常盤公園・憩いの家【2】

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現地撮影日:2015/8/22
記事公開日:2015/9/2
時系列としては「常盤公園・憩いの家再生ワークショップ」の流れとなる。しかしワークショップとは別に内部の様子を見たい需要があるだろうから個別の独立記事を作成した。
憩いの家内部の写真は、4年前に訪れて偶然雨戸が開いていて中が見えていたとき撮った「憩いの家【1】」しか手元になかった。その当時で大黒柱には補強ポストが設置されていた。今回のワークショップでは改修・再生方法についての議論だけでなく現地視察が含まれていて私にとって一つの参加モチベーションとなっていた。今後改修されるなら今ある姿を画像として記録しておく必要があるからだ。

以下、ワークショップにおける視察で内部を撮影した画像を載せる。和室部分は点灯されていたが厨房は明かりが点いていなかったため画像が暗く見づらいかも知れない。また、狭い憩いの家周辺に多くの視察者が集い、参加者が写り込まないよう配慮したためカメラを向けられる場所で適宜撮影し、後から画像の順序を入れ替えている。

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常盤公園の担当者が玄関の鍵を解いた。
視察者の誰も遠慮してすぐには入らなかったので、自分が一番乗りに玄関へ入って撮影開始している。
玄関へ入る直前の写真は逆光で酷い写り具合だったので省略している

玄関を入って左が和室、正面は板戸を隔てて厨房という構成である。
なぜかママチャリが一台玄関の土間に置かれていた。


和室部分は視察者が見やすいように電灯が点けられていた。
入口のカレンダーは今月のもので新しい。今も定期的に担当者が訪れているようだ。カレンダーのマル印は雨戸を開けて風を通した日の記録だろうか。


中央の大黒柱を鋼製ポストが支えているのは以前と変わりがない。ただ、4年も経っているだけに周囲の畳で湿気を受けて黒ずんでいるものがあった。


実のところ玄関を入ってまず初めに目が行ったのがこの厨房だ。
開いた戸からレンガの竈らしきものが見えていたからだ。


この場所は前回開いていた雨戸の隙間からも見えず、目にするのは初めてだった。

厨房と言うよりは昔ながらの炊事場と言った方が適切だろうか。
床は玄関と同じコンクリートの土間である。当然、裸足ではなく土足履きで作業することになる。


思えば幼少期よく遊びに行っていた親戚の家がこのような造りだった。当時は農家が一般的で、農作業のときは地下足袋を履く。いちいち履き替えることなく台所で調理や食事ができるように、土間が家の中までずっと続いていた。この通路は玄関から裏口まで続いていて、土足のまま家の中を通り抜けることができていた。食事するところも靴を脱いで上がる現在の居間と同等のものの他に、土間の一角に簡単な椅子と台を置いて土足のまま食事できる場所があった。炊事場は土間通路により居間とは隔てられていたので、家に居てもコップに水を汲むにもいちいち下駄を履かなければならなかった。
面倒なので近くに誰も居なければしばしば裸足で土間に降りていた

このレンガ製の竈は憩いの家当初からのものだろうか。それにしてはレンガが新しい感じがする。
実際に薪をくべることもあったらしく、焚き口の上部がすすけていた。


今風にシンクとは言わないし流し台とも言えない。コンクリート製の炊事場である。
蛇口はその外見からしてトイレ等を追加設置したときと同じ時期だろうか。


懐かしく味のある洗い場だが、さて憩いの家をリフォームしたとき今のままの台所では使い出がちょっと…という視察者の意見があった。銀色にピカピカ光るステンレス製シンクが当たり前だから、水の流れるところに苔まで生えたコンクリート製の炊事場ではさすがに受け入れ難いだろう。コップを落とせばまず割れてしまう。

壊して新しく作り替えるか今あるまま使うかは、今後憩いの家をどのように活用するか次第だ。昭和初期の暮らしぶり再現を優先し多少の不便や障壁(バリア)に目をつむるなら現状のままがいい。しかし多くの人に活用される憩いの家を望むなら、ある程度の近代化路線への変更は仕方ないと思う。現状とて厨房の隅には冷蔵庫が置かれていた。近代文明を完全否定しての快適な暮らしは難しい。

厨房から真上を見上げている。ひょろーんとぶら下がる電球が何とも言えない。
茅葺き屋根の裏側には一部に穴が空いて光が差し込んでいる。


屋根に穴が空いて直接空が見えることは外から見ても分からないが、ワークショップの開会時に担当者から屋根の穴の説明があった。雨が容赦なく降り込むので中央付近の畳が濡れないよう剥がしてある。

厨房側から和室を撮影。
ここに囲炉裏がある。鍋などを吊す部分も健在だ。


憩いの家が健全だった時期から既に使われていなかったと思われる。[1]
これはいくら何でもそのまま受け継がなければいけないだろう。


和室は4部屋あり、4畳半2間と6畳2間が田の字型に配列されている。
奥の部屋に入るには濡縁の廊下を通れるが、玄関からトイレは途中の部屋を通らないと到達できない。


厨房側から覗き込んだ和室の様子を動画で撮影した。

[再生時間: 25秒]


厨房から和室への段差は80cm程度ある。
段差を和らげるために柱状の木材が置かれていた。


この造りも昔の親戚の家で見慣れていた。土間と上がり口の間に木箱などを置いて階段替わりにしていた。現在でも通気性を保つために床は地面から一定の高さに造る。それにしても現在の半分以下の高さだろう。

段差のある横に並べられた板が一部破損していたので、その隙間からカメラを押し込み床下をフラッシュ撮影してみた。
真砂土系のそのまんまの地面にところどころ柱を立てて補強されていた。


ワークショップ視察の一環でありあまり一ヶ所に時間をかけて撮影はできなかったので、素直に玄関まで戻った。

玄関の土間上部の壁は漆喰だ。周辺の木材の古さに比べて壁面は今も充分に白い。


天井は茅を水平に並べる形で葺かれていた。
この部分もそれほど傷んでいる様子はない。


濡縁側の和室。
床の間に掛け軸があり、横の押し入れには座布団などの備品が収納されたままになっている。
日干ししなければカビが生えてしまうのでは…


玄関から和室へ上がる場所。いわゆる上がり框(かまち)である。
玄関土間と部屋の畳と中間の高さに造られ階段の一部のようになっている。


玄関の外で履き物を脱ぐ施設でもない限り、この構造は現在でも民家に限らず殆ど何処の建物にもみられる。土間と和室を同一レベルにすれば車椅子でも通れるバリアフリーになるが、風が吹けば土間の埃が室内に舞い込んでしまう。したがって現代では跨ぎ越すのが苦痛にならない程度の段差で造るのが通例である。

昔の家にみられるこのような上がり框は、部屋への出入りを楽にするステップ代わりになると共に、簡易な雑談場の役割も果たした。友達が遊びに来たとき、出かける支度ができるまで靴を履いたままここに腰掛けて待ってもらった。あるいは保険屋のおばちゃんが集金に来たとき、ここに座ってもらってちょっと雑談…なんてのは何処の家でも見られる風景だった。

敷居に使われている木材がもの凄く分厚い。縦に配置して柱代わりにできる程の部材だ。
今ならこの半割りの部材で間に合うだろう…と言うか現状は敷居のある家自体が少なくなっている。


敷居は門柱と同様、お父さんの頭のようなものだから決して踏んではいけないと厳しく教えられたのが昭和の学童だ。子どもに分かりやすく話しているだけであって、もちろんいけない正当な理由があった。[2]思えば和室を歩くときも畳の端を踏んではいけない…してはいけない事の多い時代ではあった。

退出する前に玄関の敷居部分を撮影した。
バリアフリーが当たり前な現在ではあり得ないような段差のある敷居だ。


扉にころを取り付け左右に動かす玄関扉は現在もまだかなり残っている。レールの上を転がすのは同様でも現在ではこのような段差をつけず、レール部分を床面より削って平坦にするのが普通だ。

ここまで昔の家の造りを見てくると改修にあたっての困難な課題が浮かび上がってくる。
昔の家の造り保存と現代のバリアフリーは相反する要素を持つ。
即ち昔の家は現代を生きる私たちにとっては日常的に住まうには使いづらく不便であり、どうにかすると危険な要素もある。歳を取ると誰も筋力が落ち足を上げる能力が衰えるなら、僅かな段差があっても躓きやすくなる。特に運動能力が衰えながらも寿命を伸ばしてきた現代の高齢者には困難な環境だ。

玄関の段差程度は細かな部分なので、安全優先でこの部分を削り段差解消の方向で改修することができる。他方、囲炉裏のように同じく昔の構造でありながらその存在が不便や危険をもたらさないものならば、手を加えずそのまま継承する方が良いだろう。何もかもすべて昔のままに残せば原型は保たれるが使うに不便だし、何もかも今風に改造すればもはや憩いの家ではないという意見も出るだろう。
両者は相容れない要素なので、折衷策を元に改修されることになるだろう。その場合もやむを得ず喪われることになる部分が必ずある筈で、仮にそうなったとき後悔しなくて済むように今ある姿を撮影し記録しておこうという意図もある視察なのだった。
出典および編集追記:

1. 防火上の問題からである。

2. 敷居を経常的に踏み付けられれば立て付けが狂って襖や障子の開け閉てに支障を来すだろう。この点で鴨居にぶら下がるなどはもっと悪いことなのだが、不思議にこの行為を諫める喩え話はされなかった。
実際鴨居で懸垂ごっこしたために襖の開け閉てが難しくなった

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