白岩公園・第八次踏査【5】

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(「白岩公園・第八次踏査【4】」の続き)

木製の扁額は前回の合同調査会で訪れたときと同じ状態を保っていた。


やはり、前日の雨で扁額の一部は水が染み込んでいた。
雨を受けるたびに濡れては乾きを繰り返しているのだろう。


裏側も同様に濡れていた。しかし刻まれた文字は深くハッキリと読み取れる。


署名部分の上には釘が打ち込まれ、僅かに番線が遺っていた。
扁額の下側を鴨居の上に載せ、紐を掛けて支えていたのだろう。


扁額の状態は傍目にも良くなかった…いや、ハッキリ言えば非常に悪かった。上の写真でも見てとれるだろう。濡れては乾き、あるいは乾く間もなく再び濡れ、腐朽菌が増殖して分解が進行していた。合同調査会で扁額を見つけたときは文字が刻まれている部分のみを撮影していた。そのため写真を撮っていない朽ちたこの部分の状態が分からなかった。
色が濃く変わっている部分を押すと容易に凹み、少し擦っただけで表面がポロポロと剥がれ落ちた。

私はアジトを出る前からこの扁額を持ち帰る腹づもりで袋なども準備していた。しかし現物を目にしてその考えが揺らぎ始めた。

まずは現状を記録することだ。私の低品位なデジカメで拙い撮影技術なので鮮明とはとてもいかない。しかし恐らく最高級のカメラを持ち出したとて同じだろう。肉眼で見ても殆ど判読不能なほど文字が不鮮明な状態になっている部分が多かったのである。

以下、文字が刻まれていると思われる部分をある程度オーバーラップさせつつ撮影している。オーバーラップしていない部分は、明らかに当初から文字が刻まれていなかった部分である。いずれも右から左へ撮影している。


扁額の表面は以上だ。
文字がどのように読めるかは現地で紙と鉛筆でメモを取った。デジカメ画像だけでは不安極まりない。最近、ピントの照準合わせミスが多く、プレビューではそこそこ撮れているように見えていざアジトへ帰って画像を開くと観るに耐えない程のピンぼけという事態が多発しているからだ。実際、このときも通常撮影と接写モード撮影を重ねて行ったが、接写モードの方はことごとく測距に失敗して使い物にならなかったので全部削除した。
「そろそろデジカメ位ちゃんとしたのを買えよ」って声が聞こえて来そうだ

書き取った文字と上記の画像から短歌などの推測が可能だが、敢えてここではそれを示さない。経年変化で文字が不明瞭になっている部分が多く、私が中途半端な読みを提示すれば読者に先入観を与えてしまうことになりかねない。ただ、薬師如来を折り込んだ短歌が含まれていることは分かるだろう。

裏面は全体の半分以上が水に濡れ続けていたために朽ちていた。
署名部分が健全な部分に遺されていたのは本当に奇跡的と言う以外ない。


賽銭投入口と思われる部分も木製で、容赦なく雨に打たれ続けたために原形も失われかけている。


弘法大師像は頭部も落ちることなく健在だった。
本格的復旧にはアンカー留めかセメント向けプライマー塗布か…


台座のみ遺る薬師如来像。
本体は最初にここを訪れたときから失われていて現在も見つかっていない。これほど大きなものが倒壊御堂の下敷きになったままとも考えづらく、持ち出されたのではないかとも思える。


瓦は粉々になり、御堂を支えていた梁や柱も倒れたまま朽ちている。その上に木の葉が積もっているので、全部取り除けば下敷きになっている何か重要なものが現れるかも知れない。


弘法大師と薬師如来像が載る台座だけでこれほどの大きさなのだから、6番御堂は他にないほど大きなものだったと推測される。
白岩公園の中で最も重要な御堂と位置づけられ、豪勢な造りにしたのだろうか…そうだとすればあまりに悲惨な顛末だ。


さて、そろそろあの扁額の処遇を決断せねばなるまい…

扁額のサイズを測るにもスケールを持参していなかった。
参考までに私の手のひらを一緒に写し込んでいる。縦20cm、横40cm程度だろうか。


厚さはおよそ3cm。確かにまな板にも似たサイズと厚みである。


詳細なサイズを知りたいなら、この扁額を持ち帰れば済むことだ。しかし現地で可能な限りサイズが判るような映像を撮ったということは…私の中で決断せざるを得なかったことなのだが、
残念だが、この扁額を
持ち帰るわけにはいかない。
アジトを出るときにはショルダーバッグに専用の袋まで準備していた。この扁額を救いたい、可能な限りデータを伝えたいという気持ちは充分にある。それにも関わらず持ち帰らないという選択を下したのは、元々はこの御堂に帰せられるべきものという心情的な躊躇いがあった。それ以外にも実務的にみて次のような理由があったからだ。
(1) 扁額は、予想していたよりもはるかに大きく重かった。
(2) 扁額は、予想していたよりもずっと状態が悪かった。
持ち上げて体感されるところでは、この扁額は4kg程度の重さがあった。雨に濡れて水を吸っているので、元々よりも重くなっている。それは私がいつも買い物でお店で買ったものをバッグへ入れて持ち帰るときより若干重い程度だ。バッグは肩に掛けるので重さはそう気にはならないにしても、持参したバッグに入りきらなかった。薄汚れたまな板の上部がバッグから露出した状態で肩に掛け、自転車を漕ぐ私の姿は想像するまでもなく奇特だ。
そして最も重要なことだが、苦労して持ち帰ったところで現地で得られる以上の精密なデータが求められる保証がない点にあった。短歌の刻まれた面の後半部分は傷みが酷く、雨に打たれ続けて木材の成分が流れていた。文字として刻まれた部分と木繊維の失われた部分が判別できない位の状況だ。

これは表面の短歌がある最後の部分である。
そこに平仮名の文字があるらしいことしか判らない。現物を持ち帰ってどのような処理を施したところで、今以上に読めるようにはならないと思う。


裏面と比較してみよう。こちら側は水に濡れる期間がまだ長くないせいか細かな繊維質部分も保持されている。そのため刻まれた文字の縁まで明瞭だ。
表の短歌も当初はこれと同程度に鮮明であった筈だ。


結局、扁額は今日私がここを訪れたときの状態を保持させた。
即ち殆ど消えかけている扁額の表面を上向きに、署名の遺る鮮明な部分は裏側にして…


「ここまで来ていながら救い出してくれないのか…」という彫刻者の嘆きの声が聞こえてきそうだった。
決して見捨てたわけじゃない。
そこにそのまま居てくれ。
お前はそこに居続けるのがふさわしい。
朽ちようが消えようが、それが定めだ。
記録されたものは、かならず伝えるから…
そうは言うものの置き去り感がなかなか頭から消え去らなかった。[1]

(「白岩公園・第八次踏査【6】」へ続く)
出典および編集追記:

1. この扁額は、表側にあった名前から彫刻者の身内の方を割り出すことに成功し、現在は現場から搬出され無事関係者の元へ返還されています。この救出劇の裏には地元の自治会やネット上のツールを用いて情報伝播に協力して下さったお陰があります。したがって現地にはもう扁額はありませんが、個人的にはこの扁額の彫刻者にとって一番望ましい処遇だったと安堵しています。

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