地元の方に教えを請い、辿り着くことのできたサヤノ峠。
そこからは東岐波の丘陵部を見渡せる眺めがあったものの、人々が行き交う古道の時代と同じだったとは必ずしも言い切れなかった。
峠は真砂土採取によって片側の山を失い、崖の上部に貼り付くことで辛うじて昔の姿をとどめていたのだった。
更に言えば、今やこの先にある状況を知っているだけに自転車隊が東岐波の門前側から古道を辿ったのは僥倖だった。
あらかじめ地図で推測はついたものの、その先は真砂土採取で峠の眺めが変貌していた以上にがっかりさせられる結末になっていたからだ。もし阿知須側から辿っていたら古道の入口を見つけることすら困難だったかも知れない。
では、現地の今の状況を受け入れにかかろう。
峠を過ぎて更に進むと、ほどなくして急激な下りになった。自転車を保持して歩かなければ坂の下まで引っ張られそうだ。
そして…
坂を下った先の様子が変だ。右側にネットフェンスが見えるし、下の方にはアスファルトの路面も…
ネットフェンスで囲まれた場所を過ぎた先に見えた景色は唖然とさせられるものだった。
か、階段かよっ!!?
古めかしい山道はぷっつり切れ、幅1mくらいのコンクリート階段に変わっていた。かなり下の方には住宅の屋根も見えている。
先が読めた気がした。
自転車を連れて行く意義を感じないので、階段に入る前で停め、単身歩いて偵察することにした。階段を下った先は車が乗り入れられるアスファルト路で、そこから更に家並み一軒分くらい低い場所に住宅地が広がっていた。
アスファルト路は迂回して下へ降りてきているものの、歩行者向けにはここでまたしても階段…後で登り直すのがしんどいなーと、途端に現実的な気持ちになってしまった。
踊り場部分で振り返って撮影。
この場所までは車で上がれるようになっていた。先のネットフェンスで囲まれた設備の機材搬入用だろうか。
アスファルト路は車が登ってこれる程度の勾配で遠回りしていた。 それにしても…
分断された古道は一体何処に…?
およそ行商人が行き交う主要な道であるなら、現在はコンクリート階段になっていることを差し引いても、峠を越えた先がこんな急坂になっているとは思えない。
想像されるのは、ここの宅地造成に合わせて古道と一緒に山が削られたのでは…というシナリオである。
約10年ほどの遅延がある Yahoo!地図の航空映像 を見ると、既に団地は大方完成し、奥の区画を除いて家屋も建っている。
この時期は峠付近の真砂土採取が継続しているようなので、古道の分断も真砂土採取が始まったのと概ね同じ頃と想像される。真砂土の採取が終わって出来た平場を新興住宅地として整備したのかも知れない。
元はどんな古道だったのか、今や知る由もないのだろうか…
毎度の強力な武器、国土画像情報閲覧システムの力を借りてタイムスリップすることができる。
これは、昭和49年度に撮影されたサヤノ峠付近の航空映像である。
「国土画像情報閲覧システム - サヤノ峠付近(昭和49年度版)」
(http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C19&IDX=29)
(別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される)
峠を過ぎて阿知須町側の古道の線形が鮮明に観察できる。(http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-12&PCN=C19&IDX=29)
(別ウィンドウで開いたページ右上にある400dpiのリンクをクリックすると高解像度の画像が表示される)
現在は電波塔を避けるように若干進路を左に変え、そこから階段になっているもののかつては峠から先もまっすぐ山裾を辿っていたらしい。航空映像では高低差はハッキリしないが、直線路なので遠くから長い登り坂になっていたのではないかと思われる。
階段の踊り場部分で撮影した一コマに古道の想像図を書き込んでみた。
宅盤整備が始まる以前は、古道はさほど高度を下げず、現在ある家の屋根あたりの高さを通っていたのだろうか。
登り直しの労力を気にしつつも住宅地の原地盤まで降りてきた。
ここに区画別の一覧が立っていた。”日の山団地”という新興住宅地らしい。
この辺りは宇部市と山口市(旧阿知須町)との境界付近になる。地図で確認しておこう。
この辺りはどういう訳か市境が最高地点ではなく日ノ山の北側山裾を通っている。
(したがって日ノ山もサヤノ峠も完全に宇部市に属している)
そして”日の山団地”自体はほぼ全体が阿知須側に所属することになっている。
近辺にお住まいの方々には申し訳ないが、特段の馴染みもない住宅地を歩き回っても仕方がない…
現実世界なら日々充分過ぎるほど味わっているので、足早に来た道を引き返すことに。
コンクリート階段は、古道の下り坂手前で左側へ折れていた。集合アンテナの管理道として整備されたようだ。
待機させていた自転車を取り戻し、来た古道を押し歩く。
昭和49年度版の航空映像によれば、峠付近の土取り作業もまだ始まっておらず、県道側に山が見えている。この映像から推測するなら、当時は県道あたりまでの眺めは現在ほどには利かなかったはずだ。
上の地図では(この記事に添付した現時点では)峠付近に四角い建て屋が存在しているように描かれている。しかし現在では峠付近から斜面に飛び出した鋳鉄管が残っているだけである。
前編ではこれを「土取り場に給水するための設備」と推測したが、後から思うに中継配水池の跡ではないかと考え直している。
ここが土取り場なら、あれほど太い口径の鋳鉄管で上水を供給する必要はないだろう。高台になるこの場所まで揚水し、各家庭に配水していたのではないかと思う。
また、当時は既に溜め池の縁を縫う形で国道190号の旧道が通っているが、メインの古道がこのルートを選ばなかったのは高度を犠牲にしてでも遠回りを避けたかったからか、あるいは旧国道が出来るまで全く道がなかったからだろう。
元から峠が少ない地勢的事情があるところに、更にマイナーで知っている市民の方がまず少数派なサヤノ峠。
私がこの名を見つけたのは、市道の路線名、そして以前図書館から借りて偶然見つけることができた”ふるさとの道”なる書物なのだった。
市道名では”サヤノ峠”とカタカナ表記され、”ふるさとの道”では”日の山峠(サヤの峠)”と書かれていおり、私の知る限り漢字表記は見当たらない。
少しばかり地名考を進めてみると、基幹となる地名および峠名は「サヤ」だと思われる。地名に含まれる「の(ノ)」や「ガ(ヶ)」は、大抵の場合「〜がある」「〜に関わる」という意味の修辞だからだ。
(岡ノ坂、小路ヶ池、他ならぬ日ノ山もそうである)
山間部には、サヤ、あるいはサイ(サエ)などと名付けられる地名が県内にも多く見受けられる。船木には市道戈ヶ峠(さいがたお)線という路線があるし、ちょっと遠くでは阿武町の奈古と木与の間には才ヶ峠という小さな峠がある。
後年では、ところによって”狭谷”とか”小夜”など似た読みの適当な漢字を宛がわれるので、地名考では往々にして漢字表記が当てにならない。しかし「サイ」という音に着目すれば、塞の神に由来するのではないかと連想される。
「Wikipedia - 塞の神」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9E%E3%81%AE%E7%A5%9E)
峠は昔から村落の境界とされてきて、悪霊はそこから入ってくると考えられていた。そのため峠にはしばしば悪霊が侵入しないように”塞ぐ”意味で道祖神や庚申塚を造った。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9E%E3%81%AE%E7%A5%9E)
(千林尼の石畳道の一部となっている市道切塞線も同様の流れ)
かつてはサヤノ峠が集落の境で、その名の通り悪霊の侵入を阻止する石塚などがあったのかも知れない。しかし今回私が峠近辺を調べた限り、そのような石碑などは見つからなかった。
最高地点の片側を削られ、道中の最後は住宅地に分断されてしまったサヤノ峠への古道。
時代と開発に翻弄されながら、峠は今も確かに存在していた。
昔からあった姿からは変貌させられてしまったものの、歩き通した限りではよく普請され、今も地元の方々の通行に供される道だった。
そのことから、サヤノ峠が道としても人々の記憶からも消失することは考えられず、これから先もそこに在り続けてくれることと思う。
今、ここへしかと記事を遺した。
返す返すも、情報提供くださった地元の方々へ…ありがとうございます。(想像を巡らせて記述している部分もあるので誤りがありましたらご容赦下さい)
完
---さて、サヤノ峠を極める踏査はこれにて終了だ。
読後感を大切にしたい方はこのまま THE END になさることをお勧めする。
しかし…
ごく一部だが「あれはどうなったの?」ってのが気になる読者があるかも知れない。
その部分について一応、帰るときに検証だけはしておいたので続編として案内しておく。
ただし…ちょっと薄気味悪い映像も含まれるのでその点は早めに案内しておこう^^;
(「サヤノ峠【5】」へ続く)