市道見初線

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現地撮影日:2015/7/30
記事編集日:2015/11/12
市道見初線は、松山町2丁目にある細い路地を通る認定市道である。
写真は起点の映像。


ルートラボを載せる。


起点の写真だけでは分かりづらいが、本路線は国道190号松山通りに面しており、見初小学校の南側に沿って進み松山通りの一つ東側の通りに到達する。
些か短い路線で続編記事を書く予定もないので、時系列的に記述してみよう。

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日が高いうちに外出するのは暑いけど、一日中クーラーのかかった部屋に閉じ籠もっていては暑さに身体が慣れないし新しい発見もない…そこで買い物に出かけるついでに散歩を兼ねてわざわざ遠回りした。そのとき後述するような地名の記事を作成する過程で市道の写真が要ることを思い出し、起点の方に向かった。

松山通りの反対側から写真を撮っている。
正面に見える細い道が本路線だ。


車で松山通りや常盤通りを走ると実感されるが、横切る枝道が沢山あってそれぞれに信号機がついているものの、それらはすべて歩調を合わせて動いている。今や市街部を通る交通の動脈部分なので、枝道の信号はすべて国道に遠慮している。この場所の信号も例外ではなく青時間は短い。じっくり撮影している暇はなく、冒頭に掲げた起点の写真を撮る頃には歩行者信号は点滅を始めていた。

さて、この道である。
大型車の通行制限がかかっていること、生活道路としての速度規制(上限30km/h)が課せられている。


個別に個人的関わりの項目を作成するほどのことでもないのでここで書くが、通ったこと自体は初めてではない。割と最近自転車で通った記憶がある。もっとも市道レポート目的で撮影するのは今回が初めてだし、車では通ったことは一度もない。

生活道路であることを示すゾーン30のペイント。
確かこれは割と最近になってペイントされるようになったと思う。


なお、起点の写真から既に見えている右側の建物は見初市営住宅の1号棟である。
個人的関わりは何もないので記事化の予定はない

地図で見るように本路線は見初小学校の南側に沿って進んでいる。
そしてレンガ状のタイルが貼り付けられた裏門と思しき場所に出会う。


見初小学校はその存在こそ知っていたが、学童期は出身校以外の小学校へ行くことはまずなかった。そのためこの校門が現役か否かなどは分からない。個人的関わりと言えば、この小学校体育館で行われていたバドミントンクラブへ短期間通っていたことのみである。前職の協力業者でこの体育館で活動しているという方から紹介され通ったのだった。
上記項目はもし見初小学校の記事を書いたなら移動する予定

見初小学校をこのアングルから見たことはなかった。それで時系列ではどんな校庭なのだろうかと思いフェンス越しにちょっと眺めていた。そしてネットフェンスのすぐ内側に古そうな石碑を見つけたのだが、学校内のことなので追及しなかった。
現在は学校内への立ち入りは原則事務所を通さなければならないので

道路幅は1.8車線相当、普通車での離合は問題なくできそうだ。もっともここへ来たときから見えていた路駐の車以外はまったく車を見受けない。


本路線に出会う唯一の市道である。
市道見初2号線で、認定市道ではあるがむしろ見初団地の通行路として機能している。
記事化の予定はない


全行程はほぼ完全にフラットかつ直線だ。
とりたてて変わった物件を見つけることもなく終点に向かう。


終点到着。
ここで出会うのは市道緑橋芝中線だ。交通量はそう多くはないが松山通りの控え的存在の路線である。


終点から振り返って撮影。
すぐ近くに通行人があったので終点に立たず反対側の歩道からズーム撮影している。


路線としては特に変わった要素はない。派生的路線として途中で接続される市道見初2号線、それから見初小学校の北側を本路線と同じ方向に進む市道見初3号線が存在する。
【路線データ】

名称市道見初線
路線番号421
起点国道190号・見初小学校裏交差点
終点市道緑橋芝中線・交点
延長約150m
通行制限特になし。
備考

延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください
《 個人的関わり 》
特にない。本記事を作成するにあたって自転車で撮影し通行したのは2度目である。
そして沿線にとりたてて特徴もないこの市道をレポートしたのは、専ら後続の地名由来を記事化するためであった。
同じ見初という名称を持つ中国電力の見初変電所について。恩田町5丁目というまったく別の場所に存在する。
派生記事: 見初変電所
本編記事の公開に先立ってのFBメンバー向け下書き記事。(要ログイン)
外部ページ: FB|2015/7/30のタイムライン
《 見初について 》
記事作成日:2015/7/28
見初(みぞめ)というキーワードを耳にした市民は極めて多い。それはかつて宇部村内に存在した地名であるが、現行の町名としては保存されていない。[1]
写真は見初小学校の校門。


町名にはないものの見初の知名度は大きい。これには本路線が通過する松山町2丁目にある見初小学校、そして学区としての見初校区の存在によるものが大きい。
現在では見初という地名はほぼ間違いなく「みぞめ」と読まれる[2] し、またその読みに対して見初の表記のみが与えられる。しかしこの地名の黎明期においては後述するように違った表記が与えられていた。

古くから名付けられ市民に広く知られた地名は、しばしば当該地区のみならず周辺地域まで連想させる代名詞的役割を果たす。宇部市内では常盤や新川といった地名が代表格で、見初は前者ほどの知名度はない代わりに長く市内に暮らした人々にとって郷愁を感じさせる地名である。見初は全国の他の地域に同一の地名が殆ど見当たらないこと、特にその表記から初めて出会った瞬間に恋のシグナルが点灯してしまう「見初める」を容易に連想させる点からも、宇部市の代名詞的な地名の中でも特別な位置にあり、親しみを持たれている。

それだけに見初という地名の由来を書こうとすると少々気が引けるものがある。見初という地名にはこの地で起きた何か深遠な出逢いや恋物語に由来するのかも知れないという信奉者の夢やロマンを台無しにしてしまいかねないからだ。実際、見初めるというそのままズバリな古めかしい日本語がありながら見初という地名の大元の由来を考えた場合、日本語の「見初める」にはまったく無関係と考えられている。ではより真実に近いと思われる見初の由来はと言うと…がっかりされるかも知れないのを承知で、各種資料を元にした説を以下に記述しよう。
【 地名の由来と歴史 】
よく知られているように、宇部の街の発展は石炭の賜である。容易に得られる内陸部の掘削によって概ね石炭を得た後は、人々の技術は比較的浅い海底に眠る資源に向けられた。海に向かって坑道を掘り、石炭と一緒に掘り出された残土である硬(ボタ)はそのまま遠浅の海へ押し広げられた。即ちボタ山を造らなくても海を埋め立てることで処理できる上に工場用地や居住地域の拡大も可能となったのである。

海へ向かってボタを押し広げるにも、陸地部分に河川や排水路がある場所は当然確保しなければならない。また、最初から一枚ものの平面を造るように埋め立てると雨が降ったとき水の逃げ場がない。このため排水効率を考えて縦横に溝状部分を遺して埋め立てられた。[3]それらは溝であり堀と呼べるものもあった。
更に埋め立て地部分を海へ拡張したとき、排水経路を確保した上でそれらの溝状領域は不要となった。最終的に「それらの溝を埋めて人々の生産活動などに使えるようにした地」というのが見初という地名の由来とする説が提示されている。

一連の説を記載した看板が中国電力見初変電所の正面側にあるフェンスに設置されている。[2012/5/9]
現在はこの写真より色褪せて文字が読み取りにくくなっている


ただしここにいわゆる溝とは、東見初炭鉱のような比較的近代的な記述をもって石炭を採取するようになった以前の時代による露天掘りや、あるいは石炭採取とは異なり以前からあったこの地近辺の浅い河や沼地を埋めたことに由来することも考えられる。それと言うのも見初という地名は東見初炭鉱の創立期よりも昔の江戸期には既に見初の原形となる地名を確認できるからだ。

明治初期には既に存在していた地名一覧を編纂した「地名明細書」という書籍には、宇部村の前身の一部を構成する沖宇部村に岬小村が存在し、明神堀筋配下にある小村の一つに見染(みぞめ)という小名が記載されている。また、同村中の笹山村にある芝ノ中の配下には中見染という小名があらわれている。東見初炭鉱時代の石炭採掘によるボタで堀を埋めたことが発祥なら、地名明細書にはまだ見染という地名が現れていない筈とも考えられるのである。[4]

小字絵図では見初の他に派生小字として中見初下見初が知られる。それらは現在の松山町3〜5丁目に相当し、現在の岬小学校付近にまで及ぶ東西に細長い帯状領域として記載されている。当初は見染と書かれていたものが現在までの何処かで見初という表記に変わったらしい。そして見染自体も現在の見初に対応する最初期の表記であるかは分からないが、変電所の標示板にあった「溝埋」と似た読みで異なる漢字を宛てていたことは確かである。
殆どの地名は漢字表記よりも実際の読み優先であり、読みを保つために別の(しばしば佳い意味の)漢字を借用することは全国においてまったく一般的である。堀や沼地、廃用河川を埋め立てて得られた土地には「埋める」に似た音の漢字が借用されることが多く、それは往々にして「梅」である。[5]見初の場合も元々は「溝埋め」が由来だったとしても、特段の意図がなければ自分たちの住まう地には佳い意味の漢字を宛てたいと願う[6]だろう。この過程で「みぞうめのち(溝埋めの地)」が短縮されて「みぞめ」が誕生し、これに近い音読となる見染、そして見初が与えられたと考えるのが自然である。

地名の「溝埋説」は見初変電所の標示板に記載されていたものだが、私もこの説を殆ど疑うことなく支持する。まとめればその根拠として以下の理由が挙げられる。
(1) 明治期以前から見初の原形となる地名(見染)が確認されること。
(2) 現地はかつて海ないしはそのまま人が住むには不適な低湿地であり、遙か昔から人々の関わりがあったとは考え難いこと。
(3) 「溝を埋めて得られた地」という評価の正当性を補強する地勢(低湿地)であったこと。
(4) 小字絵図でも見初(およびその派生小字)は東西に細長い帯状領域として記述されていること。
(1) は地名明細書記載の通りである。
(2) と (3) は、一般に「地名の発生には人々との関わりが必須である」という前提条件に基づくものである。海であれば当然人の居住はあり得ないし、低湿地でも漁労と食用植物の採取によってこの地に定住することは甚だ困難だろう。仮に原始人の居住があってこの地に何かの名称が与えられていたなら、見初とはまったく似ても似つかない呼び名が与えられていて当然ながら既に失われているだろう。
(4) はまさに溝埋の図示的事例である。字見初で示されるエリアすべてが溝だったとは言えまいが、帯状に遺っていた部分を埋めたことで居住地が拡大されたことを物語っている。

見染の表記がいつから現在の見初に変わったのかは調査を要する。ただ、書き換えを行った動機付けに関しては冒頭にも述べた「見初める」という日本語を意識したことはほぼ確実だろう。
見初めるに由来するかと思っていたら実際には溝を埋めた地と聞いてイメージが壊れたかも知れない。後世の巧妙な当て字と言えばそれまでだが、美しい響きの地名は人々の脳裏に遺り後世へより強く伝えられる。溝を埋めて人々の暮らしが始まった地は全国他にもある筈だが、学校区にも採用されている見初という地名は全国ここだけであり、その響きの美しさと漢字表記の秀麗さは当時の人々が後世に遺してくれた財産と言えるだろう。
出典および編集追記:

1. 大正期の地図を見ると現在の昭和町2丁目や幸町付近に見初町という町名が記載されている。

2. 松山町二丁目交差点の国道190号松山通りに面して「みそめ食堂」が存在する。この店舗は昔から同じ名前で営業している。漢字表記されることはなく「みぞめ」と濁ることもない。地名の見初から派生した一つの文化的屋号と言える。
恩田在住期は出前でしばしばお世話になった…このことは別カテゴリの個人的関わりとして記述する

3. 個人的観察の結果だが、東見初町あたりは昭和40年代後半までは埋め立てられず遺っている部分が散在していて至る所に溜まり水が出来ていた。埋め立て地兼ゴミ処理場だったようで学童期に黒々とした土の目立つ大変に汚い場所を歩いたことがある。

4. もっとも大規模な石炭採掘以前では干潮時の波打ち際に見える石炭を採取することはこの辺りから隣りの山陽小野田市本山の沿岸部にかけて行われていたことであり、溝状に掘り採った状態で放置されていたものを埋めたということは考えられる。

5. 梅田川など。一般に梅田という地名は海沿いの干拓地など埋め立てられて造られた地であることが多い。

6. 土砂崩落や水害などの自然災害や事故の危険性を後世に伝えたい意図から敢えてそれらを示唆する地名が遺っている場合がある。
弥ヶ迫や馬ノハマリといった地名

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