新川橋の親柱・時系列ダイジェスト

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記事作成日:2022/1/15
最終編集日:2022/1/16
注意この記事は書きかけ状態です。まだ正規に公開されておらず今後の編集追記で内容が変化します。公開水準に達した時点で更新履歴で案内し本タグを除去します。

ここでは、新川橋の親柱・時系列ダイジェストとして、明治41年に架橋された新川橋の親柱についての発見からその後の変化を逐一記録する。
写真は市有地の旧郷土資料館横に仮置きされている現物。


初期は親柱の所有者(以下K氏と略記)の意向あって非公開にしていたが、現物を保護すべく寄贈する意志を明確にされたことから、個人情報に係る部分を除いて以下に一般公開する。また、当時公職にあった担当者は実名で記載している。
《 発見から搬出まで 》
現物が発見されてから旧郷土資料館へ仮置きされるまでの過程。このステージを第一幕とする。

2015/12/25・Facebookで運営している宇部マニアックスのページ(以下「FBページ」と略記)に不動産仲介業のAさんよりK氏宅にある石柱の調査依頼が入る。AさんはK氏の実父(他界)が所有する土地家屋の売却を依頼され、現地を調査する過程で明治の年号が刻まれた門柱に気付いた。門柱はリノベーションの障害になるため破砕が予定されていたが、重要なものかも知れないと考えて同業者のS氏を通じてFBページに情報提供した。
2015/12/26・S氏立ち会いの元で石柱周辺を刈り払いし、もう一つの石柱に新川橋の文字を確認する。帰宅後に精査したところ、新川橋の架橋年を明治41年とする資料を見つけたことから一対の門柱はコンクリート永代橋としては初代となる新川橋の親柱が転用されたものと断定する。
・FBページでAさんに結果を報告し、重要な史跡であるため決して破砕処分しないよう念押しする。売主買主双方の同意が得られるなら親柱を搬出したい意向を伝える。
2016/2月頃・K氏が売却の意向を撤回した。親柱はA氏の所有物であるため保護の動きから一旦手を引く。
2016/9/5・K氏が再度売却の意思を明らかにする。Aさんは再び当該物件をリノベーション対象とするB社と折衝を開始した。
・K氏が売却を保留したのは、門柱代わりにされていた親柱の歴史的価値を洩らしたある人物の介在に依る。K氏はそれほど価値の高い遺構なら物件の買い取り価格を再考して欲しいと言いだし、B社との価格が折り合わなくなった。
親柱は搬出の手間がかかる分だけ不動産業者にとってはマイナス資産
・仲介頓挫を受けて、今後は親柱の存在と当該物件について売買契約が成立するまで許諾した人物以外への情報提供を一切行わないようAさんより強く要請される。
2016/9/8 ・本件について機密保持を前提に渡邊ゼミへ情報提供する。
・真部氏が市教育委員会の部長(唐沢さん、既に退職)に報告した。重要な歴史民俗資料と認識し大変な関心を持たれたという。並行して詳細についての守秘を要請する。
・真部氏の解析により、宇部百景として過去に販売されたモノクロ写真に方向を変えて撮影した2枚の写真の双方にこの親柱が写っていることから、新川橋に2対4本あった親柱のうちの1対であることが証明された。
2016/9/13・売買の仲介が暗礁に乗り上げる。K氏は買い取り価格の上乗せは求めなかったものの親柱の無償譲渡を前提に他条件の見直しを求めた。B社は再開発の邪魔になる親柱は処分費がかかる負の財産であり、買い取り条件の考慮はできないと告げたところK氏は他の仲介業者を探すと言いだした模様。
・買主のB社は、現渡しされる物件に損傷が及ばず引き抜き搬出を自己負担で行う前提で親柱の無償譲渡を承諾した。ただしAさんを通じての話であり、私とB社に直接のコンタクトはない。
2016/10/3・K氏がAさんの提示していた当初条件で売却する意思を固めた。K氏の態度軟化は出身校が同じ桃山中だったため。
2016/10/13・Aさんの仲介による売買契約が成立する。K氏は親柱を無償で市に寄贈する意向を口頭で示し、寄贈者として自分の名前を残して欲しいと表明している。
・真部氏に市教育委員会の現地視察が可能となった旨を伝え、時間調整をお願いする。
2016/10/17・AさんよりB社への引き渡しの兼ね合いから親柱の現地引き抜き搬出を27日までに行うよう求められる。移転先の確保はおろか施工業者や搬出先なども決まっていなかった。
2016/10/21・市教育委員会の担当者を交えた現場説明を行う。同行者は私と真部氏とAさん。仮置きの場所を提供することは可能だが、搬出に係る人件費の予算化に難色を示され、私費による搬出以外救出方法がないこととなる。
・親柱を安全に搬出する業者とコンタクトを取り、仕事師に現地下見を依頼する。
2016/10/22・仕事師による現地視察。週明け24日に着手できると伝えられる。
・真部氏の仲介で市教育委員会の敷地へ親柱を仮置きする承諾を取り付ける。
2016/10/24・仕事師による親柱引き抜きとユニック積み込み作業。私とAさんが現地立ち会い。
・同日正午頃に島の旧郷土資料館横へ搬入し当面の救出作業が完了

非常に限られた日数の中で施工業者を見つけ、施工環境の悪い場所で親柱の引き抜きと搬出を安価で遂行できたのは僥倖だった。親柱はリノベーション対象となる2階建て倉庫の柱にくっつけて据えられていたため、強引な作業を行うと倉庫が傾くリスクがあった。Aさんによる調査依頼がなく顧みられなければ、門柱があると重機が入れないため親柱は間違いなく破砕され産廃処分されていた。歴史的価値の高い親柱の救出は、今までの郷土活動の中で宇部マニアックス最大の偉業と位置づけている。一連の詳細な時系列記事は時系列レポートに記録されている。
《 仮置きから里帰り開始まで 》
旧郷土資料館へ仮置き完了から里帰りを開始するまでの過程。このステージを第二幕とする。

2017/3/18うべ探検博覧会における島の小径散策プログラムの最後に参加者を郷土資料館へ案内し現物を披露する。一般向けに救出された親柱を公開説明した初の事例である。
要調査親柱を市へ寄贈し、旧新川橋の東岸側へ据えて頂きたい意向を市政策広報室市制施行100周年記念事業推進課担当の大西氏に伝える。現在、市役所新庁舎建設工事中であり、旧庁舎を取り壊し公園にする過程で一帯を整備するので、そのタイミングに合わせて据え付けることは可能かも知れないという返答だった。
要調査・市広報広聴課の藤井氏から親柱に関する処遇についてK氏から連絡があったことが伝えられた。希望する位置に里帰りが実現せず、旧郷土資料館へ放置されているのを見て広報広聴課へ連絡した模様。K氏の名刺のコピーを渡された。
・同じ日にK氏から携帯に連絡が入る。未だK氏とは面識がなく電話で話したのも初めてだった。大西氏に打診中であることを伝える。
要調査・K氏の回答を藤井氏に報告する。K氏は何処に尋ねたら良いか分からず広報広聴課に連絡したようで、本件に関しては郷土資料を扱う学びの森くすのきに問い合わせた方が良いと勧告される。
・概略の話は大西氏に伝えてあった。藤井氏の話によれば、まず窓口を一本化して欲しいとのこと。親柱の所有権が誰にあるのか、K氏なのか私なのか、それとも完全に市に帰属させて良いものかが明確にならないうちは市としても手を着けるわけにはいかないという論理だった。同じことは渡辺翁記念会館に展示されているスタインウェイのピアノに関しても問題になっていた。
・大西氏に話を伝えてからの進展がまったくなく、所有権問題が何処にあるかを明確にする必要があるのなら、それは当初から分かっていた筈のことだった。それが棚上げにされたまま何もなされず今更のように所有権問題を持ち出されたことに失望した。
2021年中頃・学びの森くすのきの担当者に本件を伝える。親柱の所有権が何処にあるのかをまず明示すべきという論理は学びの森くすのきが提示したようで、もし市に帰属するのなら市のやり方でやらせてもらうといった態度だった。それ以前に折しも covid19 で予算配分や業務にも影響が出ており、開口一番「コロナでそれどころではない」とけんもほろろの応対だった。
・この応対を受けて、以後親柱の件を市に相談するのは止めることにした。ただし何もせず放置するのはK氏の意向にも沿わないので、自分独りで対処しようとせず実行力のある団体へ委ねることとした。
要調査新川歴史研究会に本件が提示され、新川地区の保存に注力している元宇部市長藤田氏が取り組みを開始。
2022/1月親柱を仮置きしている旧図書館と旧郷土資料館が取り壊され、敷地は売却される予定という情報を得た。そうなれば仮置きされている親柱の再度の搬出を求められるのは必至であり、対応が必要となった。
2022/1/16新川歴史研究会の1月度定例会で本件に関して議論される予定。

救出完了で一段落したものの、上記のようにその後の里帰り計画は絶望の連続だった。特に市は covid19 蔓延に格好の「やらない理由」を見つけ出しており、本件に限らず郷土関連の予算配分は今後も期待できない。K氏は市に寄贈する意志を示していたが、寄贈者名の件についてはその後不要と表明している。その後K氏から連絡がないものの、もし尋ねられれば市の態度を伝えた上で市への寄贈を取り下げるよう勧める。市は所有権が誰にあるかについて明瞭にすべきとしているため、最近は(搬出仮置きに係る費用を自己負担していることにより)宇部マニアックスが所有していると明言している。当初は喜んで市に寄贈するという考えだったが、現在は救出に携わった郷土メンバーの意向が正しく反映されない限り、たとえ里帰り場所が提供されても市に寄贈する積もりはない。現在のような市の態度では「せっかく救出された親柱が喜ばない」。
《 里帰り開始から一般公開まで 》
旧郷土資料館から搬出され、親柱が本来あった位置へ”里帰り”して史跡として一般公開されるまでの過程。このステージを第三幕とする。これは将来的な記述セクションとして予約されている。

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