ゆるきとう

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記事公開日:2015/4/25
ゆるきとうとは厚東区の瓜生野と関口の間にある断崖絶壁が数百メートル続く区間を指す。
写真は後述する崖の横にある管理道上部から見下ろした国道2号の眺め。


ゆるきとうという語は現在一般には殆ど耳にすることがなく、昔からの地元在住民や郷土史関係に携わる人々のみ知るところとなっている。ただしこの場所自体の知名度は高く、市民でも上の写真一枚見せられただけで市内のどの場所か理解できる人は多い。平坦でなだらかな地形の多いと思われている市内において、山と川に挟まれた非常に狭い崖下区間を道路と鉄道が押し込められている特異な場所で、道路交通においては脆弱性を持つ回廊である。
《 概要 》
この場所付近の地理院地図を示す。


地図でも明白なように厚東川の流れはゆるきとう付近で著しく狭められている。両側の山の標高は100m以下だが、道路と鉄道が通る場所の傾斜のきつさは等高線からも理解される。現在の地形は後年の改変が行われているため崖の記号は記載されていないが、国道路面からでも20mを越える崖となっている。
両岸のもっとも狭い場所では、後年の崖が削られた現在でも幅が300m以下であり、国道2号と山陽本線は崖の下へぎゅうぎゅう詰め状態で通されている。この地形は厚東川の悠久の流れを持ってしても削られなかった堅い岩の存在が示唆される。
川幅の狭さを利用して送電線が3条通され、[2]工業用水道もサイフォンと水路橋の形で厚東川を横断している。後述するようにゆるきとうは単純な地形的狭隘区間というだけではなく、交通や電力などのさまざまなライフライン経路が集約された場所とも言える。
ゆるきとうに関する諸々の説明については[1]に詳しい。以下、多くの情報源をその書籍に求めた上で現地の写真と独自の考察を交えて記事化する。

ゆるきとうの全体像を観察するには右岸側では困難で、対岸からでなければよく分からない。
写真は左岸側天附(あまづけ)からの撮影。
この場所からの撮影はいろいろな理由により困難


離れて観察すればそれほど急峻な崖には思えないが、広範囲に山腹を削ってコンクリート吹付けされた状況がよく分かる。一定の高さを超える区間には落石防止網が被せられている。崖の上部に露岩はなく木々の密集した通常の山地となっている。
現在のゆるきとうは昭和30年代に国道2号を拡幅したとき追加して山側を削った姿である。それ以降歩道設置など微細な変更を除いて特に手は加えられていない。昭和40年代建設の山陽新幹線はこの崖の内部を瓜生野トンネルで通じている。
《 歴史 》
【 初期のゆるきとう 】
道路を造るにあたって崖を削りコンクリート吹付けで養生するというのは昭和期に入ってからの技術である。車社会の到来以前は精々岩を砕いて道を造る程度だった。更にそれ以前は外観の地勢より安全な道がなかったのではと想像される。実際その通りで、最初期のゆるきとうは東西の往来が盛んになってきた中世においても安全に人が通れる道ではなかった。

現代の国道2号は古代の山陽街道[3](西国街道)を元に後世整備された道である。基本的にはかつての山陽街道をそのまま拡幅して造られているが、車社会の到来で車両の円滑な通行が求められるようになってからは、既に家並みが定まっていて幅を拡げられなかったり遠回りになる区間は、新規に道を造ったり街道でない小道を拡げて経路変更されている。そしてゆるきとうは街道の発生した時代から存在していたと思われる非公式な道に手を加えて造られた代表的区間である。

かつての山陽街道の道筋を重ね書きしたマップを示す。
判明している区間のみを描いている


即ち山陽街道は薬師堂から一旦厚東川沿いを離れ、小さな尾根を越えていた。どちら側から来ても坂なのだが、特に薬師堂側からの坂には玉木坂という名前が付けられている。尾根を越えていくこの区間はどんだけ道と呼ばれている。「どんだけ」とは「殿だけ」を意味しており、お殿様の通る公道に由来する。ただし当時から既に厚東川沿いのゆるきとうを経由する道は存在していた。

どんだけ道とゆるきとう経由では距離的にはほぼ同じだが、公道であったどんだけ道経由では尾根越えの労力が要った。それでもどんだけ道が公道とされたのは、ゆるきとうはとてもお殿様を安全にお通しできる状況ではない危険な道だったからではないかと推察される。
【 改変の歴史 】
ゆるきとうを含む近辺の道路などの改良についての歴史を示した。

年代改変の概要
明治20年頃 ゆるきとうに平坦な国道が通される。
明治30年頃 山陽鉄道敷設のために断崖部を削る。元の国道部に鉄道を通し新しい国道を山側へ移した。
昭和22年 宇部興産(株)特別高圧線(窒素線)をゆるきとう上部の両岸に通す。
昭和30年頃 国道を対面交通仕様とするため更に断崖部を削る。このとき鉄道よりも若干高く築造した。
昭和40年代後半 ゆるきとうの上部断崖内部に瓜生野トンネルを掘削。

明治20年代の最初の道路築造は地元在住民は元より東西を往来する人々には大きな利便をもって迎え入れられた。この経路の確保を機に厚東の町並みと木田新町の間に客馬車を往復させる営業を開始した人があるという。[1]

現在の山陽本線が通されたのは明治30年頃のことである。元から上り坂に弱い鉄道であるが故に厚東川沿いを通す経路で検討されたようである。現在の国道2号とは異なり山陽本線の仕様は誕生当初から変わっていない。どれほどの難易度を持つ工事だったかは不明だが、棚井の五田ヶ瀬でも同様に山地が迫っている場所があり、相応な道具と人海戦術で克服したのだろう。[1]によれば国道の路面を少し高くしたとあるので、初代のゆるきとうにあった往来路は現在の国道2号より低い位置の急斜面を縫うように通っていたと推察される。なお、鉄道敷の厚東川に面する部分は東側が一部張り出し桟橋、中央部付近は練積ブロックとなっている。このブロック積みは昭和中期以降の補強である。

山陽新幹線がゆるきとう上部を通されたのが今のところ最後の改変である。高架橋を連ねて鉄道を敷く技術も確立された昭和中後期なので鉄道でありながら現在の国道よりもずっと経路上の選択肢は広い。それにもかかわらずゆるきとう上部を掠める形のトンネルとして通されたのは、トンネル長を切り詰めるため、既存の山陽本線に近接して造ることで新規用地買収費用を抑えたため、田の小野側にある東方へ伸びる沢地へ繋げて切盛土量を減らすためなどの理由が考えられる。
《 現在の状況 》
【 現在の国道2号におけるゆるきとう 】
現地撮影日:2015/4/22
本記事は国道2号関連として作成しているので、崖下を通る国道からの写真を元に現地解説する。

ゆるきとうの中ほどから東を向いて撮影。
殆ど垂直に近い崖はコンクリート吹付けされ落石防止の金網が張られている。山陽本線は国道より一段低い位置を通されている。[2011/1/9]


複線化された鉄道、対面交通の車道と歩道を含めて少なくとも20m近く崖を後退させ水平部分を確保している。山陽街道のような中核的な道でも幅は1間から1間半であったことを思えば、中世の人が目にすれば過剰設計だと唱えるだろう。しかし現代の交通需要からすれば、道路部分に関しては現状は後述するようになお貧弱で低規格な道である。

東の端から撮影。
国道は今以上に拡げようがなく、正面衝突防止のためにセンターラインにポストコーンが植えられている。この設置は近年のことである。


元々が崖なので上部へ登る場所は存在しなかったのだが、瓜生野側の端に後年造った管理道のスロープがある。


明示はされていないがこのスロープは中国電力の鉄塔メンテナンス用の管理道であろう。
コンクリート吹付けに覆われた金網に鉄塔を案内するタグが設置されている


この管理道は立入禁止にはなっていないがスロープに転落防止柵はいっさい設置されておらず、この先への進攻は完全な自己責任となる。

危険管理道からの転落は即座に生命に関わります。決して不用意に進攻なさらないで下さい。

崖部分はすべてコンクリート吹付け処理されていて露岩部分はない。
崖上部からの転石が予想される場所には全面にわたって金網が被せられている。


スロープ最上部から振り返っての撮影。


最上部から国道2号を撮影。
管理道はここで山側へ曲がり、小さな沢地を遡行している。沢の湧水を処理する桝が設置されている。冒頭の写真はこの場所から撮影している。


管理道の最上部から真下を撮影。
歩道面までの高低差は10mを超える。ここからの転落は良くて重傷、悪くすれば死に繋がる。


なお、この管理道を経て瓜生野トンネルの東側坑口にも接近できる。繰り返すが進攻なさる場合はくれぐれも自己責任をお願いしたい。
もし転落事故などが起きれば確実に立入禁止の門扉が設置されるだろう
【 ゆるきとうの対岸 】
ゆるきとうを含めてこの近辺の厚東川左岸側には文字通り未開の地である。厚東川水路橋によって左岸へ渡った工業用水道は隧道により持世寺方面へ向かっている。途中に点検口が複数箇所あるもののメンテナンスで訪れられることも殆どないらしく、非常に傾斜のきつい斜面にかすかな踏み跡が遺るのみとなっている。

写真は厚東川水路橋の左岸接続部先、下天附付近の様子である。
上流側を向いて撮影している。[2013/12/10]


この付近は霜降山の北側斜面にあたり日照が少ないため藪化しておらず踏み跡の原形は保たれている。持世寺寄りの地には田畑の痕跡がみられる。足下は落ち葉が堆積して極めて滑りやすく足を踏み外せばそのまま10m程度ある斜面を川面まで転落する。かつてのゆるきとうもこのような危険な道だったのではないだろうか。
【 付随する物件 】
ゆるきとうの西寄りに厚東川水路橋へ対峙する形で厚東水橋がある。


これは厚東川ダムの水を送る工業用水施設で、山中を隧道で通してこの場所に現れ、国道と鉄道に支障しないよう逆サイフォンの原理で一旦厚東川の河床まで落とし、厚東川水路橋に引き上げている。老朽化のため更新が予定されているが、現時点では改修を重ねた上で現役使用されている。
いずれ当サイトでも総括記事を作成する。当面は以下の外部ブログを参照。
当サイトの総括記事が作成され次第リンク先を変更する
外部ブログ記事: 厚東川1期工業用水道・厚東水橋
厚東川水路橋は厚東水橋より道路・鉄道を挟んだ厚東川河床部にあるが、接近する道はまったく存在しない。

厚東水橋の更に数十メートル西側がゆるきとうの西端であり、小さな沢地になっている。


この沢地は7〜8年程度前まで接近もままならない藪状態だったが、土砂が流れるため流路をコンクリート張りにしたとき管理道も整備された。この沢地を遡行した先に山陽新幹線の瓜生野トンネルの西側坑口がある。
西側坑口接近の方が相対的に安全なので撮影時はこちら側からの接近をお勧めする
【 ゆるきとうの脆弱性について 】
情報以下の記述には個人的見解が含まれます。

当サイトでは、ゆるきとうは市内の主要な道路交通においてもっとも脆弱な場所と考えている。

既にみたように、この狭い区間に国道2号、山陽本線、山陽新幹線がタイトに集約されている。仮にゆるきとうの盤石と思われる崖部分が地震などの災害で崩落するようなことがあれば、県西部の交通をはじめとするライフラインに甚大な影響を及ぼす。
鉄道に関しては実質的に代替ルートがないためこの部分の崩落で旅客輸送・貨物輸送の双方が失われる。道路交通についても同様で、国道2号は現在も東西の重交通を支えているにもかかわらずゆるきとう経由以外の代替ルートを持たない。また、厚東川部分を含めたゆるきとう付近を横切るライフラインとして厚東川1期工業用水道と中国電力の送電網があげられる。工業用水道はバイパス管計画があるものの、現在も宇部市街にダム水を送る重要な経路である。送電鉄塔もゆるきとうの崖上に2経路が設定されており、宇部市街地への給電において重要な役目を果たしている。

もっとも現在の国道や鉄道は盤石な岩を削る形で造られている。数千年レベルでの厚東川の流れをもってしても削られなかったが故に狭隘な崖となっているのである。ゆるきとうが大きく崩れる程の自然災害があるならば、間違いなく一般的な居住地区そのものも民家が全壊するほどのレベルと考えられる。崖面の形状や湧水量などの変化を監視する必要性はあるものの、とりたててゆるきとうの崖の崩落のみを懸念する心配性は薄い。

むしろ問題視すべきなのは、ゆるきとうを通される国道2号が極めて狭隘な道路規格であること、そしてこの区間が遮断された場合の代替ルートが無い現状である。そのような危機に晒されるのは崖が崩れるという非現実的な問題ではなくいつでも起こり得る。

既に写真で見てきたようにゆるきとうを通る国道2号は狭い対面交通で、センターラインをポストコーンで仕切るだけの交通管理となっている。ポストコーンは接触した場合の車体への損傷を考慮して柔らかな素材で造られているため、居眠り運転などによるセンターはみ出しを阻止する程の能力はない。まして国道2号は貨物輸送の大型トラックが通行車両全体の半数以上を占めており重大事故の発生しやすい区間となっている。幸いゆるきとうは見通しの良い直線区間で今のところ重大事故の発生は聞いていないが、カーブの多い対面交通の吉見峠前後区間では全面車両通行止めとなる重大事故が年に数回発生している。

もしゆるきとうで同様な車両事故が発生すれば、忽ち上下線ともどん詰まりになる。緊急車両が現地へ向かおうにも渋滞待ちの車は路側へ寄っても追い抜き不能な狭さである。応急処置を施した上で渋滞緩和のため片側交互通行を行おうにも注意喚起に設置されたポストコーンが支障するだろう。
同様な狭隘性が問題を引き起こす可能性のある区間は、残念ながら対面交通仕様が殆どのため他にも複数箇所存在する。しかしゆるきとうは特に狭隘区間が長く代替ルートがないため、通行できない時間が長引けば他の路線へ影響が波及する。長距離輸送のトラックなら山口宇部道路・山陽自動車道を乗り継ぐことはできるが、近距離輸送や一般の車両は別に崖崩れでなくともここが通れなければ西へ向かう車は善和交差点まで南下し県道西岐波吉見線経由での迂回を強いられる。北側に至っては東吉部まで十数キロ北上しなければ四輪の通れる道がないため実質的に迂回ルートが存在しない状態である。

国道2号は県内多くの区間で4車線化が完了している中、市内通過区間は未だに殆どが対面交通である。瓜生野交差点に接続される国道490号は部分的に4車線化の改良工事が進められているものの、それより遙かに重要性の高い国道2号では現在なお改良計画は公表されていない。現況の路線を活かしたまま4車線化するか厚狭・埴生バイパスのような別経路を築造することになるが、ゆるきとうでは現在の経路を保ったままの拡幅が不可能なのは明白である。ゆるきとうの北側を隧道で通すバイパス計画は昭和50年代既にあったようだが、公共工事の見直しと無駄な道路造りが批判されてきた時代背景のあおりを受けて見直され立ち消えになっている。現在もこの区間への道路改良計画はまったく耳にしない。

ゆるきとうの東側にある瓜生野交差点では国道2号から宇部市街へ向かう右折車両が多く、右折レーンで待機する車のすぐ脇を大型車両が往来する危険な状況になっていた。平成26年度後半に漸く交差点改良が実施され通りやすくなった。仕様としてはなお対面交通のままだが、国道490号取り付け部前後の右左折レーンが設置され、また道路幅員自体も路側部を拡げたため圧迫感が解放されている。しかし右折レーン長が充分ではなく、右折待機車両が本線を塞ぐために夕刻ラッシュ時にはゆるきとうまで車列が滞留する慢性的渋滞が起きている。
詳細は瓜生野交差点の項目を記述したときには移動する予定

本件への根本的な対処はバイパス築造以外の手段はないのだが、極めて険阻な区間を除いて道路改良の指針としては古い町並みを縦貫していて道路を拡げられず近隣住民に与える影響が大きい場合が優先的に考慮されており、ゆるきとうよりも事故発生率の高い吉見峠ですら今なおバイパス計画すら画策されていないのが現状である。国道2号は市内の東端にあたる今坂峠から西端の逢坂までは2車線対面交通で、場所によっては歩道すら整備されていない。
詳細は吉見峠の項目を記述した折りには移動する予定
《 個人的関わり 》
幼少期から現在においても車で頻繁に通行する区間である。幼少期は盆や正月など善和の親元を訪ねた後、母方の実家がある厚狭へ向かうとき必ず通った。その頃からこの場所の急峻さを感じていた。厚狭へ向かうまでの道中で両側の迫っている場所としては西見峠の堀割があり、国道と川が接近している場所では楠町茶屋を過ぎた第二布目橋付近がある。
この場所の特異性については、両岸の崖の高さが尋常でないこと、その切り立った崖を一気に跨ぐように送電鉄塔が3路線も通っていたことで早くから気づいていた。特に家庭用電線の如く小規模な宇部興産(株)の窒素線がどうしてこんな場所を通っているのか、またどのようにして架線を張ったのか不思議だった。

もっとも目立つのは、一番狭い場所にて川を横断している厚東川水路橋である。幼少期は川の途中から橋が始まっているように見える構造の理由が分からなかった。国道の歩道上にサイフォンの落とし口である厚東水橋があるのを知ったのはずっと後のことである。

大人になって厚狭への訪問をしなくなってから暫くここを通る頻度は下がったが、大学生時代に山口から小野田へ家庭教師に行っていた時期は山陽本線で何度も通っている。当時も窓の外の景色を眺めることはしていたものの未だデジカメのような道具を持たず、列車内からの撮影はしていない。恩田から善和へ引っ越してからは船木、有帆、埴生へ遊びに行く用事で自分で車を運転して国道のこの区間を通るようになった。代替ルートがない関係上現在でも車で月に数回通っている。

厚東駅方面へ向かう国道2号の様子。
車載固定カメラから撮影している。


瓜生野交差点方向へ向かっての撮影。


歩道を自転車ないしは徒歩で接近したのは、テーマ踏査を手がけ始めて厚東川水路橋の写真を撮り始めた時期である。

当サイトの開設以前には厚東川水路橋の記事はブログに掲載していた。その時も狭い区間に厚東川、国道2号、鉄道、新幹線が押し込められた特異性に気づいていた。やがてこの場所についてライフラインが極度に密集していることから脆弱性を考えるようになった。そのことはFBにおいても折に触れて指摘している。

山陽街道がこの場所を避けていることはかなり早い時期に知っていた。辻堂に玉木坂があり、春日地区にはどんだけ道の標柱が立っているのを見つけている。その後、昔から旅人が崖伝いに通れる程度の悪路は存在し、明治期に山陽本線を通し更に国道を通すとき崖を削って拡幅したことを知った。この場所が昔からゆるきとうと呼ばれていることを知ったのは[1]による。
当初、書籍にある「ゆるきとう」は「緩き峠」、即ち玉木坂越えほどの高低差はない川沿いの道を意味する言葉ではないかと想像していた。実際はそうではないらしいことは、明治期の地名を収録した[4]に漢字表記を見つけてからである。この詳細はすぐ後ろの項目で述べる。
《 地名としてのゆるきとうについて 》
冒頭に述べた通り、この近辺は昔からゆるきとうと呼ばれていた。[1]では平かな表記されていたので名称の由来が分からなかった。

[4]において厚東区にある小字や小名を調べていて、吉見村の関口小村に免木戸(ゆるぎどう)という地名が収録されているのを見つけた。これが[1]に指摘された「ゆるきとう」に一致するのはかなり確からしい。ただし手元にある厚東地区の小字絵図には記載がなく、関口小村においてもっとも瓜生野に近い場所の地名として地主平(じぬしびら)が収録されているだけである。人が住んだり田畑を作れるほどの広い場所ではないが、通行が極めて困難だった区間として古くから人の関わりがあり、特定の名が与えられたのだろう。小字絵図にないことからかなり早期に失われた小名ではないか。

一般に地名は読み先行であり、漢字表記に拘泥すべきではない。しかし少なくとも明治期には一般的に記述されていたと思われる「免木戸」という漢字表記からはどうしても関口村・瓜生野村を隔てる関所を想像してしまう。元々はゆるきとうのある川沿いはお殿様をお通しできる安全な道ではなく、旅人が崖伝いに通っていたものである。想像を膨らませれば、この免(ゆる)とは「緩い」ないしは「許された」を意味して当てられたのではと思う。即ち「(出入りの監視が)緩い木戸」に由来があるように想像される。街道に比べて監視の目は緩かった(あるいはまったくなかった)が、その代わりにもし通るなら崖から転落して命を失うリスクを負わなければならない程に険阻な道だったのだろう。このことは瓜生野から関口にかけて祠や御堂が多いこと、地名に関しても辻堂や薬師堂といった形で今に伝わっていることを理由とする。既に見てきたように関口・瓜生野小村の境付近には石仏が存置されているし、関口側には地蔵堂という小字が確認される。[5]

今のところ、市内において同名の小字や小名はもちろん免を「ゆる」と読ませる部分を含む地名の存在すら他には確認されていない。それほどこの場所が昔から特異な場所であったことを物語っているものに思われるのである。
《 近年の変化 》
項目記述日:2019/9/12
・2019年の半ばまでに厚東川水路橋に代わるサイフォン更新工事が終了し工業用水の経路が切り替えられた。9月上旬に厚東郷土史研究会の資料を入手する機会があり、厚東水橋(旧サイフォンの呑口)付近にあった正体不明の石仏は、かつて瓜生野村と吉見村のムラ境にあったユルギ堂と呼ばれる大岩の代わりに据えられたものであることが判明した。[6]資料によればユルギ堂は大岩の名称であるが、地名としてのゆるきとうで地名明細書に収録された免木戸(ゆるぎどう)は、この大岩の名称であるユルギ堂に適当な漢字を当てて小字化したものではないかと推察される。このことより、この総括記事の名称も「ゆるぎどう」の読みが正則であると考えられる。最新版の総括記事を新しいファイル名で作成し、この総括記事はリダイレクトとする予定。
FBメンバーに対する記事公開通知と読者の反応。
外部サイト: FB|2015/4/25のタイムライン
出典および編集追記:

1.「二俣瀬小学校百年史」p.69〜70

2. 送電経路が集中しているのは両岸に対峙する鉄塔のスパンを短くするためであろう。なお、厚東川に対して斜めに横切っている路線は宇部興産(株)所有の特別高圧線(窒素線)で、地理院地図には記載されているものの平成25年に撤去されている。

3. 一般には山陽道と呼ばれることの方が多い。しかしながらこの呼称は現代においては山陽自動車道を指すことが多いので、当サイトでは両者を区別するため中世の街道を指す場合は山陽街道と表記している。

4.「山口県地名明細書」p.139

5. 山陽新幹線の瓜生野トンネル西側坑口にある沢を横切るボックスカルバートには地蔵堂Bbという銘板が確認される。

6.「FBページ|2019/9/9の投稿

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