市道鵜の島南浜町線・横話

市道インデックスに戻る

ここでは、市道鵜の島南浜町線の派生記事をまとめて収録している。
《 局長カーブ 》
項目作成日:2018/4/23
最終編集日:2024/3/23
本路線の起点は市道小松原通り線(以下「小松原通り」と略記)の小松原通踏切付近にある。そこよりJR宇部線に沿って西方の南浜町へ向かうわけであるが、小松原通りとの接続部分がちょっと奇妙なカーブになっていることに気付いていた方はあるだろうか。

本路線の起点方向を向いて撮影。
直線的にドン付けするのではなく若干左へ振って接続している。


この道の接続部を中心にポイントした地図である。


小松原通り側から見たところ。
カーブというよりは折れ線のようになっている。


接続部が斜めに折れているため、踏切側には直角三角形状の余剰地が出来ている。その一角は車の臨時駐車場のように使われることもある。


直線的に接続すればいいものを、わざわざ小松原通りに向かってウニュッと曲げて接続しているように見える。何故こんなことになったのか確証を持って説明可能である。しかし性急に解答を追う前に、誰でも予備知識なしに様々な推察を行うことができる。「一体、この折れ線はどうして生じたのだろうか?」

結構もっともらしい理由として、本路線より小松原通りに出て踏切を渡る車の流れをスムーズにするための意図的な変形というのがあるだろう。
小松原通りは対面交通仕様の道ながら平日昼間でも交通量がかなり多い。すべての車は踏切前で一旦停止するから、どうしてもその手前では車が滞留しがちになる。もし本路線から出ようとしたとき一旦停止している車があると右折が困難になるので、停止している一台分の車の背後に回り込めるようわざと進路を左側へ振った…という解釈だ。

この他に踏切関連の機器を配置するためのスペースを造るためというのもあるだろうか。実際、上の写真でも余剰三角形の頂点近くに踏切近辺ではお馴染みな灰色の冷蔵庫みたいな機器が置かれているのが分かる。

しかし上記2つの理由のいずれも正しくはない。そのことは本路線を終点南浜町側へ進むとただちに分かる。
本路線は西側で市道浜通り線と交差し、そこには浜通踏切が近いのに横断形態を変更することなく浜通りを直角に横切っている。


浜通りは小松原通りよりも更に交通量が多いのだから、踏切を渡りやすくするなら同様の取り付け形状にする筈だ。

まず現地へ赴き、そこに現在在るものを観察した上で昔の姿を推察するのはどんな案件を調査するにも第一にすべき作業である。しかしそれだけでは正解にたどり着くのに十分ではない。時代を順次巻き戻せば周辺の道路は今と異なる状態だった可能性があるし、敷地や鉄道ですら同様だ。そして今ほど雑多に建物が建ち並ぶ以前まで時間軸を戻すことができれば、ヒントとなるものが自然に提示されることが多い。

冒頭の Google map は(更新にタイムラグがあることを差し置いても)ごく近年のものである。したがって大規模な道路工事などが施工されたなどの場所でもなければ現地で観察されるものと大差ない場合が殆どだ。では、昭和時代まで時間軸を巻き戻してみよう。

これは昭和40年代後半において撮影された航空映像である。異常な折れ点が観測される位置を中心に設定している。


この航空映像でもウニュッと曲げて小松原通りに接続されている本路線が観測される。そして横切った先をよく観察すると、同じ角度で線路から若干離れて東に向かう筋状の痕跡が確認できるだろう。小松原通りを横切って東へ道が続いていたのではないかという推察が可能だ。
航空映像は精密な部分まで反映しないから、この痕跡の通りに道があったとは必ずしも断言できない。しかし少なくとも痕跡を形成するように建物はなべて同じ方向を向いている。ここから産業通りまでの多くが碁盤目状に整備されていながら、その数軒だけは斜めを向いている。現状はどうだろうか?

ウニュッと曲がった折れ点付近に立って小松原通り側を撮影した映像だ。
先の映像とは異なる方向に家が建っているものの、建物の間には通路が確かに存在する。


小松原通りを横断した先の映像。前の写真と同じ車が写っていることで位置関係は把握できるだろう。
確かに通路は存在するが、それは本路線のウニュッとした曲がりとは異なり小松原通りへ垂直に取り付いている。


同じ位置から振り返って撮影。
確かに通路としては続いていると言えなくもないが…


現状を見る限り先の航空映像と一致はしていない。むしろかなり通路などが変わっているため、これだけで一続きの道だったと言うには説得力に欠ける。答えに肉薄したいなら、もう少し過去まで遡らなければならない。そのために更に十数年前、昭和30年代までタイムスリップしてみよう。

これは派生記事を作成した後に追加で利用可能になった昭和30年度版の地理院地図の航空映像である。


明らかに昭和49年度版と比べて異なる点がたくさんある。
太い筋状のものが写っている。
道路よりも黒々としていてもしかすると幅も道路以上に広い何かが東西に伸びているのが分かるだろう。それも線路に沿っていながら件の「ウニュ曲がり」地点から東は先に見た家並みの方向に沿うように通じているのである。そして黒々と写っていることから、これが当時はまだ存在していた水路であることが決定的に分かる。

水路を東の方へ辿ると、何とそれは現在の渡邊翁記念会館まで伸びている。現在の産業道路は既に存在するも、それと鉄道の間には東西に伸びる道が一つもない。田と民家が半々といった分布状況だ。そして西の方を辿ると、やはり途中から鉄道より離れて西進し、北の方から来る別の水路と合流し幅広の水路となって海に注いでいる。これは昭和40年代末に埋め立てられた栄川である。そしてやはり先の産業道路と鉄道の間には東西に伸びる道路が一つもない。時代は車社会の黎明期であり、これから四輪向けの道路を整備していく前段階だったからだ。

本路線のウニュッとしたカーブの理由は、とりもなおさずこの排水路由来である。現在はこの場所に水路など存在しない。排水系統を変更して埋め潰したか、あるいはヒューム管などに置き換えた上でその上を道路にしたと考えられる。開渠のまま放置すれば危険であり場所も取るため、排水管に集約してその上の土地利用が優先された結果だ。
小松原通りよりも東側は道路を整理したせいか水路の線形が遺っていない。結局、ウニュッとしたカーブが発生した理由は、元々は東西に伸びる水路があり、この辺りで折れ曲がっていて小松原通りを横断していたものが僅かばかり取り残されたためというのが正解であった。

この場所の道路の線形異常とその理由を最初に説明したのは我が渡邊塾の局長であったので、当サイト(と言うか私自身によるものなのだが)この場所を「局長カーブ」勝手呼称している。どのみちこのウニュッと曲がった場所に特定の名称が存在する筈もないので、説明しやすいように名称を与えたわけだ。この種の勝手呼称は当サイトではまったく日常茶飯事である。

実のところこの区間の線形についての説明を与えるだけなら、私とて昭和49年度版航空映像や地理院地図の映像を突き合わせることで解析可能であっただろう。局長はこれが水路由来であったことを唱えるのみならず、更に深遠な仮説を提示している。この水路は新川掘削以前に居能方面へ屈曲して流れていた宇部本川(間占川)の旧河川敷を流用して造ったと主張する。むしろ局長スタンスでは、旧河川の経路を解析している過程でこの局長カーブに行き着いた。

この仮説の根拠を先の航空映像に求めることができる。局長カーブより南側では、一定の幅を持って弧を描くように湾曲したラインが観測される。それは田の畦畔であり踏み付け道であろう。では、何故湾曲しているのか?
それはかつての地勢をそのまま流用したからと考えるのが一番自然だ。もちろんその弧の南端まで間占川の水が押し寄せていたとまで断言はできないが、増水時に水が押し寄せ浸食されるなどの結果ではないかと考えられる。この弧の一部は現在の市道宇部新川駅浜通り線に一致するが、元々の標高はゼロにかなり近い。昭和10年代に厚南や藤山地区を襲った大水害では水が押し寄せ、身元不明の遺体が流れ着いたという。確かに浜通り踏切に近い路線沿いには、当時の身元不明遺体を弔った祠がある。この祠については以下の派生記事を参照。
派生記事: 水害の鎮魂地蔵
局長カーブの元となった水路は、昭和37年の航空映像では明瞭なのに昭和49年度版のカラー航空映像では消えている。この間に水路が道路に転用されたことが推察される。そして近年のこと小松原通り踏切のすぐ横に「宮川」とだけ掘られた石碑が発見されている。この宮川とは水路に与えられた名称ではないかと思われている。詳細は以下の派生記事を参照。
派生記事: 宮川の石碑
石碑の年号は昭和34年となっており、その当時はまだ用水路は存在していた筈である。ただしこの石碑が何のために設置されたのかについては判明していない。その形状から水路に架かる橋の親柱と考えるには些か無理があり、更なる裏付け資料が求められている。

局長カーブに類似する題材は至る所に見つけられる。道路に限定して総括してみれば「不自然な道路線形にはかならず何かの理由がある」という点だ。局長カーブから近くの産業道路は殆どの道が直交するが、何故か規律を乱すように斜めへ接続される小径がある。それも同様に昔の水路が部分的に取り残された結果であることが判明している。

視点を変えることに慣れれば、ありふれた街中にある普通の道路の中にイレギュラーを見つけやすくなる。そしてそれは殆どの場合、何かの過去を隠し持っている。昔からの地元在住者がしばしば由来を知っているし、証言を元に航空映像のような客観データで裏付けが取れることが多い。いくつもある中で局長カーブのこの場所が特に注目されたのは、局長自身が間占川の旧河川経路を分析していたからに他ならない。この過程で本路線の起点にある鍵状の折れ線が水路由来であることを突き止め、更にそれが旧河川由来であることを推定した。大型重機を駆使して行う近代的土木手法が採れないなら、労力を減らすために掘削量を減らすことを考えるだろう。不要になった旧河川敷を少しずつ埋め潰し、なお遺った低湿地部分を水路へ充当するのは妥当な手段である。一般的にも河川改修を行った結果切り離された旧河川は、しばしば排水路や別系統の河川として遺される。

客観データとして参照した航空映像から、別方面の解析結果が得られることがある。道路面で観察してもこの局長カーブの場所はきわめて特異である。先の昭和30年代映像を再度眺めると、局長カーブのところから北側の小松原通りが薄くスライスするように分岐していることが見てとれるだろう。これは更に戦後直後の昭和22年米軍撮影映像を見るとより鮮明になる。
宇部東部(R517-5)1947/10/08(昭和22年)米軍撮影の航空映像
何と、桃山の高台へ向かうもう一つの道(現在の市道小松原桃山線)に繋がっているのである。この道と小松原通りは局長カーブのところから徐々に離れていく角度で別れていながら、六角堂の北側で直交しているわけだ。この道筋は現在の鵜の島小学校の横を通る辺りから南側はまったく遺っていない。スライスする道路分岐は土地利用の上で効率が悪いので区画整理を行ったことが推察される。
この道路変更の事実は、局長カーブ問題を解析する過程で私が見つけた。昭和30年代半ばには道路の付け替えが行われていたので、地元在住者でも一連の経緯を知る人はもはや極めて少なくなっているものと思われる。
以上の記述は関連する派生記事を作成する折には移動される

冒頭の投げ掛けで示されるように、局長カーブは現在も部分的に遺っていて現地で直接観測できる。しかしその成り立ちを知ろうとするなら今まで掲載したような客観データの分析が必須となる。現地での観察と机上の客観データによる解析の合わせ技で導かれる事実であり、当サイトでも街角を舞台にした推理ゲームの題材として派生記事を作成し提示した次第である。
【 記事公開後の変化 】
最初にこの派生記事を作成したのが2018年であり、今から6年前である。そして6年も経てばその間に多くのことが判明してくる。

このカーブが昔の排水路由来であることは疑いなく、更に小松原通踏切のすぐ北側には排水路であったことを示唆する宮川の石碑が知られる。

排水路だった以前は、藤山地区花河内へ注いでいた宇部本川の旧河川の痕跡だった可能性が高い。西に向いて流れる旧河川がどの辺りだったかを限定するのは困難だが、この局長カーブを中心に南北へプラスマイナス数十メートルの範囲に収まるかも知れないと考えている。何故なら南側は緑ヶ浜の砂州の西端に阻まれ、北側は鵜ノ島(島としての)が存在していたからである。ただし旧河川が鵜ノ島を含んで二俣に流れていたなどの可能性もある。この辺りの検証を行い得る客観資料がなく、判定は甚だ困難だろう。

この記事に編集追記している現時点で、局長カーブに面した民家が解き除けられ改築工事が始まっている。敷地は前面道路よりも明白に高く、これは恐らく鵜ノ島の痕跡の一部に由来するのではないかと思われる。
《 未知の石灯籠 》
項目作成日:2018/4/24
最終編集日:2024/3/23
本路線はJR宇部線と随伴して西に伸びる。原田踏切より西側で鉄道は宇部電車区へ向かう引き込み線と分岐する。この分岐点の少し西側に素性の知れない燈籠のようなものが見つかっている。


遺構のある大まかな位置を示す。


地区のゴミステーションがあるその横に草むらの中へ埋もれるような灯籠が隠れていた。


スレート瓦などと一緒にバラバラに崩れた状態で転がっている。墓石とはまったく異なるようで、この場所へ放置されてから相当な年数が経っているようだ。


類似するものを見たことがなく、これは私的物件かも知れない。近辺にみられる祠のようなものとしては、市道宇部新川駅浜通り線沿いにある水難者の祠が知られる。標高的にはほぼ同じであり、同じ由来だろうか。郷土関連のマップには載っていない。

この物件はFBページ側へ情報を提示済みである。投稿を見て現地を観に行った人もあったのか、約3ヶ月後に訪れたところ状態が若干変わっていた。


一般に鉄道周辺は必要あって土木工事を行うにも申請手続きが煩雑なため、手つかずのまま放置されていることが多い。線路沿いは正体不明の古いものがよく発見される。本路線の起点反対側にある宮川の石碑も未だ正体が分かっていない。この物件も誰かが置いた灯籠かも知れないため、次にこの周辺が片付けられるまで今の状態のまま放置されるだろう。
【 記事公開後の変化 】
この石灯籠は撤去されることなく最終編集日の現時点でも現地に転がされている。鵜ノ島地区のウォークマップなどには載っていない。

しかしこの辺りの絶対高度の低さから、これも水難者を祀った祠ではないかと予想している。埋もれている部分も含めて一度全体を掘り出せば年号など手がかりになるものが刻まれているかも知れない。

ホームに戻る