西蓮寺坂(子を抱かしょうの坂)

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記事作成日:2016/10/5
最終編集日:2018/9/17
西蓮寺(さいれんじ)坂は東岐波の磯地西公会堂より西に入った細い道にある坂である。
写真は西蓮寺坂の中腹からの撮影で、右側に見える空き地は後述する西蓮寺跡。


上記写真の撮影場所をポイントした地図を示す。実際の坂道はこの東側で直線路の端あたりになる。


後述する言い伝えより子抱かしょうの坂とも呼ばれる。[1]坂の途中に西蓮寺の跡地がある。

磯地西公会堂の前を過ぎた後、一旦沢地へ向かって下る。そこより細長い沢地に沿って真っ直ぐ進む。耕作田がなくなった辺りから緩やかに登り坂が始まる。坂の麓から登り詰めた辺りまでは鬱蒼とした雑木林の中を進み、昼間でも薄暗い。

坂自体はそれほどきついものではない。道幅は現在でも狭いが四輪でも通れる。坂の上まではアスファルト舗装されている。ただしそれより先は(2本の認定市道と1本の地区道が伸びているにもかかわらず)四輪で安泰に進攻できる道はない。

坂の途中に西蓮寺跡地への入口があり、そこに子を抱かしょうの坂と書かれた石碑と資料ポストが置かれている。


地理院地図によれば坂部分の延長は400m程度で25m程度の標高を獲得している。坂の頂上は平坦地になっていて道が二またに分かれている。分岐点に古い道標があり、中世の街道であったという標識柱が置かれている。後述するような伝承とも相俟って現在でも充分に異様な雰囲気をもつ坂である。
《 歴史 》
この道は東岐波磯地から王子を経て片倉方面へ向かう主要な古道の一部であった。現在は市道片倉磯地線の一部となっている。しかし後年は殆ど人の往来がなくなり坂の頂上から王子地区へ向かう区間は獣道のようになっている。田の耕作の往来需要などから平成期に入って舗装されたようである。
【 命名の由来 】
西蓮寺坂という地名からの命名よりも一般には「子を抱かしょうの坂」として語られることが多い。これには以下のような伝承に由来する。[1]
西蓮寺というお寺のあった辺りは昼間でも暗い坂道で木々が生い茂り空も見えないほど寂しい場所だった…あるとき旅の男が知り合いの家でつい長話してしまい帰り道では夕暮れにこの坂に差し掛かった…そのとき前から赤子を抱いた一人の女が現れた…女は旅人に語った…

「私は罪を犯した者です…罪を償うために西蓮寺へ参りました…しかしこの子が泣いて困っているのです…私が念仏を唱えるまでの間この子を抱いてくださいませんか…」

男は赤子を受け取ると女は西蓮寺で念仏を唱え始めた…しかし女の念仏は長々しくいつまで経っても終わらなかった…しかも始めのうちは軽かった赤子が抱いている間にまるで石の如く重くなって来るではないか…男は堪えきれなくなり遂に赤子を置いて逃げ出そうとした…すると…後ろの方からさっきの女が「子を抱かしょ、子を抱かしょ…」と言いつつ追いかけて来る…男は恐怖に包まれ必死になってこの坂を駆け上がって逃げたのだった…
この話の知名度はかなり高く、一定年齢より上の東岐波在住民には大抵知られている。類似する話が小串の南向き地蔵尊や二俣瀬にも存在するようで、これは遊びに夢中になって日が暮れる頃になっても家に帰らない子どもを戒めるための説話と考えられている。[2]

伝承では女の霊が出るような寂しい場所とされているが、そのことは2016年現在においても十分に実感として湧いて来そうな場所である。もっとも現代の心霊スポットのような否定的な見方がされている訳では決してなく、伝承そのままの当時の風景を遺す場所として選好する人もいる。[3]
《 Googleストリートビュー 》
磯地西公会堂より西側の道は sv が通行しておらずデータ採取されていない。
2度目に現地を訪れたときの時系列レポート。全2巻。
途中で子抱かしょうの坂と呼ばれる元となった西蓮寺の跡地も訪れている。
派生記事: 西蓮寺坂【1】
出典および編集追記:

1.「ふるさと東岐波」p103 および「東岐波ふれあい散策マップ|東岐波校区ホームページ」など。
上記サイトを含めて一般には「子を抱かしょうの坂」として紹介されることが多い。当サイトで西蓮寺坂を主タイトルとしたのはその名で掲載されている書籍があることと純粋にファイル名選定の問題による。
kowo_dakashou.htmではファイル名が長すぎるので

2.「宇部ふるさと歴史散歩」p.39 による。
学童期、大抵の親から聞かされていたであろう「夕暮れ時まで外をウロウロしているとお化けが出るよ」の部類である。子どもに好ましくない振る舞いをさせないために怖い話へ結びつけるのは当時の教育的常套手段だった。

3.「FBページ|2016/9/25の投稿
《 個人的関わり 》
上記の書籍を元に初めて西蓮寺坂を訪れようとしたときは曲がるべき道の場所を誤って到達できなかった。その後改めて地図で調べ直して自転車で到達している。初回訪問時は王子方面へ抜ける目的もあったため、道標のある場所からそのまま古道を辿っている。道中は酷い荒れ道で自転車の押し歩きも難航した。

2016年9月に本記事向けの2度目の現地撮影を行い、このときは来た道を引き返している。

2017年11月には、今まで採取された画像の多くが不鮮明であったことから再撮影に行っている。この総括記事の画像は新しいものに差し替えている。

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