郷土資料館

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記事作成日:2017/1/11
郷土資料館は島1丁目の旧市立図書館以下「旧図書館」と略称)があった敷地内に隣接する市管理の建物である。
写真は正面からの撮影。


郷土資料館の玄関をポイントした地図で示す。


この建物自体は本記事作成時においても郷土資料館として現存しているが、2017年1月現在この建物は閉鎖されていて利用できない。敷地内に存置された史跡などを見学できるのみである。市の管理する教育文化施設一覧でも郷土資料館は掲載を外されている。[a1] 今後、この建物をどうするかについては手元に情報がなく不明である。

閉鎖された理由は平成25年度に船木へ新設された学びの森くすのきに郷土学習スペースが設けられたことに依ると思われる。実際、郷土資料館に保存されていた古文書や一部の資料は学びの森くすのきに移されている。市立図書館が琴芝町へ移転してからは来訪者が減っていること、建物の耐震補強工事の必要性も理由にあるのかも知れない。
出典および編集追記:

a1.「宇部市|文化・教育施設」には郷土資料館が収録されていない。
《 成り立ち 》
郷土資料館は既に開館していた旧市立図書館の附属施設として昭和38年11月15日に新設されている。[b1]昭和39年の市制40周年記念事業として、後述する紀藤閑之介翁の熱心な進言により設立された経緯が窺える。


平成21年頃までは館内に担当者が常駐し、展示物の観覧ができていたが、平成24年頃から市教育委員会が旧図書館の建物を事務所として使うようになってからは郷土資料館自体は常時無人となり、事務所へ立ち寄って担当者に鍵を開けてもらって観覧するスタイルとなった。このときの窓口は市教育委員会文化財活用推進室となっていた。

平成25年に学びの森くすのきが完成すると、同所に地域文化交流課が新設されて文化財活用推進室は廃止された。この折に郷土資料館にあった一部の資料も移動されている。市教育委員会の事務所はそのまま存続するも郷土資料館は常時閉鎖され一般の観覧ができない状態となっている。
出典および編集追記:

b1.「宇部市|図書館年報」の(平成28年度図書館年報)13 本市の図書館の略年表
《 館内 》
前述の通り郷土資料館は閉鎖されていて現在は中には入れない。以下の写真は公開されていた時期の撮影または閉鎖後ガラス越しに撮影したものである。
【 1階 】
玄関より右側にはモノクロ写真を基調としたパネル展示スペース、左側は昔の農作業にまつわる道具などが展示されていた。[2013/1/9]


農機具展示スペースの奥に事務所があり、有人管理していた時期は担当者が常駐していた。小字絵図などの閲覧申請はここで手続きを行っていた。このときの様子は以下の派生記事に記述されている。
派生記事: 現役時代の郷土資料館
小字絵図の閲覧申請を行ったとき、現物を取り出してもらうのに少々時間がかかったことから、郷土資料館は単なる窓口であり実物は市教育委員会が使っている旧図書館の書庫に保管されていたものと思われる。
【 2階 】
玄関の正面に階段がある。階段を登った中央が開口部で、外周にガラス板で隔てられた形で資料が展示されている。


資料は弥生時代辺りからの発掘物や古文書およびその写しで、郷土資料館側が独自に作成したと思われる説明文などもあった。ただし石炭採取に関する実物資料は常盤公園の石炭記念館へまとめられているようで郷土資料館にはそれほど多くない。

実物展示としては、江戸期に用いられていたと思われる箪笥と木田の駒の頭で実際に用いられていた木製の樋管がある。


木製の樋管は川越えの噴水を造った最初期のもので、昭和40年代にコンクリート管へ置き換える工事をする際に発見されたものを展示している。分水に用いられた石材は二俣瀬ふれあいセンターの敷地に置かれている。
《 屋外 》
建物の前面や側面には公称されているものや、仮置き状態のいくつかの資料が展示されている。
【 松崎古墳 】
昭和期に私有地から発見された松崎古墳の石棺が郷土資料館の横に再現されている。県の有形文化財に指定されている。[2014/2/2]


元々あった場所は現在の松崎町の一個人所有の山だったとされる。
【 芝中橋の親柱 】
再現された松崎古墳の隣りに宇部鐵道時代の芝中橋の親柱一対が展示されている。[2013/10/4]


宇部鐵道の陰刻があること、芝中には主立った川は存在しないことから、国道190号の芝中跨線橋となっている場所に据えられていたものと考えられる。しかし芝中橋について言及した書籍などは知られておらず詳細は分かっていない。
【 1号郵便ポスト 】
同敷地に旧来タイプの郵便ポストが設置されている。


現役のこのタイプのポストは存在しないものの、岐波駅前に向かう市道花園岐波浦線沿いの個人商店前や神原小学校の正門付近には同種のポストがみられる。このポスト自体は現役時代何処にあったものを移設したのかは不明。
【 降誕記念碑 】
郷土資料館の玄関横に据えられている石碑。御降誕記念と陰刻されている。[2016/11/9]


背面には昭和八年十二月二十三日誕生と書かれていることから、今上天皇の御誕生記念を意図して造られたものである。その横には会社従業員一同とのみ書かれているため、寄贈元は分からない。移設されたものか当初から郷土資料館に据えられていたかも分かっていない。
【 紀藤閑之介略伝碑 】
冒頭に掲げたブロンズの略伝碑の横に石材を円形状に敷き詰めたエリアがあり、その中央に立方体に加工された花崗岩に温故知新とそれに因む文言が刻まれている。


この文言こそ郷土資料館の存在意義を今に訴えかけるものとも言える。
【 その他の屋外資料 】
旧図書館の外壁に沿わせる形で桃色レンガの残骸や石材が乱雑に並べられている。
これらは当初注意を払われていなかったが、最近調べたところ石柱は道標であることが判明した。一部の文字が下側を向いており年代や設置場所など詳細は分かっていない。詳細は以下を参照。
派生記事: 旧宇部市立図書館|桃色レンガと道標
この他に石臼などが確認されているが、旧図書館エリア全体を含めて完全に調べ上げられているわけではなく未収録の資料があり得る。
《 アクセス 》
市道図書館線を経て旧図書館建物の前面を通って奥にある。ただし郷土資料館の建物自体は閉鎖されており、屋外の展示物を見学する目的で敷地へ乗り入れて良いかは(恐らく問題ないと思われるものの)分からない。車の場合、市担当者に見学する旨声を掛けた方が良いかも知れない。また、敷地は主に市教育委員会の施設であるため、土日には市道のスロープ部が縄張りされて車では入れなくなる。
徒歩の場合は階段を利用して入ることが可能

島1丁目の里道に面して郷土資料館への通用門があるが、常時施錠されておりここからの出入りは勧められない。
今後も開放されることはないと思われる


《 資料の移転と現状について 》
ここでは、本総括記事を作成する現時点における郷土資料館の問題を記述する。

情報以下の記述には個人的見解が含まれます。

現在、宇部市において主要な郷土関連の資料はおおむね学びの森くすのきに移動されている。この措置に関連して以下の疑問がある。
(1) 何故参照需要の多い基礎資料を市街地から船木へ移動させたのか?
(2) 今後郷土資料館をどうするのか?
(1) の理由についてはほぼ推測される。船木に新設された学びの森くすのきに市教育委員会の事務所分室を造り地域文化交流課企画運営係が新設されたからである。しかしそれはあくまでも管理側の都合であり、利用者の利便性については損なわれている。閲覧に申請を要する資料のために市街部在住者は元より岐波地区・厚南地区在住者にとっては以前よりも遠い船木まで片道数十分かけて車を走らせなければならず不便になったことは否めない。

郷土資料館は実質的に閉鎖されているが、館内のすべての資料が船木へ移されたのではない。屋外展示されている資料は容易に動かせないためそのままとなっているが、館内には今なお多くの資料が置かれている。それらは整理されず乱雑に積み置かれ、倉庫のような状態になっている。


また、郷土資料館側が独自に制作したと思われるパネルが今も館内に眠っている。これらは同じものが別の場所にあるのかも知れないが、日の目を見ることがない資料となってしまっている。


この他、昭和期の農作業を伝える農機具類は現在も1階の展示室へ押し込まれたままになっている。学びの森くすのきで展示するほどの重要性がないかスペースの問題と思われるが、せっかくの郷土資料の退蔵である。ここにしかない重要な史料はないと思われるが、一般に展示されない資料は元から存在していないも同然である。

屋外に展示されている資料も、現状ここを訪れても館内に入れないため見学する来訪者自体が殆どない。むしろ建物の奥が死角になるため休日や夜間に外部から侵入して不適切な行為を行うスペースとして悪用されている実態がある。[c1]古墳跡の再現や芝中橋の親柱などここから動かしようがない資料があるならば、学びの森くすのきの博物館とは別に今ある建物を郷土史研究の関連施設として再度活用するよう検討をお願いしたい。現在の図書館ほど利用者が多い設備でないものを充てるなら、車一走りで行ける市街地の一角という立地は魅力的と言える。

既に何かの計画があるのかも知れないので、今後の動向によっては以上の記述は編集される余地がある。
出典および編集追記:

c1. 郷土資料館横の空き地に侵入し飲食や喫煙を行ったとみられる痕跡があったという。(市教育委員会担当者による談話)
《 個人的関わり 》
注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

《 近年の変化 》
・2016年の10月下旬、郷土資料館横の芝中橋親柱が据えられているすぐ背後に初代新川橋の親柱一対(橋名と架橋年の入ったもの)が仮置きされた。
写真は親柱を取り卸すときの作業風景。
カメラの調子が悪く白トビ現象が起きてしまっている


この親柱は以前詳細を明らかにしないまま総括記事を書いた石柱そのものである。読者の報告により発見されたものの、期限までに対処しなければ破砕され産廃処理場送りとなる運命であった。石柱の救出には大変な紆余曲折があり、この場所へ搬出できたのは奇跡的と言ってよく、これは歴史の証人として生き延びようとする石柱自身の持つ運の強さに他ならない。

この石柱の救出劇は今まで当サイト管理人の成し遂げた最大の成果である。将来的には元あった場所へ里帰りさせることを前提に、市教育委員会のこの敷地へ仮置きされている。個人情報の兼ね合いよりここに詳細を記述はできないが、石柱の発見から今後の予定に至るまで一連の顛末は膨大なドキュメントに記録されている。調査依頼と正体の判明が第一幕、現地からこの場所へ搬出し救い出すまでの過程を第二幕とするならば、今後この石柱を本来あるべき場所へ里帰りさせてやるプロジェクトを第三幕と位置づけ、クラウドファンディングを活用し展開することを考えている。(2017/3/18)

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