白岩公園・合同調査会(休日編)【2】

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(「白岩公園・合同調査会(休日編)【1】」の続き)

祠は人の背丈よりやや高い程度で、大きさは他のものとほぼ同じだ。
いつお供えされたのやらも分からないワンカップ酒のガラス瓶と線香立て以外に何も最近の人工物は見当たらず、少なくともここ数年くらいは誰も訪れていないらしかった。


祠の内部。
薬師如来と弘法大師一体ずつの安置で、標準的なパターンである。


中はは暗く、フラッシュ作動させなければ撮影できなかった。
しかしフラッシュを焚くと文字が平板になってしまい読み取りづらくなるのは否めない。


もっともK氏が以前に提供してくれた画像によってこの祠が6番であることは判明していた。
「忠魂碑は…ここから行けるの?」
「リボンのある場所まで戻れば辿れますよ。ここから直接行けるかどうかは…」
この御堂から忠魂碑まではそれほど離れていないらしい。K氏の先導に従いちょっと進攻してみたが、道を失いそうになるということで一旦先の場所まで戻ることになった。

少し離れるともうあの祠は藪に隠れてしまうような場所だ。


引き返しの途中で祠の背面が巨岩に合わせて誂えてあることをF氏が指摘した。


側面のレンガが岩の凹凸に合わせて削られている。祠を建てるときから現場合わせで加工したのだろう。


先の分岐から今度は赤いリボンを辿って歩く。
途中、斜面が抉れていてちょっとしたスリルを味わう場所もあった。


忠魂碑にはK氏のルートで到達できた。写真は既に当サイトで掲載するほど充分に撮影していたので、今回は撮っていない。

最後に6番の倒壊御堂が残った。位置的には忠魂碑などからそれほど離れていないと思う。しかしK氏は直接のアクセスを避けた。
「途中で藪が酷い場所があって通れなかった…確実に行くには一旦下まで戻る必要がある。」
K氏の発見を受けて自身が踏査したときは、忠魂碑を見つけた後で適当に周囲を歩き回っていて発見はできた。もっとも何処をどう通ったのかを説明できないし、自分自身も再現不可能である。単独踏査なら迷うことなく藪へ進攻開始するところだが、参加者を彷徨わせるわけにもいかない。K氏の先導によって一旦マーキングした位置まで戻った。

酷い枯れ枝がなくなっている程度で、足元はとても道があるとは言えない。青のマーキングを頼りに先へ進む。
やがて御堂に付随する手水の石がみえてきた。


午後から晴れという予報の通り、藪の濃いこの場所も光が差し込んでいる。
朝方は天気が懸念されたが、今思えばこれまで白岩公園に訪れた中でもっとも明るい日差しが得られた日だったように思う。


散乱する瓦の上に今シーズンの落葉分が積み重なっていた。
より荒廃度が増しているような気がする。


柱や瓦がふんだんに使われていることから、6番は八十八ヶ所の中でも大きな祠であったらしい。


弘法大師の首から上は再び落ちてしまっていた。
「しまったなあ…多分落ちてるんじゃないかと思って接着剤を持って来ようかと思っていたんだけど…忘れてしまった。」
薬師如来像は台座部分のみ残して本体はない。初めて発見されたときからそうだった。
線香立ての陶器も欠片を組み立てただけだったので再びバラバラになっていた。

「首から上は多分後ろに落ちているんだろう。」
この場所に慣れているK氏が祠の背面に降りた。
やはりそうだった。


K氏は弘法大師の頭部を元通り組み合わせると、他に何か落ちていないか周囲を探し始めた。

その間も私は倒壊御堂の背面の藪が気になっていた。


体感的にもこの倒壊御堂は登山道の白岩公園コースから近い筈だ。実は目の前に見えている藪のすぐ後ろに白岩公園コースがあるのでは…単に藪が酷いから分からないだけでは…という憶測が働いた。それほど自分の現在位置を確かめようがない藪なのだ。

M氏が文明の利器を活用してこの場所のヒントを与えてくれた。
「現在地は…大体ここらへんになりますね。」
携行していたモバイル機器のGPS機能を使って現在位置の地図を示してくれた。
確かにこの場所は第六次踏査で白岩公園コースの途中から分岐する入口に近かった。地図では直線距離で精々20m程度に思われた。
現在眺めている藪は、分岐路から進めるだけ進んでシダ藪に先を阻まれたこの場所ではないかという気がしてならない。極端な話、両者は10mも離れておらず、この酷いシダ藪を突っ切れば相互に到達可能だったという事態も有り得る。

私がこの経路を執拗に拘るのは、かつて倒壊御堂へ参拝していた人が何処を通っていたかを知るのもさることながら、倒壊御堂へ安全確実に到達する経路を確立したいという実務的な目的もあった。
平成の時代に入って白岩公園に日が当たり始めて以来、漸く法篋印塔や大自然碑は説明可能な程度に到達経路が再現できた。忠魂碑や7番の祠はK氏のルート開発もあって経路が確立されつつある。しかし倒壊御堂は白岩公園コースからかなり近いのは疑いないのに、未だに沢の下から攻める遠回り経路しか確立されていない。この経路開拓は以降の踏査においての課題になりそうだ。

K氏は尚も御堂の背面に散乱しているものを漁っていた。御堂が倒壊したとき何か下敷きになっていないかと考えたらしい。
背面はまだ一度も降りたことがないので撮影目的に私も降りてみた。

祠の背面はかなり低く、人の背丈程度の段差に基礎部分を造って祠を設置していた。


更に姿勢を低くして御堂の下の部分を撮影している。
布積みの石積みが見える。元々は地山ではなく、石積みで平場を拵えたように思われる。


私が写真を撮っているときK氏が何かを見つけたらしかった。
「何だこれ?何でこんなところにまな板があるんだ?」
そして続けてこう言った。
「何か文字が書いてあるぞ。」
御堂の背面はそれをチェックするには狭かった。K氏は大判のまな板らしきものを御堂の上に載せた。

まな板のように見えるそれは恐らく木製の扁額だった。
酷く朽ちているように思えて、左端の方に刻まれている文字が妙に鮮明である。


それは恰もつい最近刻みつけたかのような鮮明度をもって読み取れた。
聖観世音開帳記念
昭和五年四月吉日
彫刻者 岡ア兵助


信じられない。昭和五年と言えば白岩公園が設立するよりも3年前のことだ。そんな古い年号が木版に刻まれ、しかも鮮明に読み取れるという事実が俄に信じがたかった。
確かにその文字はつい先ほど刻みつけたかのように、文字の彫りの深さも明瞭でハッキリ読み取れたのだ。

思わず冗談交じりに言った。
「昭和五年って…平成五年の間違いじゃないのか?」
何しろ80年以上前である。そんな長期に渡って雨風に晒されたなら文字が判読される以前に木版そのものが朽ちて土に還っている筈だ。これほど良好な状態で遺っていたということは、今まで80年のうち本当に風雨に晒された時期が短かったからと断定せざるを得ない。
そうなれば御堂が倒壊したのは今まで考えていたよりもずっと最近のことと考えられそうだ。
「裏は?どうなっている?」
扁額の裏面には何やら短歌のようなものが刻まれていた。掲げられるときどちらが表になるのかは分からないが、どうやらこの面の方が長く風雨に晒されたようで判読しづらかった。


別の角度から撮影している。
さすがに文字はかなり薄い。すべてを判読するのは恐らく可能だろうが、魚拓の要領で文字をひとつずつ拾い出す作業が要るだろう。


昭和五年の扁額発見は、今まで唱えてきた自説「白岩公園が設立された当時のもので木製の遺構はことごとく朽ち果てて何も遺っていない」を覆すものだった。実際、他にも御堂や売店らしきものがあったらしい場所はいくつか知られている。今回の合同調査会の序盤でも厠らしき場所が見つかったが、当然ながら差し掛け小屋があったことを証明する木柱の残骸などは得られていない。
この例外的発見は、恐らく扁額が元々は雨風の影響を受けない御堂の中に格納されるものであり、倒壊するまでは劣化しない良好な環境に置かれていたことに由来すると言えそうだ。

せっかく今まで風雨を凌げる場所に格納されていた扁額を無造作にここへ置き去りにすればどうなるかはかなり明白だった。それ故に我々はこの貴重な発見物の処遇に悩んだ。
「これ…どうしようか?」
誰もが即答できなかった。

持って帰るわけにはいかないのは明らかとしても、このまま元あった場所に放置しておいていいものか懸念された。雨風に晒されれば、せっかく発見された扁額も次第に文字が薄れ、最後には地に還ってしまう。
「あの賽銭箱が格納されていた場所に置いたら直接の雨は凌げるのでは…」
「いや、同じことだろう。水が溜まるから余計に早く朽ちるかも知れない。」
とりあえず雨の影響をうけづらい場所に元あったような形で置く以外なかった。
ここからはもう新たな発見はない。K氏の記したテープの案内にしたがって山を降りた。

正直な話、私はこの扁額をそのまま置いて帰ったことが後ろ髪を引かれるような思いである。あの木盤が偶然私たちの目に留まったのは、もしかして神懸かりのような事象に感じられた。扁額に吹き込まれた彫刻者の命を受けて「見つけ出してくれ。ここに刻みつけたものが失われないよう後世に伝えてくれ」と叫んでいるかのように。
それを私がしたように数枚の写真のみ撮った後で雨ざらしに放置すれば、その存在こそ明かされただけで、中途半端なままに扁額の詳細は永遠に闇へ葬り去られてしまう。

扁額に文字を刻みつけた彫刻者はどのような思いで御堂を建てたのだろう…しかも裏側にはそれとなく短歌のようなものも添えて。
彼はもうこの世に居ないのは明らかだ。真に重要で後世へ永く伝えたいと思うものなら、石版など堅牢な素材に刻みつけるであろう。それは一応道理だ。しかし木盤に刻んだというのも扁額は御堂の中に掲げられるものであり、雨風に晒されることを想定していないからだ。御堂を看る人が誰も居なくなり、倒壊し、弘法大師の首が取れた状況まで荒廃するなどと予想だにしなかったであろう。

この倒壊した御堂が修復されることは有り得ると思う[1]が、放置期間があまりの永きに渡れば、扁額の修復は不可能になるだろう。そうなることを予想する我々が現地へ到達し、発見しておきながら、その後何もせずに一つの歴史が闇へ消えるのを看過するのは道義とは思えない。

半年前に御堂を倒壊状態で発見しているだけに、扁額は少なくともそれ以上の期間風雨の影響を受け続けていることになる。雨ざらしで濡れた状態が長く続けばそれだけ腐朽化が進む。今すぐ消えてしまうことはないにしても、あと半年以上安泰である保証はない。
本件について、白岩公園関連の火付け役という責任と矜恃をもって次の藪漕ぎ不可能シーズン到来(来年の4月末頃)までに再度現地を訪れ、扁額に刻まれた文字を可能な限り解読・記録することを約束しておきたい。

現地になお野ざらし同然状態で置かれている扁額の現物をどうするのが一番良いかは、各方面からの意見を伺ってみたい。
白岩公園は私有地である。そこに存置された価値あるものは恣意的に持ち出せない。まず必要かつ簡単に実行できるのは、せっかく我々の目に留まった昭和5年の情報を記録し、確実に継承することと思う。
出典および編集追記:

1. 倒壊御堂は白岩公園の中にあるというだけで藤山八十八ヶ所の一部である。6番の御堂だけ欠損して存在しない状況を放置することも考え難く、設置場所や御堂の外観を変えてでもいずれ復元するのではないかと思われる。

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