競技場が何を意味するかは、こんなコアな市道記事を読んでくださる宇部市民であれば漏れなく理解できるだろう。一般には陸上競技場だが、陸の上だけではなく水の上で行う競技施設(プール)も存在する。具体的には陸上競技場のトラックおよび観覧用の付随施設、野球場、プールを指している。
(更には俵田翁記念体育館や野原公園なども含まれるだろうか)
起点の位置を地図上にポイントしておこう。
市道の起点は、つい最近記事公開した市道神原町草江線の清水川交差点の先にある。
交差点を過ぎて恩田の丘陵部を登り始めてすぐの場所だ。
道路形状から、かつては直線的に分岐していたことが分かるだろう。
古い道路部分がそのまま遺っており、当時の速度規制ロードペイントが今も観察される。
車が間違って旧道部分へ進入しないように締め切っているのだが、その部分が畑に面していることから可動式のガードレールになっていた。
現在は起点部分を折り曲げ、市道神原町草江線に対して直角に接続するよう形状変更されている。
スピードを落としてもハンドルを大きく回さないと通過できないが、速度を落とさせることも一つの目的でもある。
(自歩道を通る自転車と出入りする車の競合が極めて多いから要注意)
それでは、スタートしよう。
カーブは接続部分だけで、スタートしてすぐ直線となり、登りかけた残りの標高分をこなす形になる。
対面交通だが車線幅は充分になり離合に不都合はない。両側に店舗や事務所、民家が多いので生活道路に準じた速度規制になっている。
特筆すべきものが殆ど無く話題に困るのだが…^^;
市道の中ほどで66kVの送電鉄塔が上空を横切る。
話題がないから細かな点まで言及すると、この近くに見えているのは28番鉄塔で、桃山にある宇部変電所から国道を渡った先にある見初変電所まで送電している。
車や人の流れを支える道路、雨水排水を運ぶ河川に固有の名前があるように、電気の道にも(殆ど表には出てこないのだが)名称がある。この送電経路にも幹線名があるはずだが、まだそこまで調べていない。[1]
この送電経路は私たちが恩田へ越してきた時には既に存在していたし、当時からの鉄塔がいくつも存在する。
(と言うか現時点ではまだ立て替えられた鉄塔の方が少数派)
平坦になった頃には別の市道へT字型にぶつかる形で終点に到達する。
既に野球場が見えている。
終点がもう見えているのですぐにはゴールせず、この近くにあるものに関して言及しておこう。
まずはこの広々とした駐車場。過剰設計のように思えるが、平成期になって野球場が公式戦対応に作り替えられたので大勢の観客を収容できる駐車場が必要となった。
市道に面して、この駐車場の手前から左へ入る地区道があったのでちょっと寄り道してみた。
野球場がこの広い駐車場と共に地元の活性化へ大いに貢献している。しかしその裏でこの近辺の景観はすっかり塗り替えられてしまった。
かつてこの市道に隣接する駐車場の周辺は一面田畑で、ただっ広い田畑に家屋は一軒しか存在しなかった。
(その一軒家の方がどなたか知っている)
現在は田畑を割って新しい住宅やアパートが進出しており、キャベツ畑が当時を偲ばせる程度だ。
用水路と里道が辛うじて遺っているのを見つけた。
これは昔からの道で、後で述べる今は消失してしまった想い出の里道の一部と思われる。
新築アパートの横から北側を眺めている。
遊休地として遺っており、ここからの景色は覚えている。田畑の北側がやや低くなっていて更に一段低い地にアパートが建っているのが見える。
現在地を含めてあのアパートの辺りまではかつて見内(みうち)という小字だった。
(現在の野原1に相当する)
遠くに見えているあのアパートは、かつて見内アパートと呼ばれていた記憶があり、小学校の頃の同級生が住んでいた。 彼も当時流行っていた切手集めの仲間であり、趣味が合うせいか私は何度も自転車を使って遊びに行った。そのとき確か今の野球場があるあたりから農道に入り、アパートの近くに出る坂を下った記憶がある。
彼の家は転勤族だったらしく、私が小学3年生のとき転入してきて友だちになったものの、確か中学生に上がる頃にアパートを後にしている。このため私が野球場近くから入るその農道を通っていたのは4年間のうちの何十回かになる。
その道の痕跡を探ろうとしたのだが、広い駐車場が手がかりをほぼ完全に消し去ってしまっていた。
(昭和49年度の航空映像から判断すれば先に見つけた里道から駐車場に沿ってアパートの方へ下っていく里道が存在していたようだ)
ただっ広い駐車場も普段はまったく使われず全く閑散としている。
もっともプロ野球の公式戦が開催されるときは、恐らく駐車場はぎっしりと埋まり、この市道も含めて周囲は身動きならない位の大渋滞になるのだろう。
せっかく野球場が近いのだから、公式戦がある頃を見計らってこの市道付近がどういう状況になるのか知りたい気もする。恐らく読者も同感だろう。
しかし私が記事制作に関してこれほどハッキリ物を言うのも稀だが、その可能性は基本的にないと言っておこう。やりたくない。人混みや渋滞嫌いに加えて、野球に殆ど興味がないと言えば説明に充分だろう。
(もっとも大人となった今は昔ほどではない…幼少期の自分にとって野球は完全に嫌悪の対象だった)
さて、市道へ戻ってすぐ近くとなる終点に向かおう。
ここで横切るのは市道恩田野中線で、市道清水川競技場線とほぼ同じ規格である。信号機は付属しない。
(見通しが良いせいか車の一旦停止義務もない…そのまま走り込んで構わない)
終点より振り返って撮影。
全線通して信号がなく途中に分岐する別の市道もない…至ってシンプルな市道である。
道そのものを慈しんだり道路の周囲に展開される眺めや物件を期待したりする他に、この市道の効用や利用方法について知りたくて記事をお読みになっていらっしゃる読者もあると思うので、車で通るときのテクニックを書いておこう。
野球の公式戦があるときは酷く渋滞して選択の余地がなかろうから、通常の道路状況を仮定しよう。この市道を車で走ることがあるなら、俵田体育館の利用が比較的多いのではなかろうか。
まず、市街部から俵田体育館に向かうなら僅かだがこの市道を経由した方が近いし早い。左へのスライス分岐と終点での左折のみで信号待ちがないからである。しかし帰りに逆ルートを通るべきかは条件によって選択肢は分かれる。
市道恩田野中線を右折してこの市道の終点から入るのは容易だが、起点のスライス分岐箇所で右折するのは時間帯によっては非常に困難になる。市道神原町草江線は交通量が極めて多く、上下線が途切れるタイミングを見つけて右折するのにかなり待たされる。その手前に自歩道があり、自転車の往来も頻繁なのでそっちの注意も要る。
夕方のラッシュ時などは信号待ちの車がこの市道の起点付近にかかることもザラで、道路を塞ぐ形で進出し、清水川交差点に向かう車列の誰かが入れてくれるのを期待しなければ出られない場合が多い。
結論として、そういう無理な運転を避けたいなら、市道恩田野中線と市道神原町草江線の信号機付き交差点まで走り、素直に右折した方が早いし安全である。
市道の経路マップである。
若干の起伏があるだけで、線形としては直線一本状態だ。
この記事はここで終わりになる予定だったのだが、記事を書き上げ、上記の経路マップを作成してソースコードを貼り付けさて公開…という段になって、ある一つの雑念が頭に浮かんでしまった。多分妄想と思うのだが、もしかすると…という事があるかも知れないので敢えて追記してみよう。
この市道は競技場の工事用道路だったのでは…
いや、別にそのようなことを本で読んだとか人から聞かされたというのではない。フッと頭に浮かんだのだ。この市道はいわゆる「産業道路」の線形の延長として存在している。上記の経路マップを眺めていて気づいた。産業道路とは、県道琴芝際波線と市道神原町草江線、市道小串通り鍋倉線で構成される幹線部分に対する古い呼称である。この区間は昭和中期の重工業時代を象徴するように当初はコンクリート舗装であった。現在でも県道部分はかなりの区間がコンクリート舗装のまま供用されている。
(最近「市道神原町草江線がコンクリート舗装の時代があった」という情報を得てこの着想に至った)
そして市道神原町草江線に継ぎ足すような形で市道清水川競技場線が直線的に伸び、その先に野球場や陸上競技場が進行方向を塞ぐ形で位置している。このことより次のように推測された:
あの場所に野球場や陸上競技場を造ることは早期に決定されていた…一連の大規模な構造物はいずれも大量のコンクリートを必要とし、資材を運搬する経路が必要だった…重量物を積んだダンプトラックが多数回往来するので運搬経路は堅牢なものにしておく必要があった。そこでコンクリート材料の製造供給地(言うまでもなく宇部興産)から競技場という消費地までを幅広なコンクリート舗装にした…
どうだろうか…なかなか尤もらしい推察に思えてくるのではなかろうか。
この説を補強する材料があるとすれば、野球場をはじめ陸上競技場や俵田体育館の近辺まで現在では過剰設計とも思える幅広な舗装路が拡がっている事実にある。
(ダム工事と同様に現地へバッチャープラントを仮設していたのでは…)
ここから先は新たな情報が得られたときか、この周辺を通る他の市道レポートを作成した折に改めて吟味してみようと思う。
【路線データ】
(延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください)
名称 | 市道清水川競技場線 |
---|---|
路線番号 | 447 |
起点 | 市道神原町草江線・分岐点 |
終点 | 市道恩田野中線・野球場前 |
延長 | 約300m |
通行制限 | なし |
備考 |
(延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください)
出典および編集追記:
1. その後の調査で路線名は送電鉄塔見初線と判明している。
1. その後の調査で路線名は送電鉄塔見初線と判明している。
《 記事作成後の変化 》
記事作成日:2016/7/19
最近判明した昭和中期の航空映像資料により、上記の根拠無き推測と思われるものはほぼその通りである[1]ことが判明した。即ち本路線は昭和37年に俵田体育館を建設するにあたって重車両が往来可能となるように産業道路を延伸したものによる。野球場の前で左折し、俵田体育館の横で広い道が突然狭くなるのも本工事に伴う道路拡幅の名残りと言える。
出典および編集追記:
1.「地理院地図|1947年3月12日の米軍撮影による航空映像」ではまだ本路線が現れていない。その後の
「地理院地図|1962年6月1日の国土地理院撮影による航空映像」では、産業道路と同規格の道を野球場前まで延伸し、かつ俵田体育館の前まで同等規格の道を拡幅していることからも判断される。
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1.「地理院地図|1947年3月12日の米軍撮影による航空映像」ではまだ本路線が現れていない。その後の
「地理院地図|1962年6月1日の国土地理院撮影による航空映像」では、産業道路と同規格の道を野球場前まで延伸し、かつ俵田体育館の前まで同等規格の道を拡幅していることからも判断される。
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