戦前の常盤通り

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記事作成日:2017/9/16
情報この記事は最初期から戦前までに存在した常盤通りについて記述しています。
現在の国道190号線の常盤通りについては こちら を参照してください。

ここでは、最初期の常盤通りができる以前の地勢から初期の通りおよび戦災で喪われるまでについてを記述する。
写真は現在も初期の線形を遺す旧新川橋。


後述するように、戦時期の大空襲で市街部が壊滅状態となった後に都市計画を一から行ったため、初期の常盤通りを今に伝える区間は旧新川橋の部分のみである。
《 歴史 》
【 常盤通りの形成以前 】
時間軸を何処に取るかにも依るのだが、現在の常盤通り周辺にまとまった人の関わり合いが始まるのは新川掘削以降のことである。地下上申絵図では海に面した砂州に緑ヶ浜とだけ記載されていて道はみられない。最寄りの東西の往来は、舟を操り上陸することができた明神(現在の岬明神)と琴柴付近に限定されていたようである。

福原時代より不毛なこの地の開拓が始まった。まず灌漑用水の確保として蛇瀬池をプロトタイプとした後に常盤池の築堤を元禄3年(1690年)に着手し、次いで寛政九年(1797年)に新川の掘削に取りかかっている。新川の掘削竣工より河口部東岸側に中津瀬神社が祀られたが、最初期は未だ東西の往来に乏しく新川沿いの道の方が誕生が早かったと考えられる。
緑ヶ浜には既に松があったと思われるが、福原時代から砂州に松を植えることが推奨された。これは松がある程度潮風に強く、内陸部への風を弱める防風林として機能するからである。馬術などの練習の地以外は広範囲に松を植え、それらを伐ることを決して許さなかった。地下上申には緑ヶ浜に道が記載されていないのは前述の通りだが、正規の道の体を成していなくとも馬での往来程度はあったと思われる。

常盤池の築堤後、灌漑用水の取り出し量調整のために本土手までの往還需要があった筈である。新川掘削以前は現在の琴芝や上宇部辺りに居住者が目立ったので、そこから往還していたと思われる。新川掘削後に緑ヶ浜へ人々が棲み着き始めてからは、本土手までの往還路は更に西へ伸びたと考えらえる。その経路は従来から暮らしがあった地と緑ヶ浜との連絡路にもなった。
【 最初期 】
緑ヶ浜に現在の常盤通りの原型となる道ができたのは更に時代が下った明治43年のことで、当時の宇部村建築係の末山真九郎が設計している。この道は居住地域の新川と常盤池を連絡する往還路とするために緑ヶ浜の松原を拓いて造ったことから常盤通りという名前がつけられたという。[1]したがって常盤通りという名称の常盤は明白に常盤池に由来する。この名称から常盤町が生まれ、常盤池からは常盤小中学校や常盤駅が派生したのが市内で相互にかなり離れた場所に常盤を含む地名が生まれた所以である。

前述のように新川のほとりへ人々が棲み着き始めてからも本土手までの往還需要は当然あったので、常盤通り以前から自然発生していた踏み付け道が存在していた筈である。初期の常盤通りがどの区間を指すものかは明確ではないが、旧新川橋を基準に東へ延びる経路を考えた場合は概ね以下の通りになると思われる。


初代の新川橋は明治41年に完成しているが、同じ場所にそれ以前から簡素な石橋や木橋が架かっていた時代があるらしい。当時の新川橋や常盤通りのモノクロ写真が宇部百景として知られている。また、昔の常盤通りの正確な線形は昭和12年発刊の宇部市街図に描かれているし、常盤通りを書き写した絵図や沿線に軒を連ねていた店舗などの資料が存在する。[2]また、宇部の代表的な場所を撮影した宇部百景において新川橋を2方向から撮影した写真が残っており、多くの書籍などで目にすることができる。写真でみる常盤通りは幅が5m以上あり、当時からすれば市街部に相応しい高規格な道路だったことが窺える。

昭和12年に前代石橋の2代目にあたるコンクリートの旧新川橋が架けられ現在に至っている。当初は歩道が一段高い構造だったが、後にこの部分は削られ車道とフラットとなった。
出典および編集追記:

1.「宇部ふるさと歴史散歩」p.43, 102

2. 例えば宇部市立図書館には戦前の常盤通りと商店などを記載した個人作成による絵図が寄贈されている。

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