白岩公園・合同調査会(休日編)【1】

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現地踏査日:2013/11/17
記事公開日:2013/11/26
集合時刻である午後1時の10分前、私は既に中山観音の駐車場に居た。休日編の参加者であるK氏、F氏、M氏はいずれも定刻までに駐車場へ姿を現した。
3人の参加者は私とは今回の合同調査会以前に別の場所で面識があった。特に宇部祭りで研究会メンバーとして活動した方とは、祭りではエラい酷い目に遭ったものですなーが挨拶代わりとなった。
天気は曇り。雨の心配はもうないにしてもカラッと晴れた青空にはほど遠く、やや寒い。特に直近の第六次踏査では県道を歩いて汗ばんだ経緯があったために、薄着で来ていた私は肌寒く感じた。

Facebookのイベントでは、あらかじめ参加表明していない人でも飛び込みでの参加もできる旨を書いていた。本来10日開催だったものを17日に雨天順延したことで逆に参加できるようになったという読者を想定している。[1]そこで定刻の午後1時から数分ほど待機して他のメンバーが現れないか待った。どうやらこの4人で確定するようだ。

ページの方には書かなかったが、もし自分を含めて参加メンバーが5人以下に収まったなら、現地まで車で行こうと考えていた。第六次踏査で実際に歩いたものの白岩公園までは結構な距離があるからだ。
「さて…そろそろ行こうと思いますが…どうしましょうかね?現地までは?」
歩くか車で到達可能な場所までサッと行くか…とりわけF氏に意見を伺った。F氏は霜降山をこよなく愛し、私も初期には何度も歩いた白岩公園コースをはじめ登山道の殆どを歩き尽くしている。もしかすると山歩きを兼ねて白岩公園行きの気分を高めたいかもと思ったので。
「車で行けるなら車にしようや。労力を使うところは白岩公園でも出て来そうなので…」
中山観音駐車場から白岩公園の車で到達可能な入口までは、どの経路を取ろうが歩けば15分くらいかかる。当然帰りも同じだけの時間がかかるわけで、私にしても労力を削減したかった。
随所で述べているように元々が自転車使いなので歩くことは本当は嫌い

3人を乗せてまずは県道琴芝際波線に出て、例の地区道から山の中へ入っていった。単独運転で訪れたことはあっても3人を乗せた状態で坂道を登るのは厳しいかも知れないと思った。
最後の一軒を前にしてのコンクリート坂はとてもきつい。幅も軽四がやっとである。私の車はミッション車で、ローでなければ坂を上がらなかった。もっともそのお宅は恐らく日常的に車で出入りなさっている筈だが…
そこまでの坂でメンバーは既にとんでもない場所へ車を乗り入れるものだと思っていたようだ。常盤用水路を渡ると道は未舗装になり、ところどころで岩が露出している酷い荒れ道である。私からすれば既に勝手知った道でもやはり尋常なドライバーが乗り入れる道ではない。

露岩のある場所を過ぎると、以前紹介した軽四程度が一台停められる余剰地がある。当サイトで紹介していたのでメンバーの誰もが知っていた。
「ハイ着きました。ここで車を転回しておきますんで先に降りてもらえますか?」
3人には降りて白岩公園の入口となる石橋部分で待機してもらった。私は身軽になった車をササッと転回させて例の軽四一台が収まるスペースへバックで押し込んだ。初めて訪れたときも同様に転回して要領を覚えていたから、何度も切り返すようなこともない。十数秒の離れ業である。
「よくこんな道に入って…この狭い場所でバック駐車するもんだなぁ…」
K氏が感心していた。まあ、それほどこの場所は慣れているものでして…^^;
「この場所が一応、今まで調べた限りで白岩公園に向かう入口のうちの一つと考えています。他に登山道の白岩公園コース側からも行く道があります。」
メンバー一堂、まずはこの場所で進行方向を撮影していた。私はカメラを構える3人を撮影した。
参加者が特定できるショットなので掲載は見送る

「どこからが白岩公園なのか?」という問いを突きつけられたとき、私自身未だにその明確な回答を持ち合わせない。白岩公園の設園と同時期と思われる構造物が見られ始める場所からというのは一つの考え方だろう。それはマップでも記載した勝手呼称「ボール橋」から先である。

倒壊御堂があると思われる最初の沢はそのまま通過した。それから初回踏査で沢を強引に登ってきて高い場所に見つけた石積みの場所で、K氏が奇妙なものを見つけた。
「何これ?壺みたいなものが埋まってるよ。」


水路沿いに高い石積みがある場所の上だ。
藪の中にあったし今まで注意して観察していなかった。

直径が50cmくらいの壺のように見える。
縁が一部欠けているようだ。中にはぎっしりと落ち葉が詰まっている。


場所柄、これは昔の厠ではないかという推測が出た。これに隣接して石積みで造られた平場があったからだ。
「昔のトイレかも知れんな。この場所に茶店などがあったのかも。」
トイレに限らず昭和の中期頃までは生活排水もこのような大瓶[2]に溜めていたのを覚えている。叔父さんの家を改築で昭和50年代初頭に解いたとき、台所の裏から大瓶が埋まっているのを見た。汚れ水を溜めて屎尿と同様汲み出していたらしい。ここにある大瓶はそういったものに類似している気がする。
数度に及ぶ踏査でも私はこの瓶の存在に気付かなかった。複数の目で現地を眺めると新しいものが見えてくる好例だ。

梵字池は階段を降りて場所だけ案内した。石盤は存在が微かに分かる状況で、既に落ち葉や流れ込んだ土砂に隠され文字は読めなくなっていた。参加メンバーは地域SNSのブログなり当サイトなりで現物を既に眺めているので、掘り起こさなかった。

私は自分の中で概ねどのルートでメンバーを案内するか決めていた。59番の祠を観て五重塔を眺め、法篋印塔への3連続石段を登って倒木峠へ降りて最後に大自然の石碑を眺める経路だ。このため正規の園路と思われる石段から外れて59番の祠に向かった。
祠は大きな岩に接する形で設置され、岩の下には奇妙な井戸らしきものが見つかっている。それが何のためのものかは未だに明らかになっていない。その場所へ案内した。

一辺が80cmくらいの正方形をしている。元々は石材を組んで誂えたようだが、上部の縁はモルタルで固められている。
中には水が溜まっていた。それは最初に発見したときと同じ状態だった。


この遺構は私からもメンバーに是非とも意見を伺いたかった。
「この井戸みたいなものですが…一体何なんでしょう?」
F氏が井戸の上部や脇に据えられた岩を調べ、その奥を覗き込んだ。
「この岩は…元からのものではなさそうだな。」
「明らかに人の手が入っていますね。」
上の大岩を支えるような形で押し込まれているし、台座部分となった岩の接合部にはモルタルが練り込まれていたからだ。
「これは…先が何処かに繋がっているんじゃないか?中に入ったことある?」
「ないですよ。最初来たときは荒れていたし、この井戸みたいなのが怖かった…狭いのにとてつもなく深そうに思えたので。」
F氏は井戸の更に奥の岩がある中へカメラを押し込み、画像を採取していた。岩の中でフラッシュが一瞬光った。その映像を見てF氏は続けた。
「何かの宗教的儀式で、ここを潜れるように造ったものでは…別の場所にも隙間がある。」
「いわゆる『胎内くぐり』みたいなものでしょうかね。」
F氏の後に私も中へ潜ってカメラを構えた。
まず井戸のそのまま正面には明かり部分が見えた。腹這いになる覚悟ならどうにか反対側へ出られる程度の空隙だ。


井戸の奥から左側。
この方には更に狭い空隙があり、何処へ続いているやらも分からなかった。また、明かりはまったく見えなかった。


胎内くぐりとして造られたというのはちょっと苦しい。そうであれば開口部の井戸の横を通らなければならず、わざわざそんな危ない設計にはしないからだ。巨岩が積み重なって自然に通路のような空隙ができたと考えられそうだ。
「この井戸の水は何処から来ているものだろう?」
沢地だったら水の流れを一ヶ所にまとめるために造ったとも考えられた。しかしこの場所はどちらかと言えば尾根に近く、単純な湧水処理とは思えなかった。飲み水を確保しようとしたか、あるいは景観的な意図で造ったものではないかと思う。[3]
水位が初めて見つけた時と変わっていないことから、一定量の水が溜まったら自然と何処かから抜けるように造られているのだろう。湧水が溜まることについては特に不自然はない。そのことは実際に白岩公園内を歩き回ると、少しでも低い場所には湧水が目立つことから理解される。

59番の祠を案内後、園路の本線に戻って先に大自然の石碑を眺めた。
下から撮影している。左側には五重塔の一部が見えている。


この大自然碑の前で撮影者を入れ替えつつ記念撮影した。
写真は既に該当者には配布済み

白岩公園の初期踏査時は大自然や五重塔自体が園路からまったく見えず、その後枯れ枝などが打ち払われて正面からも眺められるようになった。

同じく下から眺めた五重塔。


五重塔も今や下から全体像が眺められるようになった。
K氏が以前から指摘していた通り、最上部の相輪が失われていることが確認された。その一部は大自然碑の下まで転がり落ち、半ば木の葉の下に埋まっていることが分かっている。


「これほどの塔がよくも倒れず今まで持ち堪えてきたものだなあ…」
四本脚の台座部分のみで全体を支えている。これが丸っこい岩の上に安置され、数十年もの間倒れないでいたのはどうにも不思議なことだ。


「この五重塔って一体どんな材質で出来てるんだ?岩を削ったんだろうか…セメントかな?」
「セメントじゃないかと思っています。岩だけであんな細部を削り出せるとは思えませんから…」


そこから3連続の石段を登り法篋印塔に向かった。
今やこの周辺もツタ系の草木が刈り取られて見やすくなっている。


子安弘法大師は脚の部分の鉄骨と下半身部のみ遺して失われている。元がどのような像であったかは現在もまったく想像がつかない。


子安弘法大師像の前には拝み所のような差し掛けがあったものと考えられている。差し掛けの基礎跡と、礼拝用の物品を置いた台座部分だけが僅かに遺っているからだ。
白岩公園にある代表的作品として法篋印塔、大自然碑、五重塔があり、それらはいずれもほぼ原形を留めているし、大自然碑や五重塔は設園初期の写真も遺されている。子安弘法大師像は破損が酷い上に当時の写真も今のところ見つかっていない。もし将来的に白岩公園を復元するプランが持ち上がった場合、当初の姿の復元が困難な課題になるかも知れない。

参加者で最年長者のF氏は、小学校の遠足で白岩公園に訪れている。しかし当時の記憶はそれほど鮮明なものではなかったという。もっとも遠足の訪問先である以上、当時はこんなジャングル状態であるわけもなく、もう少し眺めが効いていたようだ。

法篋印塔の広場から倒木峠まで下り、そこからは沢の左岸側に移った。
ここにも観賞用の小道があったようで、沢の上流端に石橋が架かっている。


この少し先に通称「テーブル岩」がある。
自然ではまずこのような形にはならず、大岩が崩れないように手を加えたものと考えられる。


メインの沢の右岸側に大自然碑として知られる八丁岩のような巨岩があるのに対し、左岸側はそれよりやや小さい(とは言っても日常的感覚では充分に大きな)岩が散在している。その多くが斜面に散らばっていて、別の岩を下に押し込み、転がり落ちないように細工されているのが分かる。

さて、私によるナビはここまでだ。尾根を越えた先に御堂が2つと忠魂碑が存在する。私が現地到達してレポートした分は、藪の中をあてどなく彷徨い歩いた結果として見つけたものである。経路の再現性に乏しい。しかしK氏は藪をある程度刈り払い、テープを施して経路を確立していた。
K氏の話によると、この場所からはまず私も見つけられなかった7番の御堂が近いという。信じがたいことだ。毎回必ずではないが、東側の谷地にも石積みなどが散在していることから何かありそうだとみて早い時期から複数回調べていたからだ。

木の幹などに結びつけられた水色のテープを辿っていく。このテープは7番の御堂行きとして設置したという。


K氏によって経路の一つの目安になると指摘された「板根の樹木」
地表部に露出した根が板のようになっている。


板根の樹木のすぐ山側に目立つ大岩があるので、そこを通って登っていく。


いち早くK氏が指摘した。
「ほら…あそこにある。」
既に藪へ目が慣れている読者ならまだしも、いきなりこの一枚の写真を提示されても何が何やら分からないであろう。


私が接近しようとしなかった理由も理解された。周囲は酷いシダ系の藪で、足元がまったく分からなかったからだ。
シダ系の藪はそれ自体には危険性はない。イバラのような棘はないし、ほいとを撒き散らすこともない。しかし葉を上向きに拡げてみっしり生い茂るので、シダ藪の場所は殆どの場合地面がみえない。危険が予測されるので藪漕ぎでも経験上踏み込むことはなかった。むしろ行く手にシダ藪が見えたらそこで引き返していた。[4]K氏はいち早く何かあるらしいことを察知し、刈り払いしつつ接近することで発見したらしい。

私自身の目で初めて確認した7番の祠。
ある程度刈り払いされているとは言ってもここは本当に酷い場所だ。


確かにK氏が提示したあの御堂だ。私が今まで7回も白岩公園を訪れていながらただの一度も目にすることができなかった場所である


初めて見つけたときもK氏は小型の剪定挟みで周囲を刈り取りながら接近したという。それでもなお私たちが訪れた時点で容易には見極められない状況だった。K氏が訪れる前はもっと酷い状態だったと想像される。

体感的にはテーブル岩からそれほど離れていないように思われた。祠は小ぶりで、周囲の木々は祠の上部に達するまで伸びていた。初めて訪れる場所なので、私もこの祠だけは念入りに撮影した。

(「白岩公園・合同調査会(休日編)【2】」へ続く)

出典および編集追記:

1. 休日編参加のF氏も10日開催だった場合は参加できていなかった。雨で翌週に繰り下げられたことで参加できたのはラッキーだったと言える。
飛び入り参加を想定して集合時刻直後数分間待機するというのは、Facebookページで初めて行った顔合わせオフでも実施している。

2. 特に大きい飲み水などを溜める瓶は、うちの親父は「はんど」と呼んでいた。方言か一般的な言葉なのかは分からない。

3. 幼少期、旅行で箱根の関所を訪れたときこのような浅い正方形の溜まり水があって賽銭が投げ込まれていたのを見た。自分としてはあれと同じイメージが重ね合わされた。

4. 地面の見えないシダ藪へ不用意に踏み込むと、予想しなかった地形の変化で脚を挫いたり、隠された水の道に靴を濡らしたりするかも知れない。ただし現に祠が存在していたことから、シダ藪化が進んでいるからといってそこに元から道はなかったという結論には必ずしもならない。

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