宮川の石碑

石碑インデックスに戻る

現地撮影日:2017/9/9
記事作成日:2017/9/21
JR宇部線小松原通踏切の東側に宮川と刻まれた昭和中期の石碑が発見されている。
写真は市道小松原通り線からの撮影。


位置図を示す。


鵜の島校区には校区文化財マップは作成されておらず、代わりに市健康保健センターによるウォーキングマップが作成されている。目立たない場所にあり、時代がやや新しく詳細が分かっていないためか記載されていない。この記事を作成する現時点で解析は今からの段階である。
以下、初めて見つけたときの状況を報告する。現在は史跡カテゴリへ入れているが、河川などの別カテゴリへ移動するかも知れない。もしも二度目の調査を行い新たな知見が得られたなら、以下の記述は時系列記事へ移動し本記事は総括記事に書き換える。

---

上町での用事を済ませた後、家電店へ行こうと小松原通りを北へ進み踏切を渡った。いつもは踏切へ差し掛かるまでに通りの左側へ渡っておくのだが、この日は交通量が多くて渡りそびれたまま踏切を通過した。
写真は撮っていないが、踏切を渡ってすぐのところに草に埋もれた花崗岩の石柱が草に埋もれているのを見つけた。何となく気になるなーと思って自転車を漕ぎながら一瞥を与えたところ、文字のようなものが読み取れたのである。これは何かあるなと思ってすぐ自転車を停めた。

自転車を降りて近づきつつカメラを向けた初ショット。
新しい感じのする花崗岩柱に文字が刻まれていた。


既に文字が見えかけていたので、殆ど反射的に石柱の正体としてあるものを仮定していた。後述するようにここは地勢・河川・道路に関して特異な場所であり、いずれ精査が要ると考えていたからだ。

JRの境界杭の後ろにある石碑の文字を読み取ろうと、伸びていた草を引っこ抜いた。
宮川とだけ刻まれている。


この文字からは自然に河川名が想起される。そうなれば河川に架かる橋の親柱ではという想像もできた。
他方、まだそこまで断定するには早かった。

宮川という文字だけが見えている。
その下は…あと一文字くらい埋もれている可能性があった。


この下にあと一文字あるならば、宮川となっているのではと思われた。詳しく調べたいが、この辺りは小松原通りのうちでも特に歩行者や車の往来の激しい場所である。歩道へしゃがみ込んで石碑の手前の草をブチブチ引き抜いているだけでも怪しさ満点だ。しかし…「見つけてしまった」のだから、現地で得られるデータは可能な限り持ち帰りたい。

踏切側の面を確認したところ、年号が一部見えかけていた。
設置年まで刻まれているってことは…かなり決定的だろうと思った。


河川名でないかもと思った時点では、もしかして個人の所有物ではとも考えたのである。極端な話、宮川さんという方の設置した何かであるとか…7割方くらい正体を掴んでいながら、尚も断定しきれない要素があった。

草を引き抜いたところ昭和三十四年までは読み取れた。
この下に月の表示があるのだろう。しかし手前に据えられている石は土中深くに刺さっていて動かせなかった。


「昭和三十四年」の年の字すら一部が隠れているということは、先ほどの「宮川」の下もあと一文字くらいある筈だ。恐らく文字はないか、あるとすればやはり「橋」ではないか…

もしそうなら、道路の反対側にも似たようなものがないかと考えるのが自然だ。しかもその反対側は、線路沿いの道が奇妙にうねって小松原通りに接続されているあの場所だ。


勝手呼称局長カーブとされる接続部付近を見回してみた。
なるほど…年季の入ったトラ模様ガードレールの下に石柱が転がっている。


あるにはあったが、それは石質の異なる柱で文字はなかった。
昔あった橋の部材と言えなくもないが…


先ほど見つけた宮川の石碑との位置関係。
踏切手前の両側にある。


何度か仄めかしているように、これは宮川という橋の親柱である可能性が浮かぶ。 昭和22年の航空映像を参照すると、この場所で確かに小松原通りを横切る水路が流れていたことが分かっている。局長カーブの由来も水路の経路が原因である。
そして実のところそれ以上の深い意味をもっている

しかし早急に親柱であると断定できない理由がある。宮川と彫られた文字の上に空いた穴だ。親柱にこのような加工が施された例を他に知らない。それは地区の祭りで幟を建てるとき沿わせる石柱と同じ造りである。そうとなれば、宮川は水路名でも橋の名前でもなく、もしかすると石柱の寄進者の名前に過ぎない可能性もある。

宮川の下に何か文字が刻まれていれば、それが決定打になるだろう。掘り起こしてみたいのだが、JRの境界杭がくっついているというのが如何にもまずかった。お節介な通行人が見たなら「境界杭を勝手に動かそうとしている不届き者がいる」と通報するだろう。もっともこの位置にあるなら、宮川の石碑は越境状態になっているのかも知れず、JRがこの辺一帯を整備するとき邪魔だからと除却されてしまう可能性もある。

秋口以降草が枯れてなくなったら、他に何か見えてくるかも知れない。私有地にある私的な石碑に過ぎなかったという結末もあるため、暫く様子見である。
「宮川橋」だったとしたら、かつてここを東西に通っていた水路の名称が宮川だったというところまで判明する。それはもう一つ北側を流れる水路と現在の南浜町で合流し、旧栄川となって海へ注いでいた。北側を流れる川(水路)は「あか川」だったという地元在住民の報告もある。
昭和30年代の石柱なのでそれほど昔のことではない。そうであっても取るに足りない石柱とみなされていたなら、昭和中期という比較的近年のものでありながら誰も頓着しないが故に正体が分からなうなっている可能性もある。
《 個人的関わり 》
時系列記事で表現しているように、この場所は自転車で何度も通り過ぎていながらこの物件に気付いたのは記事製作時が初めてであった。ゴチャゴチャと雑多なものが散らばっているという印象はあったが、それは踏切を含めて線路周辺の多くの場所にあてはまることである。

何の種であっても鉄道付近での工事は、安全面を含めてJRへの書類提出が厳格であるために嫌気され、線路沿いに手が加えられない領域が遺っていることが多い。鉄道とは直接の関連性はない古いものが遺っている可能性のある場所として調査に値するとも言える。
《 記事公開後の変化 》
Facebook のメンバーでこの辺りを業務で歩いていて石碑の存在に気付いている方があった。小松原通りはストリートビューの車が通っているため石碑周辺の様子を映像で確認できる。[2]

この題材をFBページに投下して情報を求めたが、石碑についての情報は得られなかった。しかし周辺の昔の情報を寄せる方が散見され、小粒な題材ながらアクセス数がかなり多いことから校区在住者の興味を惹いているようである。幅2m程度の水路があったことは近隣在住者からの情報が寄せられていたが、水路の名称までは分からなかった。[3]
出典および編集追記:

1. 「宇部東部(M114)1947/03/12(昭和22年)米軍撮影の航空映像
画面左下の高解像度表示ボタンを押すと詳細画像が閲覧できる

2. Google sv 2013年5月の映像

3.「FBページ|2017/9/21の投稿

ホームに戻る