市道西山線・横話【1】

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本編では、市道西山線の派生的記事をまとめて収録している。
《 琴崎八幡宮前交差点 》
本路線の起点、国道490号との接続部は十字路を形成している。
写真は本路線の国道取り付け部分から撮影している。


位置図を示す。


この交差点に特別な名称はない。暫定的に琴崎八幡宮前交差点としている。それで場所は特定できるだろう。

この近辺は平成期に国道490号の道路改良で拡幅され線形も大きく変わった。本路線との接続部分も大幅変更されている。現在では国道付近で酷く屈曲した形で接続されている。視認性確保のため可能な限りメインの道へ直角に接続するための仕様変更である。


したがって以前より見通しは良くなったがカーブの半径が小さいため、通過するときはかなり速度を落とさなければ市道へ向かうのも国道へ出るのも車がカーブの外側へ大きく振られる。それを嫌気して、特に国道から市道へ向かうとき対向車が信号待ちしていなければ殆どの車がセンターラインを跨いで曲がっている。

市道へ向かうとき自転車は左側通行なので自然と車道の外側のここを通るようになる。
車道部分の路側があまりに狭く、後ろから車が来たら逃げようがないからだ。


この部分は歩道のように見えて何とも変な構造になっている。
車道よりも一段低くなり、先の方では規定の幅さえもなくなってしまう。


車道とは相当な高低差がついていてガードレールの切れ目もなく相互に行き来はできない。
この似非歩道部分はしまいには車道に沿うこともなくなり、あらぬ方向へ誘導させられる。


車道に沿って現在のところ空き地になっていて、そこを挟んで最終的には車道に戻ることができる。


車道の取り付け部分は全体が緩やかなスロープとなっている。
この場所で国道とは1m以上の高低差がついていて、バス停からは階段を経て行き来するようになっている。


道路改良以前の国道が対面交通だった時代はこの場所は十字路ではなく、本路線の起点も現在より北側、琴崎八幡宮の正面参道を過ぎた場所にあった。
現在の本路線は国道をスタートして暫く屈曲した区間を経て直線路にさしかかる。かつてはこの直線路がそのまま国道へ接続されていた。国道との高低差が3m近くあり、接続部付近を急な坂ですり付けるだけの単純な道路状態だった。このため国道から川添へ降りていくのは容易としても、川添から国道へ出るときは見通しが悪い上に坂道発進で難儀したと思われる。

国道と昔の本路線の接続部鋭角側に何かコンクリート造り平屋の建物があったように記憶するのだがそれが何だったか定かではない。判明次第追記する。

なお、本編でも述べているようにバス停付近の階段から国道取り付け部分までは国道490号(即ち市ではなく県管理)に属するものなので、将来的に国道記事を作成した折にはこの派生項目は移植される。
《 川添について 》
記事作成日:2015/10/23
川添(かわぞえ)とは上宇部区の北、琴崎八幡宮近くの国道と真締川に挟まれた地区を指す地名である。かつて字川添であったが、現在は川添町となっている。


川添町の知名度は相応に高く、場所を説明するときしばしば琴崎八幡宮の下と表現される。

市道川添町線の本路線接続部付近にある川添町案内図。
現在は1〜3丁目で構成される。
市道真締川線と記載されている部分は現在では市道真締川西通り2号線である


上の案内図でも分かるように川添町は真締川と時雨川に挟まれた領域である。町名となる以前から川添という地名であり、その由来がまさにこれらの川沿いにあると考えるのが自然であろう。
「地名明細書」では上宇部村の沖田(おきだ)小村に川添(かわそい)として収録されている。昔の読みの方が地勢を忠実に表現している。

山あいを流れる真締川は、土田橋で僅かに屈曲してからは川添地区を直線的に流れている。この辺りは山を出た直後の場所で、削り出された土が運ばれ堆積しやすい地であった。この状況は現在でも真締川の河床とその両岸の川添、広田地区の居住地がそれほど変わらない高さであることに現れている。
このため川添地区は真締川がひとたび増水すると常に浸水の危機に脅かされていた。実際の状況は分からないが床下・床上浸水の話は何度か聞いている。危機的状況は平成初期頃まで続き、最終的に真締川上流に真締川ダムを造って流量変動を抑え、かつ川津橋付近に川添排水ポンプ所を設けることでほぼ克服された。

若干だが川添地区に関して個人的関わりがある。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

なお、この派生記事はもし市道川添町線の記事を作成した場合は移動される。
当面は当該市道レポートを作成する予定はない
《 沖田の鶴 》
現地撮影日:2014/3/23
記事公開日:2014/11/20
石田橋の左岸側袂に上宇部ほうゆう会による石碑が設置されている。


本路線側に面して「民話の里」と記述されており、沖田の鶴で知られる民話の現地だったという説明書きが添えてある。


沖田の鶴の伝承を[1]の記述に基づいて書いてみた。
昔、福原家に仕える大鳥方の岡又十郎という武士がいた…又十郎は中尾に住んでいて、その年に獲れる鳥を萩藩へ献上する役を仰せつかっていた…
ある冬の日、獲物がとれず家路に就くとき、沖田で二羽の鶴を見つけた…
又十郎は鉄砲を向け、一羽を仕留めた。地に斃れた鶴を拾い上げてみると首がなかった…鉄砲で撃たれたことで吹き飛ばされてしまったのであろう…

その翌年の冬、又十郎は再び沖田で一羽の鶴が降り立っているのを見た…去年の冬のことが頭を過ぎったので、今度は首を落とすまいとよく狙い、撃ち取った…そして斃れた鶴を拾い上げて持ち帰ろうとすると…雌鶴の羽根の間から別の鶴の首がポトリと落ちてきた…

又十郎は思い出した…今しがた撃ち取った雌鶴は、去年自分が撃った雄鶴とのつがいなのだ…雌鶴は撃ち取った夫の鶴の首を大事に守り続け、今年も想い出の地である沖田に飛んで来たのだろう…
又十郎は深く感じ入り、後日殿様にお役ご免を申し出て武士の身を捨てた…そして万倉の里へ入り百姓として精を出したという…
昔からの伝承には、後世を生きる人々にそうあって欲しいという規範を示す内容が必ず含まれる。この物語では命の尊さや夫婦愛を説いている。
ツルという鳥の夫婦愛の強さはともかく、夫鶴の死を悼んで首をずっと羽根の間に保ち続けて飛ぶ妻鶴の存在はさすがに物語としての脚色であろう。しかしこの近辺へのツル飛来自体についてはかなり確からしいことと思われる。旧中山村の大鳥羽神社で知られる大鳥羽という地名は、かつてツルが飛来していたことに由来するとされている。[2]現在と環境の異なる昔はツルの飛来はそれほど珍しくなかった筈だ。

小字絵図によれば、字沖田とされる実際の場所はここより真締川の下流右岸側である。しかし字の境界は現在の真締川に一致しており、ツルが飛来していた遙か昔の真締川は現在の川添地区一帯を流れていたと考えられるため、現在では伝承の元となったツル飛来地の特定は不可能である。[3]よって場所の正確性よりもむしろ本路線の石田橋横という目につきやすい場所へ石碑を設置したのは理に適っている。
出典および編集追記:

1.「小羽山付近の史跡と伝承」 平成18年度小羽山まちづくりサークル p.17-18

2.「宇部ふるさと歴史散歩」p.136 による。
もっとも大鳥羽という地名は「地名明細書」にも収録はされているものの現在では一般的な「おおとば」とは異なる読みであったことからツルの飛来地だったことが地名の由来とする説に疑義が差し挟まれる余地がある。

3.「FB|2014/7/15のタイムライン
《 西山公会堂 》
現地撮影日:2014/1/14
記事公開日:2015/10/23
本路線の最初に出会う厳しい坂道を登り切った右側に西山の公会堂がある。
写真は正面からの撮影。


位置図を示す。


玄関のすぐ横に新築落成記念碑が設置されている。
昭和61年竣工だからかなり新しい。


地区の在住民ではないので個人的関わりはないが、この石碑と共に公会堂のすぐ前にある未知の石碑に興味が持たれる。引き続き後述する。
《 西山公会堂の前にある未知の石柱 》
現地撮影日:2014/1/14
記事公開日:2015/10/23
西山公会堂のすぐ前、本路線沿いに古めかしい石柱が遺っている。
公会堂との位置関係は写真の通り。


凍結防止剤の立て札が気になるかも知れない。建築ブロックで囲まれた部分はゴミステーションであり、その外側は冬場には塩カルの入った黄色い袋が置かれる。それがなければ車では身動きできなくなるのは容易に想像がつくだろう。
冬場のこの場所の映像はこちら

花崗岩の石柱は1mちょっとの高さで道標などに見られる標準的サイズである。
しかし相応に加工されているというだけで文字はみられない。


側面から撮影。柱の下の方が若干細くなっていて建築ブロック側の面の中央はやや窪んでいた。
かつて祭りの幟を柱に沿って建てていたからかも知れない。


レンガで囲まれた部分には一段低い花崗岩の柱がみられる。
側面に穴が空いているだけでこちらも文字などはみられなかった。
自分の影が入ってしまうため若干離れてズーム撮影している


この柱のある場所からは市道の他に3本の地区道または私道が伸びている。しかし石柱に何の文字も見られないことからこれは道標を意図したものではなく、単純に村の祭りのとき幟を掲げる場所の一つだったと想像される。特に邪魔になる場所でもなく撤去する理由がないのでそのまま遺しているのだろう。

僅かばかり頭を出している石柱には側面に穴が空いている。幟を取り付け固定するためのものだろうが、もしかすると土に埋もれている側面部分に西山組など石柱の設置者にまつわる情報が刻まれているかも知れない。

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