![]() | この記事は現在改修中です。このタグが掲示されている間は構成が変化します。 |
ゆるきとうとは、現在の国道2号において厚東区の瓜生野と関口の間にある断崖絶壁が数百メートル続く区間を指す。
写真は歩道より東を向いて撮影。
付近の航空映像を示す。
ゆるきとうという語は現在まったく使われない。昔の郷土書籍などにみられる程度で、近隣地区在住者や郷土関連の活動をしている方以外はまず通じない。しかしこの場所自体は国道2号の交通量の多さもあって認知度は相応に高い。
後述するように、最初期のゆるきとうはあまりにも危険で人が往来するのも命懸けな場所だった。国道2号の前身となる西国街道(山陽街道)も公式にはゆるきとうを避けて辻堂から玉木坂を越えて春日に抜けるルートだった。後年の鉄道敷設などで少しずつ山側を削って幅を拡げたものの、現在でも崖側は直高30m以上ある。
国道より5m程度低い位置を山陽本線が通じ、鉄道より更に5m程度低い高さで厚東川が流れている。山陽新幹線は国道より高い崖の中腹部を瓜生野トンネルで通っている。狭い領域に各種インフラが集中しており、不測の事態が起きたとき脆弱な箇所と言える。
《 成因と歴史 》
この急峻な地形は、厚東川この場所で著しく狭められていることに依る。集水域がかなり広い厚東川で、下流域に近いこの場所で両岸が狭まっている。ゆるきとうのすぐ上流では北に向かって流れる善和川が合流する。ゆるきとうの狭隘部分は、両岸に永年の水流でも削れなかった堅い岩の存在が示唆される。狭い川幅で流量が制限されるため、豪雨時にはゆるきとうのすぐ上流側にある瓜生野はしばしば水に浸った。瓜生野という地名の由来の一説である「潤う野」からも推測される。このことは、瓜生野地区住民が厚東川に田の小野橋のような橋を架けるのを忌避する遠因にもなった。
【 初期のゆるきとう 】
最初期のゆるきとうがどのような姿だったか映像の記録はないが、対岸の様子から推測できる。写真はゆるきとうの対岸に伸びる細い里道。
これは持世寺から岸辺沿いに伸びていた道の一部で、現在も急斜面を風化した土が覆っているような状態である。既に一部が崩れ落ちていて持世寺まで抜けることができない。同程度の踏み跡があっても露岩で危険な状態になっていたり、あるいは川面まで転落し流された往来人があったことだろう。
かつての山陽街道の道筋を重ね書きしたマップを示す。
(既存の道路に重ならない区間のみを描いている)

官道がゆるきとうを避けて山側を通っていたのは、狭くて転落の危険があったのが最大の理由だろう。山越えの必要がなくルートも短縮されるゆるきとう経由は川に沿って下るだけであり、瓜生野と関口を結ぶ経路として一般には通行されていた。
この経路の中ほどにかつて巨岩があった。「ユルギ堂」と呼ばれるこの大岩は、かつて瓜生野村と吉見村の境になっていた。この大岩は、初めて安全に通行できる道が整備された明治期に取り除かれた。[1]
現在は厚東川工業用水道の旧サイフォン呑口がある厚東水橋のすぐ横に、小さな石仏が祀られている。
これは先述のユルギ堂の代わりに据えられたものである。現在ある石仏は墓石と同等の外観で昭和九年の年号がみられるので、ゆるきとうで転落などして命を落とした身元不明の旅人を祀ったものかも知れない。この石仏は以前は厚東水橋の西寄りにあったが、サイフォン新設工事エリアにかかるため歩道沿いの東寄りの今の位置に据え直された。(→移設前の写真)2019年の半ばまでに厚東川水路橋に代わるサイフォン更新工事が終了し工業用水の経路が切り替えられている。
【 改変の歴史 】
書籍[1]などの客観資料で、ゆるきとう周辺の変化が判明している分だけ載せている。| 年代 | 改変の概要 |
|---|---|
| 明治20年頃 | ゆるきとうに平坦な国道が通される。 |
| 明治30年頃 | 山陽鉄道敷設のために断崖部を削る。元の国道部に鉄道を通し新しい国道を山側へ移した。 |
| 昭和22年 | 宇部興産(株)特別高圧線(窒素線)をゆるきとう上部の両岸に通す。(平成25年に撤去) |
| 昭和30年頃 | 国道を対面交通仕様とするため更に断崖部を削る。このとき鉄道よりも若干高く築造した。 |
| 昭和40年代後半 | ゆるきとうの断崖上部に山陽新幹線の瓜生野トンネルを掘削。 |
明治20年代の最初の道路築造は、地元在住者は元より東西を往来する人々には大きな利便をもって迎え入れられた。この経路の確保を機に吉見と木田の間に客馬車を往復させる営業を開始した人があるという。[1]
次の変化は、山陽鐵道を通した明治30年頃である。既に存在していた道路部分を線路敷とし、道路部分は少し高くいる。[2] このことから崖側を若干削って道路を移したかも知れない。後に鉄道が複線化されたときも同様にしたと思われる。なお、鉄道敷の厚東川に面する部分は東側が一部張り出し桟橋、中央部付近は練積ブロックとなっている。このブロック積みは昭和中期以降の補強である。
昭和30年代の改変が今のところ崖部分を削った最後の履歴である。落石防止の金網が張られ、全体にコンクリート吹き付けが施されている。
【 ゆるきとうの脆弱性について 】
ゆるきとうは、市内の主要な道路交通においてもっとも脆弱な場所と考えられる。既にみたように、この狭い区間に国道2号、山陽本線、山陽新幹線がタイトに集約されている。仮にゆるきとうの盤石と思われる崖部分が地震などの災害で崩落するようなことがあれば、県西部の交通をはじめとするライフラインに甚大な影響を及ぼす。
鉄道に関しては実質的に代替ルートがないためこの部分の崩落で旅客輸送・貨物輸送の双方が失われる。道路交通についても同様で、国道2号は現在も東西の重交通を支えているにもかかわらずゆるきとう経由以外の代替ルートを持たない。また、厚東川部分を含めたゆるきとう付近を横切るライフラインとして厚東川1期工業用水道と中国電力の送電網があげられる。工業用水道はバイパス管計画があるものの、現在も宇部市街にダム水を送る重要な経路である。送電鉄塔もゆるきとうの崖上に2経路が設定されており、宇部市街地への給電において重要な役目を果たしている。
もっとも現在の国道や鉄道は盤石な岩を削る形で造られている。数千年レベルでの厚東川の流れをもってしても削られなかったが故に狭隘な崖となっているのである。ゆるきとうが大きく崩れる程の自然災害があるならば、間違いなく一般的な居住地区そのものも民家が全壊するほどのレベルと考えられる。崖面の形状や湧水量などの変化を監視する必要性はあるものの、とりたててゆるきとうの崖の崩落のみを懸念する心配性は薄い。
むしろ問題視すべきなのは、ゆるきとうを通される国道2号が極めて狭隘な道路規格であること、そしてこの区間が遮断された場合の代替ルートが無い現状である。そのような危機に晒されるのは崖が崩れるという非現実的な問題ではなくいつでも起こり得る。
既に写真で見てきたようにゆるきとうを通る国道2号は狭い対面交通で、センターラインをポストコーンで仕切るだけの交通管理となっている。ポストコーンは接触した場合の車体への損傷を考慮して柔らかな素材で造られているため、居眠り運転などによるセンターはみ出しを阻止する程の能力はない。まして国道2号は貨物輸送の大型トラックが通行車両全体の半数以上を占めており重大事故の発生しやすい区間となっている。幸いゆるきとうは見通しの良い直線区間で今のところ重大事故の発生は聞いていないが、カーブの多い対面交通の吉見峠前後区間では全面車両通行止めとなる重大事故が年に数回発生している。
もしゆるきとうで同様な車両事故が発生すれば、忽ち上下線ともどん詰まりになる。緊急車両が現地へ向かおうにも渋滞待ちの車は路側へ寄っても追い抜き不能な狭さである。応急処置を施した上で渋滞緩和のため片側交互通行を行おうにも注意喚起に設置されたポストコーンが支障する。
同様な狭隘性が問題を引き起こす可能性のある区間は、残念ながら対面交通仕様が殆どのため他にも複数箇所存在する。しかしゆるきとうは特に狭隘区間が長く代替ルートがないため、通行できない時間が長引けば他の路線へ影響が波及する。長距離輸送のトラックなら山口宇部道路・山陽自動車道を乗り継ぐことはできるが、近距離輸送や一般の車両は別に崖崩れでなくともここが通れなければ西へ向かう車は善和交差点まで南下し県道西岐波吉見線経由での迂回を強いられる。北側に至っては東吉部まで十数キロ北上しなければ四輪の通れる道がないため実質的に迂回ルートが存在しない状態である。
国道2号は県内多くの区間で4車線化が完了している中、市内通過区間は未だに殆どが対面交通である。瓜生野交差点に接続される国道490号は部分的に4車線化の改良工事が進められているものの、それより遙かに重要性の高い国道2号では現在なお改良計画は公表されていない。現況の路線を活かしたまま4車線化するか厚狭・埴生バイパスのような別経路を築造することになるが、ゆるきとうでは現在の経路を保ったままの拡幅が不可能なのは明白である。ゆるきとうの北側を隧道で通すバイパス計画は昭和50年代既にあったようだが、公共工事の見直しと無駄な道路造りが批判されてきた時代背景のあおりを受けて見直され立ち消えになっている。現在もこの区間への道路改良計画はまったく耳にしない。
ゆるきとうの東側にある瓜生野交差点では国道2号から宇部市街へ向かう右折車両が多く、右折レーンで待機する車のすぐ脇を大型車両が往来する危険な状況になっていた。平成26年度後半に漸く交差点改良が実施され通りやすくなった。仕様としてはなお対面交通のままだが、国道490号取り付け部前後の右左折レーンが設置され、また道路幅員自体も路側部を拡げたため圧迫感が解放されている。しかし右折レーン長が充分ではなく、右折待機車両が本線を塞ぐために夕刻ラッシュ時にはゆるきとうまで車列が滞留する慢性的渋滞が起きている。
(詳細は瓜生野交差点の項目を記述したときには移動する予定)
本件への根本的な対処はバイパス築造以外の手段はないのだが、極めて険阻な区間を除いて道路改良の指針としては古い町並みを縦貫していて道路を拡げられず近隣住民に与える影響が大きい場合が優先的に考慮されており、ゆるきとうよりも事故発生率の高い吉見峠ですら今なおバイパス計画すら画策されていないのが現状である。国道2号は市内の東端にあたる今坂峠から西端の逢坂までは2車線対面交通で、場所によっては歩道すら整備されていない。
(詳細は吉見峠の項目を記述した折りには移動する予定)
《 個人的関わり 》
幼少期から現在においても車で頻繁に通行する区間である。幼少期は盆や正月など善和の親元を訪ねた後、母方の実家がある厚狭へ向かうとき必ず通った。その頃からこの場所の急峻さを感じていた。厚狭へ向かうまでの道中で両側の迫っている場所としては西見峠の堀割があり、国道と川が接近している場所では楠町茶屋を過ぎた第二布目橋付近がある。この場所の特異性については、両岸の崖の高さが尋常でないこと、その切り立った崖を一気に跨ぐように送電鉄塔が3路線も通っていたことで早くから気づいていた。特に家庭用電線の如く小規模な宇部興産(株)の窒素線がどうしてこんな場所を通っているのか、またどのようにして架線を張ったのか不思議だった。
もっとも目立つのは、一番狭い場所にて川を横断している厚東川水路橋である。幼少期は川の途中から橋が始まっているように見える構造の理由が分からなかった。国道の歩道上にサイフォンの落とし口である厚東水橋があるのを知ったのはずっと後のことである。
大人になって厚狭への訪問をしなくなってから暫くここを通る頻度は下がったが、大学生時代に山口から小野田へ家庭教師に行っていた時期は山陽本線で何度も通っている。当時も窓の外の景色を眺めることはしていたものの未だデジカメのような道具を持たず、列車内からの撮影はしていない。恩田から善和へ引っ越してからは船木、有帆、埴生へ遊びに行く用事で自分で車を運転して国道のこの区間を通るようになった。代替ルートがない関係上現在でも車で月に数回通っている。
当サイトの開設以前には厚東川水路橋の記事はブログに掲載していた。その時も狭い区間に厚東川、国道2号、鉄道、新幹線が押し込められた特異性に気づいていた。やがてこの場所についてライフラインが極度に密集していることから脆弱性を考えるようになった。そのことはFBにおいても折に触れて指摘している。
《 地名としてのゆるきとうについて 》
冒頭に述べた通り、この近辺は昔からゆるきとうと呼ばれていた。[1]では平かな表記されていたので名称の由来が分からなかった。地名明細書で厚東区にある小字や小名を調べていて、吉見村の関口小村に免木戸(ゆるぎどう)という地名が収録されているのを見つけた。これが[1]に指摘された「ゆるきとう」に一致するのはかなり確からしい。ただし手元にある厚東地区の耕地字図に記載はない。
一般に地名は読み先行であり、漢字表記に拘泥すべきではない。しかし少なくとも明治期には一般的に記述されていたと思われる「免木戸」という漢字表記からはどうしても関口村・瓜生野村を隔てる関所を想像してしまう。元々はゆるきとうのある川沿いはお殿様をお通しできる安全な道ではなく、旅人が崖伝いに通っていたものである。想像を膨らませれば、この免(ゆる)とは「緩い」ないしは「許された」を意味して当てられたのではと思う。即ち「(出入りの監視が)緩い木戸」に由来があるように想像される。街道に比べて監視の目は緩かった(あるいはまったくなかった)が、その代わりにもし通るなら崖から転落して命を失うリスクを負わなければならない程に険阻な道だったのだろう。このことは瓜生野から関口にかけて祠や御堂が多いこと、地名に関しても辻堂や薬師堂といった形で今に伝わっていることを理由とする。既に見てきたように関口・瓜生野小村の境付近には石仏が存置されているし、関口側には地蔵堂という小字が確認される。[5]
《 近年の変化 》
資料によればユルギ堂は大岩の名称であるが、地名としてのゆるきとうで地名明細書に収録された免木戸(ゆるぎどう)は、この大岩の名称であるユルギ堂に適当な漢字を当てて小字化したものではないかと推察される。このことより、この総括記事の名称も「ゆるぎどう」の読みが正則であると考えられる。最新版の総括記事を新しいファイル名で作成し、この総括記事はリダイレクトとする予定。《 関連記事リンク 》
FBメンバーに対する記事公開通知と読者の反応。外部サイト: FB|2015/4/25のタイムライン

出典および編集追記:
1.「郷土二俣瀬」(児玉一雄著)p.102〜104
2.「二俣瀬小学校百年史」p.69〜70
3. 一般には山陽道と呼ばれることが多い。しかしこの呼称は現代では山陽自動車道を指すことが多いので、当サイトでは両者を区別するため中世の街道を指す場合は山陽街道または西国街道と表記している。
4.「山口県地名明細書」p.139
5. 山陽新幹線の瓜生野トンネル西側坑口にある沢を横切るボックスカルバートには地蔵堂Bbという銘板が確認される。
6.「FBページ|2019/9/9の投稿
」
1.「郷土二俣瀬」(児玉一雄著)p.102〜104
2.「二俣瀬小学校百年史」p.69〜70
3. 一般には山陽道と呼ばれることが多い。しかしこの呼称は現代では山陽自動車道を指すことが多いので、当サイトでは両者を区別するため中世の街道を指す場合は山陽街道または西国街道と表記している。
4.「山口県地名明細書」p.139
5. 山陽新幹線の瓜生野トンネル西側坑口にある沢を横切るボックスカルバートには地蔵堂Bbという銘板が確認される。
6.「FBページ|2019/9/9の投稿
」
