古原田上池【3】

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(「古原田上池【2】」の続き)

謎のコンクリート塊を撮影してから数時間後のこと…
東岐波地区を丹念に走り回り数多くのネタを採取してきた。思ったよりもアップダウンの多い地域で、自転車で丘を登りまた下り…を繰り返してかなりくたびれていた。特に後半戦の西蓮寺坂いずれ記事化を予定している)の踏査では道中殆ど自転車押し歩きがきつく、もう何処にも寄らずアジトへ直帰する積もりだった。

古原田上池の堰堤に向かう道の入口である。
東岐波方面を向いて撮影していることからも分かるように、実は一旦通り過ぎていた。


堰堤からの写真なら初回訪問時に撮っているし、部分的に拡大すれば例の遺構も写り込んでいることは確認できる。もういいかなと思い通り過ぎかけた。しかし何も意図せずカメラを向けて写っていたのと、意識してカメラを構えるのとでは違うだろう。ズームすることでどれほど鮮明に撮れるものかを知りたくもあった。それほど距離はないから行ってみることに。

国道から入ってすぐ直角の左カーブになる。
カーブミラーには「宇部市」のステッカーが貼られているがこの道は認定市道ではない。[1]


このカーブの内側に大津出地区による案内図が立っている。
フランダという読みを知る元となった最初の情報源だった。


ここからは自転車に跨っているだけで堰堤まで転がって行ける。


それほど間をおかず2度目の訪問になる。
ここから堰堤を眺める方向が真西になる。今回も天気が良いのでかなりまぶしい。


今回は自転車に乗ったまま堰堤中央付近まで進んだ。
堰堤下の集会所には数人が集まって雑談している。ただっ広い堰堤上はかなり目立つ場所だ。

西向きになったら逆光で巧く写らないかもと思っていたが、例の遺構がみられる入り江は幾分東側に振れており問題にはならなかった。


肉眼でも例のコンクリートの遺構は視認できた。堰堤側に近い方のコンクリート塊に向けてズーム撮影する。


飛び込み台キューブが乗っているのが分かる程度に撮影できた。
小さな入り江の内側なので完全には見えない。


訪問前からこの奇妙なものは航空映像で確認していたし現地でも視認できた。ただしコンクリート製とまでは見抜けなかった。池の上に遺された筏か何かだろうと思っていたのである。

岸辺に近い側のコンクリート塊も確認できた。
電信柱を横にして造られた奇妙な護岸の構造がよく分かる。何処からも降りられる場所がないことが理解されるだろう。


この撮影のみが目的だったので話は早い。ターゲットをカメラに収めた後はそのまま堰堤上を引き返した。

堰堤の端は内側にややカーブしており、岸辺に沿って山道があるらしいことは初回訪問時から分かっていた。
フェンスの向こうに犬を連れて散歩する人の姿が写っている


その山道の存在もちょっと気になった。もしかすると岸辺沿いを歩けるかも知れない。そうなればまず不可能と考えていたもう一対のコンクリート塊の方も接近できるのでは…と思われたのである。

堰堤のカーブの端にフェンス門扉があった。初回訪問時は逆光がきつくて撮影を断念した場所だ。
汀へ降りる階段はあるが樋門は見当たらなかった。


この撮影を行うとき、犬を連れて散歩する人がすぐ近くにいらした。不意にワンちゃんが自転車に乗った私にまとわりつこうとしたのでその方は済みませんと会釈された。
後から思えば、このとき古原田上池の名前の件とあのコンクリート塊について尋ねてみればよかった。結構年配の方だし犬を連れていたということは地元住民だ。情報を持っていらっしゃると思う。堰堤から撮影している時から犬を連れて歩いている姿は見えていた。しかしある事情から何となく話しかけづらかったのも確かだ。[2]

堰堤の端からシングルトラックの山道が見えていた。
そこへ入りかけたとき…フェンスの端に溜め池にまつわる石碑が見つかった。


見た目の古さからすぐ古原田上池のものだと思った。
近づいて撮影する。あいにくちょうど逆光方向で文字が読み取れるほどに写せたかどうかは現地では分からなかった。


一語一句読み取れるほど丁寧には撮っていない。ざっと読むに、古原田溜池の堤防から漏水して困っていたとき、ある人物が資金を投じて根本的な修理を行って以後は漏水がなくなった…のようなことが刻まれていた。

逆光を避けて反対側から撮影。
年号が刻まれている。


大正三年四月となっていて、その横には溜池世話人3名が列挙されていた。
漏水を修理した記念碑の年号が大正初期なので、溜池自体は江戸期からあったのだろう。


さて、その横からこんな山道が伸びていた。
踏み跡が明瞭なので結構通る人があるのだろう。何処かに出られそうだ。


それで自転車を押し歩きしつつあのコンクリート塊の方へ向かう道がないか調べた。
写真には撮っていないが、やや草木が疎らな平地があってその方にも枝道が見えていた。しかし近年人が通った形跡がなかったし、先の方は原始林状態で水面が見える位置まで接近は無理と思ったので進攻はしなかった。季節を選べば巧くいくかも知れない。

細い山道は民家の裏手を通って国道まで伸びていた。


敢えて地図は示さないが出てくるのは国道のこの場所である。


この進入路の途中に関連性があるかどうか分からない祠があった。
コンクリートブロック製なので最近改修したらしい。道自体は案外昔から通られている道なのだろう。
何の石仏だったかは調べなかった。
立ち止まり覗き込んでカメラを構えるのも大儀になるほどくたびれていたのである


これが最後に撮影した写真だった。時刻はもう午後5時近かったし、往路がかなりの追い風だったのが心理的負担であった。実際、帰りは市街地近くへ戻るまでの間一貫して向かい風だった。

現地の写真と踏査は以上である。客観的データは充分とは言えないまでも3編にわたって収録した。現地の見聞とこれらの写真を元にあのコンクリート塊の正体を推理してみたい。

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複数の読者から寄せられた情報では、小中学校のプールの「飛び込み台部分のような」という表現が目立った。現地の聞き取りでも人づてにそのようなことを教えてもらったという人の存在があった。そして自分自身の目で確認して最初に思い浮かんだのは、やはりプールの短辺側にある飛び込み台の部分だった。

池の中にプールを造ることがあるものだろうかという疑問は当然ある。現在は古原田上池は遊泳どころか周囲を有刺鉄線付きネットフェンスで囲まれ立入禁止になっている。農業用溜め池での溺死事故は近年極めて多く、危険な溜め池は全国的に対処される方向にある。しかし昭和初期から中期にかけては溜め池を含めて水のある場所は子どもたちの格好の遊び場だった。
新規にプールを造るとなると場所と水の確保が要る。水質が良く深さも手頃な溜め池が近くにあれば、コンクリートで外枠を造るだけですぐ使うことができる。
1970年代の航空映像にもこの遺構が確認できる。今はどう見ても使われていない廃物であるが、少なくとも50年近く前からあの場所で池の水に浸っていたのは確かなのだ。

もう一つ、遊泳用のプールであることを補強しそうなデータがある。競技用などのプールと言えば縦方向が50mのものを想像するだろう。

以下の上載せ情報つき航空映像をご覧頂きたい。
これは2つのコンクリート構造物の2点間距離を測定したものである。
上載せ情報が巧く表示されない場合はこのリンクをクリックしてみてください


2つの飛び込み台と思しき構造物はほぼぴったり50m離れているのである。飛び込み部分が3ヶ所しかないのは如何にも小規模だが、小中学校の遊泳指導用ではなく一個人やグループが遊泳訓練のために2つの飛び込み部分を50m離して池の中に設置したと考えれば納得がいく。

しかし現地で観察したときから遊泳用プールではない何か別の物の可能性も一応は考えていた。プールと断定するには些か疑問な点もあった。
(1) どうしてプールの側面部分が存在しないのか?
(2) 飛び込み台までどうやって移動していたのか?
(3) 灌漑用溜め池の中に遊泳施設を造るのが認められていただろうか?
(1) と (2) は通常のプールの形状を想像すればすぐ思い付く。普通は外枠となる部分が存在するし、底面やプールサイドに相当する部分も造られている。側面部分がないなら、プールとは言っても溜め池の水位に連動する。渇水期には泳げなくなる可能性もあっただろう。飛び込み台まで濡れずに歩いていくことができないから、まず池に入り、飛び込み台へ向かって泳いでそこへ登る…という動作が必要になる。
単純に50mという目安の距離を泳いで往復することだけを目的とした設備なら飛び込み台部分だけで足りる。他方、そのためだけにわざわざコンクリートでこのようなものを造るだろうかという気もする。

まして (3) のように、そのような灌漑用溜め池本来の目的とは違う構造物を池の中に造ることが認められていたのだろうかと思う。昭和初期のことで学校にプールを設置するのが困難な時期は特例があったのだろうか。しかしたった3コースしかないから小中学校などで遊泳指導目的と考えるには小さすぎる…いや、小中学校であればそもそも25mプールを造るだろう。

しかしプール以外の何か他のものと言っても思い付くものは少ない。何かを池の中に建築する途中で頓挫したか、あるいは逆に既に何か建屋が造られていた上部構造を壊して基礎部分だけが遺ったとか…いずれもかなり決め手を欠き、むしろプールの飛び込み台説の方が説得力がある。

初めて古原田上池を訪れようとしたとき、進入路のすぐ横に消防出張所があったのを思い出した。写真を撮っているときにスピーカーから緊急発進の音響が流れて驚かされたものである。
まったくとりとめもない想像だが、もしこの消防出張所が昔から今の位置にあるとしたら、署員の体力増強ないしは訓練目的で50m計測が容易なプールの飛び込み台だけを造ったのでは…という珍説を思い付いた。まあ、消防の職員に基礎体力が要求されるのは真にしても、遊泳能力までは問われないだろう。他の団体でかつてこの場所で遊泳訓練をしていた経緯ならありそうな気もする。
そうなれば多分、一対のこの飛び込み台だけで側壁もプールの底に相当する部分もないだろう。この場所の深さがどの程度かは分からない。しかし仮に池の水が干上がったとしたら、3ヶ所の飛び込み台キューブを備えた一対のコンクリート壁が現れるだけと思う。

飛び込み台とすれば、今は利用されていないし今後もまず使われることはない。最初にフジの木の隙間から撮影した写真を見ても分かる。細かな浮き草が水面に漂っていて水底も見えないほど淀んでいる。こんな溜め池で泳ぐなんて一体どんな罰ゲームだと言いたくなるほどの水質だ。かつては水草の繁茂も少なく清澄な水だったのだろう。
この物件の正体が明らかになる時は来るのだろうか…


冬場など灌漑用水非需要期には溜め池の水位は下がるものである。そういう時期を狙って再訪すれば、何か関連あるものが水上に現れるかも知れない。
当面は再訪の予定はないが、場合によっては東岐波ふれあいセンターなどに照会してみようかとも思う。必ず答がある筈だし、常盤池の楢原に見つかった遺構群より解決は早いかも知れない。情報が得られ次第追記する。

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記事作成日:2014/6/27
答が得られた。
やはり小学校の飛び込み台だった。
東岐波郷土史研究会に関連情報が掲載されている旨を読者からいただいた。[1]

これはターニング台と呼ばれている遺構で、昭和30年に東岐波中学校水泳部の練習用として造られている。当時の古原田池は清澄な水を湛えていて近所の子どもたちの水遊び場にもなっていたという。
溜め池そのものをプールとして使っていたので、50m離れた場所に設置されたもう片方のターニング台以外に関連する遺構はないようだ。このターニング台は昭和43年に学校へ正規のプールが建設されるまで使われていたそうである。

出典および編集追記:

1. 堰堤接続部までは市耕地課の管理する道となっている。

2. 古原田上池の何処か近くに元の会社職員の家があった。犬を連れていた方はその人に似ているように思えて話しかけるのが躊躇われたのである。
会社を退職した後の現在のことを聞かれそうな気がしたので

3. 2014/6/10のタイムライン(要ログイン)による。「東岐波郷土史研究会 活動誌」に詳細が掲載されている。

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