渡り八幡様・初回踏査

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現地踏査日:2012/4/6
記事編集日:2014/12/11
情報この記事に登場する物件(渡り八幡様)は正式名が判明したので、元の記事名(上宇部の鎮守社)から名称変更しています。

Q&Aのページでも宣言している通り、このホームページでは基本的に神社やお寺関係は物件として取り扱わない。コアネタと称して境内を歩き回り、面白がって写真を撮りまくるのは畏れ多いのと、住職や宮司さんが管理している現役の寺社なら由来を具に伝える古文書があるからだ。私の如き素人が伝える努力を唱える必要がない。

しかし同じ寺社でも今は管理されず忘れ去られ荒れ放題となっている寺社となるとどうだろうか。
寺院カテゴリを作っておらず今後作成する予定もないので記事を書くなら廃物カテゴリに収録されることになる。もし誰にも顧みられず歴史の闇に葬り去られそうになっているなら、記録を遺すだけの意義があるのではと思った。

一般人の暮らしや企業活動があった家屋や建物の場合、顧みられなくなった後も暫く廃屋や廃墟として遺り続けることはそう珍しくはない。特に廃屋は市内でも(あまり取り沙汰されないだけで)間違いなく増えている。
今回たまたま見つけたのは藪に埋もれた小さな祠ではなく、石段や鳥居まで構えた相応に立派なものである。その全体が廃の領域に送り込まれているなど尋常ではないと思うのである。

それは常盤用水路に関する構造物を再訪し、写真を撮っている過程で見つけた鎮守社だった。
地図で示せば概ね以下の場所になると思う。


常盤用水路は既に全線を辿っているので、この鎮守社も一度は目にしている筈だ。しかし元より寺院関係に興味がなかった上に藪へ埋もれた廃寺社が薄気味悪いと感じられたのか、一枚も写真を撮っていなかった。
なお、この物件はもしかすると地域の所有物ではなく、この土地を所有する個人のものである可能性もある。その場合このホームページにおける物件の掲載基準から外れるので、個人の所有と判明した時点で記事および一連の写真は取り下げることを前もってお断りしておく。

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現地への行き方は最後に述べるとして、まずは映像を見ていただくことにしよう。

常盤用水路のNo.5架樋より更に上流側で開渠が大きくカーブする場所にコンクリート床版が架かっている。
実はこの小さな渡り板は、これから訪れる鎮守社のために架けられたものらしい。


このカーブの上流側にNo.4吐口がある。したがってメンテナンス道は行き止まりになっているので、この場所へ到達するにはNo.5架樋の方からだけということになる。


問題の物件は、コンクリート床版のあるカーブの内側にあった。

宇部興産(株)の境界を示すコンクリート杭の横に雑草へ埋もれた階段がある。
階段はコンクリート製だから、それほど古いものではなさそうだ。


階段の先に鳥居がある。
4月上旬はまだ草木が勢いづくには早い季節だ。そうでありながら周囲はかなり酷く草木に覆われているので、注意していなければ見逃してしまうかも知れない。


場所柄、私がここを通るのは初めてではない筈だ。そう言われてみれば鳥居らしきものがあったような記憶もある。しかしいずれの回のときも撮影はもちろん接近さえもしていなかった。


鮮明な画像を得るためになるべく両手を伸ばしてズーム撮影した。
「鎭守社」の3文字が見える。いわゆる村の鎮守の社を想起させる。


初めて常盤用水路のこの場所を辿ったときとは異なり、今は薄気味悪いとか縁起悪いなどという非科学的な感情はまったく持ち合わせない。ちょっと不気味という感じがするだけだ。必要なら接近して写真を収めることに何の躊躇もなかった。
しかしこの場所を訪れる直前、No.5架樋の詳細を撮影しようと藪へ入った後、看板にイラが張り付いていたのを見てしまったので、そっちの方の意味で藪へ入るのが躊躇われた。

なるべく木々や葉に触れないよう注意しつつ進攻してみた。


正面に祠があった。
階段や鳥居もそうだったが、この祠も見たところ割と新しいもののような気がする。荒れてはいるが外観はそれほど傷んではいない。
扉は開放されていて、中に遺されているものは何もなかった。


祠を中心として左右に2基ずつの石灯籠があった。
これも外観にさほど古さは感じられない。傾いているだけで割れや欠けはなく、年代を物語る苔や地衣類の付着も殆どない。


振り返って撮影。
鳥居と祠の間に反り返ったような形の石柱一対を見つけた。
他の寺院でも見たことがある気がする…しかし知見がなく何というものか何のための石柱かは分からない


この他には遺されたものはなかった。もう少し周囲を丹念に探索すれば何かあるのかも知れないが、直前の物件で藪に入る気を大きく削がれる不快害虫を目にしていたので、深く追究する気が起きなかった。今の時期でこんな状況だから、季節が夏に向かうにつれて現地へ行って藪を漕ぐのは相当の覚悟が必要になると思う。

この物件の正体として推測されるのは、尋常小学校唱歌にあった「村の鎮守の神様の…」と歌われた地区の鎮守社というのが最も妥当な見方だろう。
冒頭の地図で観てもここは風呂ヶ迫池を臨む周囲で一番高い場所であり、今ほど木々が無秩序に生えていなければ溜め池を見下ろすことができる筈だ。溜め池の完成を慶び、水に感謝して設置したように思える。現在顧みられず荒れてしまっているのは、周囲の田畑が住宅地に変わり、昔ほど溜め池の水が必要とされなくなったからかも知れない。

他方、外観が妙に新しい感じがすることに違和感を覚える。溜め池自身は昔からあるものだからそれなりに由緒ある古い社があっておかしくない。実際には階段や鳥居がコンクリート製であることから、歴史は浅い。昭和中期以降にこの溜め池を整備したとき造られたのだろうか。
祠は空っぽ状態だったことから、祀られていたものは別の場所へ移されたと想像される。しかし何故その必要があったのか、鎮守社たるものどうして藪の中へ捨て置かれ顧みられない状態になっているのかは謎だ。

現地への行き方は冒頭に掲載した地図を参考にするなら、風呂ヶ迫の溜め池から流下する水路を辿るように行く方法がある。しかし鎮守社自体が藪に埋もれているくらいなので、参拝するための里道は酷く荒れているし何処から入るのか判然としない。むしろ遠回りにはなるが、市道丸山黒岩小串線のこの場所から溜め池の方に降りる地区道に入り、No.7隧道のポータル上から常盤用水路のメンテナンス道を辿るのが一番確実だろう。


寺院関係は個人的にそれほど興味を覚える分野ではなく知見もないので、本件は一連の写真と報告のみにとどめておく。当面は追加踏査を行う予定はない。気になる方は直接現地をあたっていただきたい。
【追記】

常盤用水路を再訪したときこの鎮守杜も念入りに調べなおし、いくつかの新しい発見があったので総括記事を作成し、本記事は初回踏査としてファイル名を変更している。

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