恩田町5丁目の生活道【9】

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(「恩田町5丁目の生活道【8】」の続き)

位置記号の示す場所については「恩田町5丁目・第2区画マップ」を参照して下さい。

第2区画は長沢より松尾水路を隔てた西側エリアで、字名では中長沢となる。西に向かって緩やかな丘陵部になっていて主要な灌漑用水路が通っていないため土地利用は昔から畑地主体だった。
《 くじ屋街道(Q→R) 》
現地撮影日:2017/5/14
項目記述日:2017/5/19
長沢の低い沢地を横切って松尾水路を渡り西側の丘陵部へ登っていく農道は、元の恩田バス停やくじ屋へ往来するときよく通っていた。このうち水路を横断してから西進し現在の市道恩田八王子線へ到達するまでの経路は私の学童期の状況をよく遺す数少ない区間である。往還路だったため双方向から同じ程度通っている。
この経路は西に向かっているため往路時方向の撮影がしづらい。そこで逆方向から撮影されたものを配置し直している。一部の画像は過去に撮影した良好なアングルのものを使っている。

Q地点より撮影。
松尾水路はここで写真左側、南へ進路を変えて流れる。元は石橋があって現在はコンクリート床板となっている。


水路を渡ると道は緩やかに登っていく。
右側のガードパイプや左のコンクリート擁壁は当然なかったが、地形は概ね昔と同じである。


進行方向左側に見初変電所が見える。
緩やかな傾斜平面になっていることから分かるように元々畑地で家などはなく、直接変電所が見えていた。


歩けばどうということのない勾配も自転車だとちょっときつい。
特に学童期の自転車はギアがなく、これを一気に登ろうとするなら先ほどの石橋を渡ったところからすぐ加速が必要だった。


坂が少し緩むところで右からの道に出会う。
後述するようにここを右へ曲がれば元の恩田バス停近くへ向かう。


そしてこの右側角に昭和を象徴するものがあった。
いずれ分割するかも知れないがここで書いておこう。
【 肥溜め★ 】
バス停に向かう小径とくじ屋へ向かう道が交差するこの場所にかつて肥溜めが存在した。
この写真で自転車を停めているすぐ右側の角地である。


現在では既に遠くなった昭和の遺物の一つであるが、肥溜めとは一般家庭から出る糞尿を貯留するための場所である。糞尿には窒素が含まれ、適正に処理すれば窒素を必要とする植物のよい肥料となることが経験的に知られていた。屎尿はどの家庭からも発生する廃棄物なため、究極のリサイクルでもあった。
ただし糞尿をそのまま使うと発酵が足りていないことと寄生虫の問題があるため、畑の一角に貯留所を設けて家からそこまで運んでいた。この目的のため畑を持っている農家はどこも屎尿をくみ出す柄の長い柄杓と桶を持っていた。便槽の蓋を開けて内容物を汲み出し運んでは貯留所へ移していたのである。この場所を肥溜めという。こうして水分を飛ばして熟成させた後、再び肥溜めから柄杓で汲み出して畑へ散布していた。
以上の記述は文化カテゴリで肥溜めの項目を作成した折には移動する

この場所にあった肥溜めは円筒形か正方形をした低いレンガ造りで、上に雨を避ける簡素な屋根がついていた。野積みして水分を飛ばし発酵させる必要があるため上部は覆われていなかった。このため当然のことだがこの十字路部分を通るたびに特有の臭いが周囲に漂っていた。恐らくこの十字路に隣接する農家の管理だったのだろう。

遊んでいて野球のボールが中へ落ちたり、それを取ろうとしていて落ちたという子どもの話は当時からよく聞いていた。しかしこの肥溜めに関してはそういう話を聞いていない。昭和50年代頃まではそのまま遺っていたと思う。なお、この場所にはもう痕跡も遺っていないが、市内には肥溜めと思われるコンクリートの槽などが数ヶ所確認されている。更に古いものではレンガ積みのものがあり、屎尿を浄化槽または汚水管で処理するようになった現在でも家庭から出る野菜屑などを投入してコンポスト代わりに流用している家もある。屎尿の私的な堆肥利用は衛生面の問題が避けられないため、当初の目的のまま現在も使われている肥溜めは皆無である。転落防止のため使われなくなった肥溜めには開口部に蓋がされている。

さて、時系列に戻ってR地点到着。
ここは小さな十字路になっていて、直進は短い区間で勾配がきつくなる坂道である。


バス停への道は以下を参照。
時系列記事: 恩田バス停道(R→T)
左側は恐らく元から踏み跡があったようだが、見初変電所の引き込み鉄塔(No.31)のところで行き止まりなので里道ではなく中国電力の管理道かも知れない。学童期には通れる道はなかった。この先へ入り込んだのは生活道の写真を撮るようになった近年のことである。
記事向けの写真は採取している

学童期までもっとも通行頻度の高かったのはここを直進して丘に登る経路であった。
《 くじ屋街道(R→S) 》
現地撮影日:2017/5/14
項目記述日:2017/5/20
恩田バス停へ向かう分岐路を過ぎると、道幅は広がる代わりに一段ときつい坂道になる。
もっとも現在は里道相当の部分がコンクリートで均され通りやすくなっている。


この場所は道中でもっとも印象深いレンガ敷きの坂道になっていた。2009年にここを訪れて当時と変わらないままであったことを確認し、その後も数回撮影に訪れている。幼少期の重要な想い出となる景観だったので独立記事を作成した。
時系列記事: 恩田のレンガ坂
坂の反対方向から撮影。
この角にあった民家が解き除けられた後に舗装され、更に暫くして坂道部分もコンクリート張りとなっている。


坂を登ると普通車が一台通れる程度の道幅となる。これは私がくじ屋へ通っていたときから既にそうだった。舗装されていたかは覚えていない。

短く急な坂を登ったところが最高地点で、それより先は緩やかな下り勾配となっている。
この最高地点付近のブロック塀が始まる場所に昔からの境界石がある。


変電所の方を向いて撮影。塀のすぐ下にある。
春先から先は雑草に隠れてしまう。


ごく一般的な花崗岩を直方体に成形して上部に十字型の溝が掘られている。文字などはない。
昔の民地境界だろう。


この石はブロック塀の角真下にあるため割と目立つ。学童期の頃から気付いていたと思う。

片側がブロック塀、片方が道路と同じ高さの畑地が続く。
先の方でなぜか電柱が畑の中ほどに建っていることから、最初期の道は捻れていたのかも知れない。
大きな車が入ることを見越して畑側に寄せて建てたことも考えられる


前方には既に市道が見えている。
高いブロック塀が切れた左側にごく低い塀があって内側が畑になっている。


ここもくじ屋へ行った帰り道によく立ち寄っていた想い出の地である。低い建築ブロックは学童が腰掛けるのに格好の高さなのである。くじ屋で買った駄菓子は家まで持ち帰って食べることは滅多になく、およそ外で遊んでいるときのおやつ代わりに食べるものだった。くじ屋を出て数人が腰掛けられる場所として好都合だった。学童期はくじ屋へ一人で行くことは稀で、兄貴とか近所の子どもたち数人で行っていた。そしてここに腰掛け、くじの成果を披露したり買ったおもちゃを見せたりしつつ駄菓子を食べたのである。食べた後のごみをどうしたかは覚えていないが、畑に棄てるようなことはなかった。暇つぶしにブロックの上を平均台の如く歩くことは(別にこの場所でなくても)一度くらいやったと思う。しかし少なくともこのブロック塀に腰掛けて駄菓子を食べていて叱られたことは一度もなかった。

2段積みの建築ブロック、内側の畑、やや遠くに見える特殊な鉄骨造りの家庭用配電線柱など殆ど変わっていない。



この休憩ブロックのすぐ先がR地点になる。
前面の道路は市道恩田八王子線である。


建屋に寄せてステンレスのゴミ箱が置かれているが当然ながら昔は何もなかった。

現在のS地点の様子。
隣接する民家が解き除けられて駐車場となったため、直接市道笹山通り線まで見えるようになった。


市道まで出て反対側から撮影。
学童期の自分としてはこの状態をもっとも長く目にしてきた。


写真で左側にある車庫つきの家はかつて個人の商店だった。もうそろそろ年数も経ってきたから大丈夫と思われるので書くと、小学校のときの同級である。私が小学生時代の間はお店をなさっていたと思う。
いずれこの記述は独立記事または派生の相載せ記事として移動する予定

くじ屋街道と勝手に名付けたように、自分としては家からくじ屋までの往来が一番多かった。学校の登下校では決まった道を通ることが求められていたので常に国道筋を歩いていたが、物理的な距離はこの道が最短だったからである。この他に休日など恩田小学校へ遊びに行くときは南門から出入りするのでこの道を通るのが一番近かった。

中学生までは笹山方面の友達の家へ行くのに自転車で通っていたと思われるが、高校生以降殆ど記憶がない。特に自分で車を運転するようになってからはこの方面の用事もなくなり、恩田を後にする前からまったく通らなくなっていた。

野山時代も恩田町5丁目には縁あって秘密裏に訪れてはいたが、この道は元より昔の道がどうなっていたかは殆ど頓着しなかった。数十年振りにこの道を訪れたのは2009年4月10日であることが分かっている。
現在は記事向けの撮影は一通り済ませており、今後暫く訪れる予定はない。

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以上、恩田町5丁目の個人的に関わりのあった地区道の殆どを記録した。構想からここまでに数年が経過し、記事を書いている間にも随所で建物がなくなったり構造物が姿を変えるなどしている。撮影時期がバラバラな写真を援用している部分もあり分かりづらいかも知れないので、適正な写真が採取できたなら差し替える。しかし過去の個人的関わりなどを描写した部分は変わることがない。
出典および編集追記:

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