白岩公園・第五次踏査【9】

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(「白岩公園・第五次踏査【8】」の続き)

数メートル離れて転がっている笠のような部材である。
早い時期に気付いていながらまだ写真で報告していなかった。[15:38]


サイズはこれくらいだ。
中央に円形の窪みがある。石灯籠の一部のようにも思える。


裏側は特別な加工がされていないので、窪み部分を上にして土中に埋もれていた基礎のような感じがする。


この正体が何かは推測がつかない。先に見つけた円筒部がこの窪みに固定されていたのではないかと思う。そうなると石灯籠の一部のように推測される。
石灯籠ならこの部材と円筒状のもの以外に部材がありそうなものだが、近くには見つからなかった。

周囲には年代モノのゴミが散らばっていた。
とりわけファンタの独特なヒダ入りガラス瓶は結構懐かしい。昭和期は味付き炭酸飲料の代表格だった。
瓶入りのファンタグレープ・オレンジって今も販売されているのだろうか…


メインの道周辺は既に何度も歩き充分に調べられている。帰り道に向かいつつも来た道を引き返さずなるべく一度も訪れていない場所を通るようにした。

59番の祠から下ったところに架かる石橋。
こちら側を通って山を下った。[15:48]


この枝道の一つとして恐らくまだ通っていなかった石段を見つけた。
車を停めた場所からは遠ざかる方向になる。


この石段を下りた先に自然の排水路かあるいは人工の滝を模したような場所に出会った。
地面が削れているので今も雨のときは水の道になるようだ。[15:51]


ここに古い木柱を見つけた。外周部が整っているので自然の樹木ではないらしい。
昔の送電用電柱の跡ではないかと考えている。


このような木製電柱らしきものは他にも法篋印塔がある広場の端や初回踏査で辿った水路沿いにも見つかっている。いずれも直径がほぼ同じで地表部に出ている部分だけが遺っている点で共通する。
白岩公園は昭和中期頃までは例祭の日に出店が並ぶ程度に賑わっていたらしいので、設園当初からではなく後から建てられた電柱などの可能性はあると思う。

木柱の正体もだが、この下の岩の配置が気になった。
水を導いて人工の滝に仕立てているように思えたのだ。


ここが流水の落下口なら、その下には水を受ける梵字池のような石の堰堤が必要だろう。それを確認するにはここから下へ降りる必要があったが、容易に降りられる場所がない上に木の葉が積もっているだけで石材自体が見当たらないのでたまたま岩の配置が人工の滝のように見えるのだろうと結論付けた。

来た枝道を引き返したが、あの石橋まで戻るのは遠回りなので、メインの道に戻るまで足元の悪いのを覚悟で沢の中を横切って近道した。

沢の中にも山の湧水を一旦溜めて勢いを弱める緩衝池がみられた。[15:55]
左側に見える大きな岩は崩れて転がり込んだのではないだろうか


梵字池のような遺構を期待したが、地表に現れているものはなかった。
ただこの池の石積みが白岩公園の創立時期に人の手によって造りあげられたのは確かだろう。


強引に沢を横切ってメインの道に復帰した。さすがにくたびれた。
斜面の昇降で結構な労力を使った。もっとも車で近くまで来ていることを頭に入れて行動していた。もし中山観音の駐車場から歩いていたり自転車で訪れていたなら、忠魂碑と倒壊した御堂を確認しただけで踏査終了を考えていただろう。

得られた成果としてはこれで充分だ。
ここまでを撮影して踏査を終了し車に戻った。[16:00]


5度もの踏査を経て白岩公園の主要な物件は殆ど調査し尽くした…ように思えて実は大きな見落としをやらかしていることに気付いた。

K氏が指摘していたこの祠である。当初、私は初回踏査で見つけた祠とばかり思っていた。
そうではない。よく見ると明らかに屋根部分の形状が異なっている。


弘法大師像と薬師如来像が置かれているのは共通だが、やはり内部の屋根の形から違いが分かる。
これは今まで写真でお届けしたどの祠とも異なっており、自分自身白岩公園で見た覚えがない。


この祠はK氏手書きのマップによれば倒壊した御堂や忠魂碑のある沢の先端に記載されていた。しかしあれほど現地をくまなく探し歩いていながらこの祠は見つからなかった。そもそも現地を踏査中の私は忠魂碑と倒壊した御堂だけは必ず見つけてやろうという気持ちが強くこの祠の存在自体が頭になかった。

写真ではこの祠が何番のものかが判別できない。K氏も祠に関してはこの2枚しか撮影していなかったらしく詳細は分からない。[1]調査してみたいが既に今のところ最後の踏査となったこの第五次踏査から一ヶ月経ってしまった。恐らく現地は藪が戻り始めて接近自体が困難だろう。

本編に関しては以上だ。なお、第五次踏査のきっかけとなる写真の転載および情報提供の形で協力していただいたK氏には厚く御礼申し上げる。

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これですべてが終わったのではない。ほんの少し前進しただけだ。これほどの壮大な物件が平成時代を生きる殆どの市民から忘れ去られた存在だったところから、白岩公園という名前とその場所、現況を写真と共に送り出せたに過ぎない。地域の郷土資料を参照する余地があるにしても、正体や成り立ち、存在意義など未解明な遺構が数多い。いや、明確に判明している遺構の方が少ないと言っていい。また昭和中期まで白岩公園に慣れ親しんできた人々の証言も由来を語る上で重要な資料となる。

一連の流れを受けて有志メンバーで白岩公園を再度探索しようという計画が持ち上がっている。可能であれば6月中に実施しようという様相だが、場所によってはジャングルを歩くのと大差ない程度の覚悟と装備が必要になるだろう。
特にヘビの苦手なメンバーは生理的に拒絶反応が起きるだろう…^^;

一冊の書籍に出会ってから僅か半月足らずで5度もの踏査および有志メンバーによる調査という猛攻撃を受けた。短期にここまで精密に調べ上げ、私を含めて多くの有志メンバーを巻き込み魅惑した遺構は極めて稀だ。これほどの壮大な案件は今後市内には期待しづらいかも知れない。

藪漕ぎを伴う本格的な調査は再び寒い時期が訪れるまでお預けになりそうだが、有志メンバーによる探索計画など新たな動きがあれば随時追記する。また、記事制作に関しても白岩公園全体に散らばる遺構をざっと眺望できるように遺構ごとのリストと写真を別途まとめたいと考えている。こちらも完成次第案内するとしよう。

出典および編集追記:

1. K氏の後日談によれば、この祠は忠魂碑より若干高い場所にあり、一連の踏査の中で最初に発見している。祠は斜面の途中にあったらしく最初は上から岩と屋根しか見えず到達困難だったので、携行していた剪定鋏で周囲の小枝やイバラを刈り取ってやっと到達できたという。
このことから祠は白岩公園コースから非常に近い場所にあるように想像される。実際、白岩公園コースから一部が藪の向こうに見えていたとも話しており、かつては普通の道がついていたらしい。
なお、祠に格納された弘法大師や薬師如来の番号がどうだったかはK氏も確認していなかったと話しており、詳細は次回踏査の課題である。

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