遂に念願のダム左岸堰堤に立つことのできた私は、去年夏の見学会でフェンス門扉越しに眺めたのと同じアングルを求めていた。
フェンスの分だけ距離は違うが概ね同じ位置になる筈だ。
これが去年の見学会で撮影した原典画像である。
時期柄草木の伸び方が違うが、それ以外周囲に何も変わったところはない。
例えばこの発泡スチロールケース。見学会の時と全く同じ位置に放置されていた。
(一体どういう経緯で腰壁を越えてここに流れ着いたものだろうか…)
正面の地山斜面に見える測量杭と、その位置を目立ちやすくするための赤いリボンもそのままだった。
(官民境界杭だろうか…私と同じ経路を辿って測量に来たのだろう)
気になるものは沢山あるが、まずは腰壁が地山へ接している部分を調べた。
この腰壁が造られた当初はもう少し先まで露出していた筈だ。流出した土砂と積もった木の葉によって埋まってしまったと思われる。
この末端部分は一体どうなっているのだろう…
右岸接続部では、通常の橋によく観られる親柱が両方の腰壁の末端部に設置されている。(県道に面しているので容易に観察できる)
昔の職人がやりっ放しな仕事をしたとも思えないから、土砂に埋まっているだけで、左岸の末端部にも同様のものが設置されているのではないかと思う。
スコップでもあれば、腰壁に沿って地山部分を掘って調べることができるだろう。もっともどれほど先まで埋まっているのか分からないし、何よりも自分の身体一つここへ持ってくるにも相当に難儀したのに、まさかスコップ持参で再訪など出来はしない。
(誰かやってみますかね…^^;)
腰壁の構造は右岸接続部などと共通で、二段の格子模様が連続するシンプルなものである。
(木屋川ダムの腰壁の方が意匠的には凝っている)
近くでじっくり観察していて奇妙なものに気づいた。
どういう目的なのか、天端近くに長方形の小さな孔が空いている。
後からこんな薄く削孔などできないので、腰壁のコンクリートを打設するとき木の棒などが差し込まれていて、後から除去されたらしい。ここだけではなく他にも何ヶ所かあった。
(腰壁の両側に設置した型枠を固定する器具を通した跡かも…)
そしてこの場所で一番気になるもの…
見学会のときでも担当者に質問し、答えが得られなかったこのコンクリート柱だ。
一辺が15cm程度、高さが2mくらいある。
近くで観察できる今なら推測できる。今のフェンス門扉が出来る前にあった門扉の支柱だろう。
それと言うのも写真から分かる通り、柱の通路側に蝶番らしき金具が埋め込まれていたからだ。
かつては木戸のような簡素な扉が取り付けられていたのだろうか。
去年夏の見学会で初めてこの柱を目にしたとき、堰堤完成にまつわる何かの記念碑ではないかと考えた。しかし文字はもちろん何の装飾も施されていなかった。
見学会のフェンス越しでは見えなかった柱の裏側。
柱は腰壁に密着しているが、表面の状態や色など明らかに異なる。時期を違えてこの柱を造ったのだろう。
ゲート室から続く堰堤分はアスファルト舗装されており、コンクリート柱が建っているこの場所まで続いていた。
(この外側が地山だったかコンクリートだったか調べていなかった)
結局、2本のコンクリート柱は、堰堤の内側に別途フェンス門扉が造られたときまで扉の支柱になっていたようだ。その後扉部分は解体撤去され、コンクリート柱だけ遺されたらしい。
この柱の状態は傍目にも良くなかった。埋め込まれた蝶番が錆びて膨張したためにひびが入ってしまっている。
強度がどの位あるかちょっと触って調べているうちに、柱上部のクラックが大きく開いてしまった。
激しい風雨に見舞われれば、この部分は落ちてしまうだろう。
(もし酷く崩れ落ちてしまったら両方とも撤去されるかも知れない)
この場所へ到達する道は本当にないか周囲を調べた。ここにコンクリート柱を伴う門扉があったなら、もしかして厚東川ダムが造られた直後の初期には、堰堤を通って両岸の行き来が可能だったかも知れないと考えたからだ。
(あのコンクリート柱を見るとどうしても関所のような木戸を連想してしまう)
測量杭のある先に全く踏み跡はなかった。この場所へ来るには、やはり先の急斜面以外ないらしい。
本当にそうなのかは断言できない。まさか最初っから腰壁が今の状態だった訳ではなく、当初はこの扉に向かう道があったものが斜面の土砂崩れで埋まった可能性もあるからだ。
例によってタイムマシンに乗る如く、昭和40年代後半の現地の状況を眺めてみよう。
「国土画像情報閲覧システム - 厚東川ダム付近(昭和49年度)の航空映像」
(http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C10A&IDX=54)
(別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される)
映像で現在位置を参照すると、堰堤の延長上に土肌が現れていることが分かる。しかし周囲には目立った道らしきものはない。ダム関係者などが行き来することはあったかも知れないが、どうやら当初から今あるままの姿だったらしい。(http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C10A&IDX=54)
(別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される)
斜面の先に青空が覗いているので、少し登れば尾根部分に到達できるようだった。しかし藪の繁茂が酷く、進攻する意義が感じられなかったので自重しておいた。
同じ位置から左岸接続部を見下ろすように振り返って撮影。
さて、この場所から撮影したとき、フェンス門扉の前に奇妙なものが落ちていることに気づいた。
再び調べ尽くしたはずのフェンス前まで戻る。
これは何だろう…
コンクリートの団子?
直径10cm弱のコンクリートで造られたボールが3つ放置されていた。
これは…わけが分からない。
最初、フェンス前に来たときは(遂に攻略した!という達成感に浸る方が強かったせいもあって)周囲の色に溶け込んでいて全く気づかなかった。
壊れたコンクリートの破片が自然に丸くなる筈もなく、明らかに人為的に丸められて出来たものだ。
細かな砂が殆どなので、モルタル団子と言った方が正しいだろう。
ダム堰堤や腰壁より後の時代のものということは分かるが…全く意味が分からない。
餅は餅屋で…の傾向が強い現代社会にあっては、一般人がモルタルを練るなんて機会は殆どない。ほぼ完全に土木業者と一部のDIY愛好家のものとなっている。
私自身、この業界から離れて昔の記憶も薄いのだが、目地モルタルを自分で練って充填したことは何度かあった。そのときの曖昧な記憶を辿ることを前提に、そう言えばこんな感じでモルタル団子を作ったことがあるような気がする。
コンクリートは腰壁など相応にボリュームのある構造物を造るとき用いられるのに対し、骨材の入らないモルタルはコンクリート同士の隙間を埋めたり(目地モルタル)所定のコンクリート二次製品を据えるときの高さ調整(敷モルタル)として今でも用いられる。
「Wikipedia - モルタル」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB)
骨材が入らない以外はコンクリートと同じなので、放置すれば固化する。バケツにセメントと砂を入れて混合し水を入れて練るのだが、時間が経てばどんどん水分が蒸発し、バケツごと固まってしまう。目地を詰めるのには時間がかかるので、最初は適正な固さだったのに段々と水分が失われて充填作業がしづらくなる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AB)
それを避けるために片手で握れる程度のサイズのモルタル団子を作り、左手で握っておいて少しずつ目地ゴテで突き崩しながら充填していたような記憶がある。
(目地モル詰めは大きな労力が要らないので専らオバチャン作業員の仕事だった)
昔の話なので記憶違いがあるかも知れない。真偽は怪しいので関係者に確認してみないと分からない。もし私の記憶が正しいなら、このモルタル団子は腰壁などの補修を行ったとき造られた余り物だろう。
なぜか2個になってしまいました^^;
(ダム湖へ投げ込んだ…なんて行儀の悪いことはしていませんからねっ^^;)
フェンス越しに撮影し、腰壁やコンクリート柱を調べ、離れてカメラを構え、合間でケータイで撮った映像を添付したメールを送り、再びフェンスに近づき…などで私はここに20分以上滞在していた。
それでもなおここを完璧に調べ尽くせたわけではない。袖壁が地山に埋もれる末端部がどうなっているかは、誰かが”発掘作業”に着手しない限り永遠に未知のままであり続けるだろう。
(まさか当時のダム全体の構造図が遺っていれば別だが…)
しかしこれで当面は充分調べ尽くした。
そろそろ降りようか…
もっともこれで万事解決メデタシ…ではなく、この場へ私が身を置くことができたのと引き替えに「先送り」した難題を解決しなければならなかった。そろそろ降りようか…
(「厚東川ダム・左岸堰堤接近計画【7】」へ続く)