授業
情報この項目は分量が多くなったので単一記事に分割されました。記事の移転先は項目タイトルに設定されたリンクを参照してください。
《 中間休み 》
各時限の授業間には5分の休みが設定されていた。図書や美術など教室の移動を伴う授業ではこの時間内に移動した。短い時間なので遊ぶことはできず教室内でしゃべる位だった。体育の授業の場合、教室で着替えて運動場へ移動する時間がかかるので時限開始のチャイムが鳴るまでに揃うことはできなかったかも知れない。先生も着替えて教具を持って運動場なり体育館へ移動しなければならないからである。
【 ティーチャールーム 】
中間休みを挟んで教室の移動がない場合、先生は一旦職員室へ戻っていたと思う。学年によっては教室前面の窓側にティーチャールームと呼ばれる仕切られた一角があり、そこへ入ることもあった。ティーチャールームには大判の机が置かれていただけなので、朝礼時にその日の授業に使う教科書やノートなどをまとめて持ってきて置いていたと思う。学童は決して中に入ってはいけないと言われていて、鍵が掛かるようになっていた。ティーチャールームがない教室も覚えているので、もしかすると吊されたカーテンのみで仕切られた空間だったかも知れない。

【 ラフ叩き 】
中間休みには学習班委員にはかならずすべきことがあった。それはチョークを吸い込んだラフ(黒板消し)を叩いておくことである。授業が終わると黒板は先生がチョークで書いた板書があり、次の授業が始まるまで消しておかなければならなかった。先生によっては自分で消すことがあったかも知れないが、ラフを叩くまではやらなかった。板書されたチョークを拭ったラフは次第にチョークが溜まり、そのままだと新たに消そうにも逆にチョークで黒板に塗りたくる状態になってしまった。

ラフは最低でも各教室に2個は置かれていたので、ラフ叩きを行う学童はそれを2つ持ってシンバルを打ち合わせるが如く打ち付けて粉を追い出した。それを室内でやると粉まみれになるので教室の窓からできるだけ腕を長く外へ伸ばし、粉が教室の中へ入らないよう風下でやる必要があった。完全に粉が出なくなるまでする必要はなかったが、ある程度キレイにするにしても結構な重労働だった。ラフが一つしかないときは窓の近くの壁に打ち付けて叩いた。多くの学童が同じ場所でラフを打ち付けるため、後者の外からでも窓枠の近くにラフを打ち付けたときできるチョークの粉の跡が見えたものだった。[1]ラフを叩いたとき出てくるチョークの粉というか煙はできるだけ吸わないように指導された。

ラフ叩きは中学校時代も学習班の仕事だった。あるいは中学校限定で小学校時代はしていなかったかも知れない。ラフやチョークを使った遊びは中学生時代もやっており、遊びの項目に掲載している。
出典および編集追記:

1.「チョークの想い出(要ログイン)
《 給食 》
現在の学童ではどう受け止められているのか分からないが、私たちの時代での給食は単に学校でお昼ご飯を食べるという以上の意義を持っていた。食べ盛りなので朝食をとっただけでは足りずお昼を前にして既に空腹になっていた。また、授業では静粛を保ち先生の話を傾聴することが求められるのに対し、給食では過度に騒ぎ立てない範囲で友達と談笑しながら食べることができた。先生は基本的に教室の前左側にある机で食べていたが、欠席している児童があるときなどはその子の机を借りて学童に混じって食べることもあった。
給食は午前中授業の土曜日以外の平日はかならずあるので献立の計画が可能であり、限られた予算と学童の要求カロリーや栄養の構成などを考慮して決められていた。どの日にどんな献立が出されるかは献立表として前月最終日までに配布された。大方の保護者は当日学童が昼に食べる給食と夕食のメニューがだぶらないよう考えていたので、献立表は子どもだけでなく親にとっても重要な情報で、しばしば各家庭で冷蔵庫の扉に貼られていた。
献立表には給食が提供される日にちと曜日、メインディッシュ、パンの種別などが記載され、その横には栄養学的分類として「運動や熱の元となる」「血や肉になる」「身体の調子を整える」の3区分された枠に当該献立を作るとき使われる食材が分類し記載されていた。当時はカロリー表示は重要視されておらず献立表には記載されなかった。言うまでもなくアレルゲンとなり得る物品の記載どころか、そのような配慮などまったく成されていなかった。[1]

昭和中後期の当時は学童の昼食としてのカロリー源はもっぱらパンであり、私の小学校時代の給食では米飯が提供されたことはない。パンもやや細長いコッペパンが主流で、一般にはキャラメル包みされたマーガリンが付属していた。たまにタカベビーのクリームやチョコレート風のペースト、各種ジャム(マーマレード・りんご・オレンジ)が小袋として提供されたが、パンそのものにクリームを注入したりザラメを振りかけたサンライズのようなパンが出たことは一度もない。また、全体のカロリーを考慮したのか、メインディッシュがやや重厚な場合には通常よりもサイズが小さい「減量パン」が出た。お腹空きざかりな学童には物足りずいたって不評だった。これらのパンは平べったいアルミの皿に入れて配膳された。

牛乳はシモラクのガラス瓶入りで、紙の蓋に紫色のビニールで封印された200ml入りである。どんな寒い日でも冷たいまま提供されたので、飲んで身体が冷えるのが嫌で残す学童(特に女児)が目立った。現在ではミルメーク(R)のように別途味の付いた粉末を入れて各種味付き牛乳を作る素が市販されているが、最初にこの種のものが現れたのは早くとも小学5〜6年生頃からである。しかも当時は四角い小袋に入ったココア粉末しかなかった。

メインディッシュに相当する食材は、やや底の深いアルミ容器に配膳された。大抵が温かく加熱されているので「温食(おんしょく)」と呼ばれていた。もっとも給食センターを出て給食室へ納入され、それを学童が取りに行って配膳するまで相応な時間を要するために熱々の食材は皆無で、特に汁物は明白にぬるい状態になっていた。これは日頃の食事でも熱い食べ物を摂れないいわゆる猫舌の遠因となった。[2]

個人的に思い出深いのはうどんである。大きなアルミ鍋に出し汁と浮き実類が入った状態でクラス単位で供され、配膳係はお玉で例のアルミ容器によそった。それとは別にスーパーで販売されている袋入り茹で麺が一袋配られた。食べるとき学童自身で袋を破って汁の中へポチャンと投入するのである。出し汁は今思えば化学調味料の香りが非常に強かったし、何よりも冷たい袋麺を入れるので、元から熱くもないぬるめの出し汁がいっぺんに冷えた。もっとも猫舌な自分にとっては殆ど冷めた状態にも近いぬるいうどんは結構な好みで、その後のインスタント食品好きに繋がった。

現代ならうどんやラーメンを食べるときの道具は箸と相場が決まっている。 しかし学童期の学校給食で割り箸が使われたことはなくいつもながらの先割れスプーンであった。先割れスプーンの先は小さなフォーク状に加工されていたが、突き刺してうどんを捕らえられるようには出来ていなかった。ツルツル滑るうどんを掬いあげられる筈がなく、食器を抱えず机の上に置いたまま顔を直接近づけて麺を掬ういわゆる「犬喰い」を誘発した。今から思えば信じがたい食事環境だった。しかし当時はそのことについて改善が必要と考える保護者はあったかも知れないが、改められることもなく小学校を卒業するまで続いた。
【 準備と後片付け 】
恩田小学校は当時調理室をもたず、琴芝にある給食センターで調理されたものが給食室へ納入されていた。学童は給食時間になったら分担して食器や食材を取りに行く必要があった。これは掃除と同様な当番制になっていて、週単位のローテーションだった。全員参加ではなかったので当番に入らない学童は机の上にナプキンを敷き、机を班単位でくっつけて待機していた。このナプキンは初期においては恐らく学校指定のもので、男児は青色、女児はピンク色の正方形をしたビニル製で、白い水玉模様が入っていた。温食をこぼしたりで汚れがちなのだが持って帰ると次に学校へ持っていくのを忘れがちになるせいか、多くの学童が机の中へ置き去りにしていた。走り回ると埃が立つので給食が始まったら当番でない学童は着席していなければならなかった。

当番は給食の時間が始まったら給食室へ食器と食材を取りに行った。給食室は新校舎と木造校舎をつなぐコンクリート通路の途中右側にあり、木造平屋の造りだった。中に入ると木製の棚がいくつも作られていて各学年・組に割り当てられた場所に食器類が置かれていた。食器は温食用の深いアルミ皿とパン用の平たい皿、温食を食べるときに使う先割れスプーンで、運びやすいように一式がケースの中に格納されていた。皿はすべて積み重ねられ、先割れスプーンは柄の根元のところに穴が空いていてそこに長い針金を通すようになっていた。パン用のアルミ皿は平たくて加工しやすいからか、先割れスプーンを使って年号や名前などを刻みつけたものが散見された。

牛乳はシモラク乳業の200ml瓶入りで、クラスの全学童に相当する40本が一つの箱に格納されていた。5×8の並びで橙色をしたプラスチックケースだったと思う。中身が入っているときは非常に重く、学童2人で抱えて運ばなければならなかった。パンはプラスチックケースに覆いをした状態で納入され、これも学童全員分が入っているとは言ってもそう重くはなかった。温食は両側がパチッとパッキング可能なアルミ製の深い容器で、全学童分相当量が入っていた。これら食材と食器を教室へ運ぶ担当、運ばれたものを各学童へ配膳する担当、温食をアルミ皿へ分配して盛りつける担当があった。運搬は力仕事なので専ら男児が担当し、教室で小分けに盛りつけるのは女児の役割だった。教室の後ろには配膳用の台があり、給食が始まるときにはその上に厚手のビニル製ナプキンを敷いてその上に運び込まれた温食の缶などを載せた。配膳時に汁をこぼすことがあるので洗う必要があるのだが、しばしば放置されナプキン自体が食材の汁の匂いを放っていることがあった。

配膳を行う女児はマスクを着用しなければならなかった。エプロンなども着用していたかも知れない。盛られた食器を配膳するのは容易だが、学童全員の温食を過不足なく盛りつけるのは結構難しかったのではないかと思う。いずれにしろかならず若干余るように盛りつけていたようで、最後の方の学童が一人分に満たない量になるようなことは起きなかった。

配膳が完了して全員が着席した後、恐らく朝礼と同じく学級委員が号令をかけた。「合唱!頂きます!」で食べ始めた。規定されていることなので驚くには当たらないが、先生も給食費を払っており教室で学童と一緒に同じ給食をとった。教室の前側一番端に先生専用の机がありそこで食べるか、稀にその日休んで空いている机があれば一式をそこへ移し学童に混じって食べることもあった。
一人当たりの単位が決まっているパンや牛乳は欠席学童が居ない限り余ることはないが、温食は先述のように若干余るように盛りつけているので、希望する学童はお代わりができた。これは早い者勝ちだったのでフルーツサラダのような人気のメニューではすぐ食缶が空になった。

給食は終了時間が厳密に固定はされておらず終わったら休み時間になった。全員がほぼ食べ終わった時点で片付けた。片付けは各自が使った食器や牛乳瓶は元の箱へ納めた。牛乳の蓋やビニルの留めは教室の隅に置かれている四角い油缶を再使用したゴミ箱へ棄てられた。空になった容器類を再び給食室へ返しに行くのも当番の役割だった。中身がないので牛乳瓶の箱も男児一人で運べた。
学童にとって給食後の休み時間は遊び時間であり、できるだけ長く遊びたいので駆け足で空になった容器などを返しに行ったことがある。
【 食材の事故品 】
現代では食品への異物混入が問題視され、些末なものでもニュースとしてかなり広範囲に報道される。そのことを思えば昭和期はもっと酷かったのではと思われるかも知れないが、個人的に遭遇したのはコッペパンの中に節の入った竹串のようなものが入っていた一度のみである。何年のときかは思い出せない。コッペパンは頭からかぶりつくのではなく千切って食べていた(そういう食べ方を推奨されていた)ので、パンを千切る過程で見つけだし先生に報告した。先生は給食センターに報告すると言ってパンの中に混入していた異物のみを回収した。パンは殆ど食べ終わっていたので取り替えることはしなかった。

肉の入った温食が出されたとき、青色に変色した肉を盛られたことがある。今思えばこの肉は完全に事故品だった。幼稚園のとき青紫色をした共通の制服を着ることになっていたが、その服の色に似ていた。幼少期からそれでなくても肉が好きではなかったところに変色した肉が入った温食を出されて胸が悪くなった。当時は給食を残すのは悪いことだったので、先生が食べるよう促す以前に回りの級友が残さず食べろと口々に命令した。涙をポロポロ流しながら無理やり食べさせられたのを覚えており、この事件のせいで大人になっても相当の期間にわたって肉類が食べられない原因となった。恐らく1〜2年生のことと思うが、あるいは幼稚園時のことだったかも知れない。
【 給食を通じた教育について 】
給食は日常生活に於ける3食のうちの昼食相当であることに変わりはないのだが、学校においてはそれ以上の意味をも持っていた。料理を作ってくれる人々に感謝し、各食品が身体に与える要素を学習し、共に食することで勉学以外の相互理解を深める位置づけがあった。今風の言葉で言えば「食育」である。ただし、それは現代からすれば必ずしも合理的とは言えず些か個人の嗜好を無視し、あるいは踏みにじるような矯正(あるいは強制)が存在した。その最たる例は「好き嫌いをしてはならない」「出されたもの(特に温食)は残さず全部食べる」という考え方である。

恐らく全学年にわたって行われていたことであり、特定の学年や担任が特に酷かったという傾向はない。低学年時では「先生、温食残すー」と言い、担任は「もうちょっと食べなさい」と言った。5〜6年生では一時期、担任により学童が残した食材を給食が終わる時間にすべて逐一報告させメモを取ることが行われていた。担任の意向ではなく、どのような食材が学童に好まれ(嫌われ)ているかの統計を取っていたのかも知れない。残さず全部食べることが理想的であることに揺らぎはなかったが、報告するだけで良く強制はされなかった。それでも残すものがあまりに多いと自責感があったし、みんなに聞こえる形で報告するので周囲の学童には好き嫌いの多い奴だということが明白に分かった。そして学童自身にも何故そうなのかの理由はとばして「食べ残しは悪いことである」の理解のみが深まった。

うちの親も親戚(特に今は亡き祖父)も出されたものを残すのは非常に悪いことだと決めつけ、何でも例外なく残さず食べることを求め強制した。肉や野菜が嫌いだとかそういう理屈は一切通らなかった。何故食べなければならないのかについて問うなど言語道断で、講釈を垂れるなと怒鳴られた。そうしたからと言って好き嫌いが治るわけでもなく、遺恨が残るだけで何一つ利益はなかった。食事を作った人への感謝の気持ちは必要だが、そのことと体質的に合わない食材を強制的に食べさせることはまったく別問題である。あまりにも児童の好き嫌いが激しいなら、そもそもそうなる以前の食育からして不適切だったに他ならず、こういった強制を行えば一生涯に渡って歪んだ食癖を抱え込んでしまうという実例である。
【 欠席児童の扱い 】
温食のような盛りつけもの、牛乳のようなガラス瓶に入っていて持ち出すことのできないものは外して、それ以外の搬出可能なものは一纏めにしていた。例えばパンやそれに付属するマーガリン、梱包された果物類はビニール袋へ一纏めに入れて欠席した学童の家にもっとも近い学童が帰り道に立ち寄って送り届けていた。このとき配布されたプリント類も一緒に渡した。これは制度として固定されていたものではなく、持っていってあげるという学童が居た場合の任意だった。
出典および編集追記:

1. 配慮がされていないと言うよりはむしろ当時は「必要がなかった」というのが本当のところだろう。身の回りには何かの食材を食べると酷いアレルギー症状が現れるなどといった報告は皆無で、クラスにもそういう学童は居なかった。

2. 例えば当時既にラーメン店があり家族でしばしば食べに出かけていた。私は熱いラーメンをすすることが出来ず極端に食べるのが遅い中、親父はさっさと丼を空にしたまま待っているという図式が目立った。
《 掃除 》
掃除はその日の最後の授業が終わってただちに取りかかられた。掃除が終わって終礼になるのでサボって帰ることはできなかった。
【 掃除区域の割り当て 】
掃除は全学童参加で、いくつかの掃除区域が週単位でローテーションになっていた。日課表の貼られている壁のすぐ横に6つに区域分けされた円形のグラフがあり、同じく学童全員を出席番号によって6等分したグループを書いた小円形グラフが重ねて貼られていた。毎週月曜日になると小円形グラフを6分の1周させて掃除区域を変更するシステムだった。クラス内の区域割り当てがどうなっていたか思い出せない。教室・廊下・トイレと階段・下駄箱・外庭(がいてい)と特別教室だっただろうか。

学年毎の各クラスの掃除区域割り当てもあった。5〜6年生の新校舎の場合、トイレと階段が東西の端にあるので、1組と6組には「トイレと階段」の割り当てが含まれた。階段に接しない2〜5組は恐らくもう一つ特別教室を増やしたり外庭の区域を増やしたのだろう。
【 掃除中のBGM 】
掃除時間中は教室の黒板上部に取り付けられている四角いスピーカーから校内放送を通じてBGMが流された。掃除開始と終了時には放送室で操作を行う学童の声も流れた。「掃除の時間になりました」など。BGMはどんな曲が流れていたかは覚えているが曲名が分からない。
【 教室の掃除 】
教室の掃除はもっとも手間がかかった。手順は概ね次の通りだった。
(1) 学童すべての机と椅子を教室の後ろへ下げる。
(2) 前から木目に沿ってほうきで掃く。
(3) バケツに汲んだ水に雑巾を漬けてよく絞り床を拭く。
(4) 後ろへ押しやった椅子と机を前の方に戻す。
(5) 更にゴミ埃を後ろへ掃いて一ヶ所に集める。
(6) ちりとりでゴミを集めてゴミ箱へ棄てる。
(7) まだ拭いていない場所を雑巾で拭く。並行してゴミを焼却炉へ棄てに行く。
(8) 雑巾をよく洗って手摺りに掛ける。並行してバケツの水を階下まで棄てに行く。
雑巾が大量に要るので、夏休みなど学期が明けたとき学童一人あたり一枚雑巾を縫って供出することになっていた。教室の床は木製で、ほうきで掃くのも雑巾で拭くのもかならず板目に沿って行うよう指導された。夏はともかく冬場の寒い時期にバケツへ水道の水を汲んで雑巾を漬けるのは難儀な作業だった。誰もがこの仕事を嫌がった。しかも雑巾に水を漬けて拭けば良いというものではなく、キチンと絞り、雑巾は二ツ折りにして使い、両手を押し当てて雑巾を床に押し付けたまま前屈み状態で走りながら拭くいわゆる「お寺の小僧」スタイルの拭き方だった。雑巾も古いものは繊維が綻びていて、そのまま両手を押し付けて拭いていると、しばしばささくれた床の板材で「吸いばり」が立った。板には節目があり、節の部分が抜け落ちて楕円形の穴が開いている場所もあった。
ゴミ入れは昔、豆腐や油を売るとき用いられていた直方体をした業務用のアルミ缶が流用されていてどの教室の隅にも置かれていた。消しゴムかすや埃などあらゆるゴミが混じっていたが、そのままゴミ缶へ入れ棄てに行っていた。

雑巾で拭くときの水は廊下のところにある水道でバケツに汲むことができたが、この水を同じ水道場へ捨ててはいけなかった。床を拭いて雑巾を洗った水は砂埃を含んでいて、そのまま流すと排水管が詰まるからである。そのため階下の溝まで捨てに行かなければならなかったが、6年生は3階で汚れ水の入ったバケツを提げて階下まで棄てに行くのが面倒くさくてしばしば担任の目を盗んで水道場で流していた。
【 廊下・階段の掃除 】
新校舎の廊下や階段はリノリウム張りなので水拭きはせずほうきで掃くだけだった。廊下には水道場と傘立てがあり、水道場は石けんが切れていたら補充する位で殆ど掃除するところがなかった。窓ガラスは夏休み前の大掃除のときだけ教室と一緒に拭いていた。6年生は3階に教室があるので3階から2階へ降りる階段部分のみほうきで掃いて2階の教室前廊下でゴミを集めとった。
階段には内側に木製の手摺りがあり、中央に細い溝が切ってあった。この中にビー玉を入れて転がしたり、あるいはわざわざ雑巾を絞った水をこの中に垂らして下まで水が駆け下りるのを眺めて遊んだことがあった。
【 外庭の掃除 】
外庭の掃除は主に落ち葉集めと草引きだった。掃除に必要な道具が何処にあったか思い出せない。恐らく差し掛け小屋に収納されていたと思う。使う用具はがんぜき(熊手)、エブ(竹で編んだかご)、十能などであった。落ち葉はがんぜきでかき集め、目立つところにある雑草を抜いてエブに入れた。校舎の外側には浅い溝が設置されていて雨が降ると土が流れ込むので定期的に十能で掘り出した。長いこと放置していると桝の部分に大量の土砂が溜まり、掘っても掘っても底が見えない位のときがあった。遙か昔に桝の中へ落ちてしまったままと思われる大きな石けんを掘り出したことがあった。
《 終礼 》
終礼は掃除の直後に行われた。教室の掃除直後なので床が濡れていることが多かった。追加で保護者向けの連絡メモとか宿題のプリントが配布された。また、朝方提出した学習帳などはこのとき返却された。
終礼が終わった後は速やかに教室を後にしなければならず、居残りは原則認められていなかった。しかしすぐに校舎が施錠されるのではなく用務員の人が見回りする夕刻時までは出入りできた。
《 課外活動 》
課外活動は学校のカリキュラムではなく放課後に行う諸々は学童の自主性に任されていた。身体を動かす体育系のみならず文化系の課外もあったかも知れない。しかし運動を殊の外嫌っていた上に学校が終わったら時間を自由に使いたい気持ちがあって自主的に課外クラブへ参加したことは一度もない。どのようなクラブがあったかすら分からない。

小学3〜4年生のとき先生からの強い勧告で放課後に行われるサッカーに参加していたことがある。当時の運動系クラブは何処もある程度そのスポーツが出来る学童の能力を伸ばすことが主体であり、不慣れな学童に基礎を教えるクラブなど皆無だった。クラブ員は一体感を持たせるために全員、高いウェアを買わされた。自分は補欠なので番号が後ろの方の35番だった。このウェアは確か試合があったとき、ウェアを持って来るのを忘れたレギュラーの学童に貸せと言われてそれっきり二度と戻って来なかった。運動の世界では年上も年下もなく、能力のある学童が暴君のように威張り散らすことが許される世界と理解したし、スポーツに対する不信感と嫌悪感のみが増幅された。
《 宿題 》
一般に宿題と言えば、学童が学校を後にして自宅に帰ってからも一定量の勉強を行うよう与える共通課題を指す。この定義から言えば小学校時代の宿題の占めるウェイトは大きくない。特定の教科に関する与えられた課題のみをこなすのは低学年までで、その殆どが先生の手製もしくは業者により調製されたプリントだった。
【 一般の宿題 】
後述するような学童の自主性にもとづくものではない現代風な宿題はもちろんあった。例えばプリントを配布して次の授業時までに仕上げて持って来るとか、算数の計算のように反復量が重視されるものには計算ドリルが使われた。計算ドリルは当時からすれば学校外の業者によって作成され調達される数少ない宿題だった。プリントも各教科のものを作成する業者はあったが、中学年時までは殆どが先生による手書きプリントだった。業者の教材を使う手抜き云々以前に未だそのような業者が少なかったことに起因する。
【 休暇中の宿題 】
休暇中の宿題と言えば夏休み帳が定番である。現在では学童向け教材を一手に作る業者が供給しているが、当時の夏休み帳は確か市か県が責任を持って制作していたと思う。夏休み帳の表紙はカラーで学年はいつのだったか不明だが錦帯橋の写真が載っていた。一番下には「山口県」と記載されていた記憶がある。それ故に県内の学童は夏休み帳に限って統一された宿題を課されたことになる。

夏休みは課題に捕らわれず自由に遊びたいという気持ちは早くからあったようで、確か一番最後の小学6年生次には配布された夏休み帳を夏休みが始まる前に全部片付けてしまった記憶がある。これは当時の級友(三春氏)と相談し、厄介なものはさっさと片付けようと話し合って協同で勉強もしたと思う。元々の構成は40ページあって毎日1ページづつ解くことによって夏休み終了時にちょうど仕上がるよう設計されていた。
夏休み帳の末尾には保護者の感想を記入する欄があり、親に書いてもらった上で提出するようになっていた。うちの親も友達と協同して夏休み前に宿題を片付ける計画について察知していたらしく、欄には「夏休みの間に日々取り組むという趣旨なのに夏休みに入る前に全部片付けては意味がない。これからは日々きちんと計画を立てて学習するようにしよう」と私に向けての当てつけともとれる感想を書いた。これを提出して先生が記述する感想欄には親向けの「ありがとうございました」の文言が書かれているだけだった。先生も知ってはいたようだが、ズルをした訳ではないので特に叱られることはなかった。それと言うのも夏休み帳だけが夏休みの課題ではなく、他に25メートルをクロールで泳げるようになることとか水彩画を一点描く、思い出深いことを作文にするなどの課題もあったからである。

冬休みも2週間程度あり何かの課題を与えられたと思うが、冬休み帳という形では存在していなかった。春休みは更に短く卒業・進級・仮入学と先生たちも忙しいからか特に宿題は課せられなかったと思う。
【 勉強日記 】
中学年に入ると授業で習ったことをどう理解したか自分の言葉で日々記述することを求められた。どの科目で何を書いても自由だったが、毎日提出するようになっていた。これは「勉強日記」と題され、文章の構成力養成という国語の課題を中心にした各教科の理解度報告というスタイルだった。他のクラスでも同等のことをしていたかどうかは分からない。宿題の出し方は一般的な教科の教育法と同様、担任の先生による一存で決められる部分であり、クラスを受け持つ先生の力量に影響される点は否めなかった。

そもそも大人にしても毎日何かの文章を書くことはそれほど容易なことではない。むしろ何かについて記述せよと課題を限定された方が対処はしやすい。先生は毎日の提出について強制はしなかったが、級友が提出しているのに自分は出さないなんてという張り合いが子供心にもあったと思う。お座なりに書いているときもあるし、気分が乗っているのかかなりまとまった分量を書いている日もある。

提出された勉強日記は、その日のうちに先生によってすべて査読され下校時までに返却された。そこには確かに査読されたという認め印が押されるのだが、今から思えばそこには絶妙に工夫された「記号的な短信評価」があった。
作文とは言っても横罫のノートに記述するので原稿用紙の使い方のようなルールはなかった。ただし内容的には作文であることを重視し、すべての日記には日付の他にタイトルを付けることを求められた。その後に本文となる部分があるのだが、先生による記号的な評価はタイトルと本文の内容に対して下された。まず内容に関して認め印の数は1〜5個で、ざっと見た限りでは3個が標準レベルという印象を受けた。時間がなくお座なりに書いただけという内容の日記は先生にはお見通しだったようで、アッサリと認め印1個の評価だった。しかし力作などには5個続けて押されることがあり、これは大きな励みになった。押された認め印の数は、当時張り合っていた学童同士の自慢の対象にもなった。
タイトルに関して評価されることはあまりなく、標準は0個だった。タイトルの付け方が特に本文によく合致している場合には本文の評価とは別に1個離して認め印が押されるので、そのことでタイトルの評価が分かった。

特に印象的だったのは、先生が戦時期に半島の人々を徴用して強制労働や差別を行ってきたというのを社会の郷土史話として話したときの感想を書いた日記だった。このとき「ひどい差別」というタイトルで長文を書いたところ、タイトル部に2個、本文に6個という見たこともない認め印の多さに驚いたことがある。文末に2個+6個と続けざまに押された認め印だけで特に先生直筆による評価の言葉があったわけではない。どちらかと言えば客観的評価でも口頭で述べることはあっても記述として書き与えることが少なかった先生であった。しかし幼少期から大人の顔色を窺う子どもだったせいか、褒められてもそれほど喜ばず[1]むしろ努力を評価されていることに重きを感じていた。今から思えばこのときの出来事が文書構成の原動力であったことは確実であろう。

後年のことになるが、中学生に入って自主的に日記を書き始めている。初期の日記は本文のみであったがほどなくして特筆すべき話題のおある日記にタイトルを導入している。これは紛れもなく小学校中学年時代の勉強日記のスタイルが色濃く影を落としている。なお、勉強日記は主要な一冊のみが完全な形で保存されている。
【 自由学習帳 】
高学年になると、勉強日記ではなく自由学習というスタイルになった。特定のノートに予習復習的内容を書き、毎朝提出した。先生はそれに目を通して採点のときに使う赤の水性ペンで評価をかいて当日中に返却した。ただしこのときの書き方は日記帳ではなく、理科などは図を描いたり算数ではグラフを導入したりもあった。

自由学習帳も学童の自主性に任されていて、提出されれば評価するという方針だった。これも中学年時代と同様に学習帳の冊数が進むことを友達と競い合うことで切磋琢磨されていた。一連の自由学習帳はすべて完全に保存されている。

出典および編集追記:

1. 如何にも素直でない子どもの姿であるが、そもそも子どもをどのように教育するか云々のような大人が読むべき本を当時から読んでいたこと、早い時期から大人の中へ入って育ったこともあったため、褒め方一つにしても真にそう感じているのかお世辞で言っているのかを察知していたと思う。

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