首切り地蔵【2】

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記事作成日:2017/12/20
(「首切り地蔵【1】」の続き)

いくつか据えられているように見える岩のうち、上半分が不自然な形で繋がりかけているような岩があった。


元々は完全に一体化していたのだろう。横水平に割れ目が走っている。


そして片側は縦方向に裂け欠け落ちていたのだ。


首切り地蔵という名称をあらかじめ知っているだけに、その形状を目にするだけでこの岩のことを指しているのではと推察できた。割れて水平になっている面は石の他の部分よりやや新しい感じがした。

背後には形状が異なる礫石が数個転がっていた。
これは欠けた部分とは違うだろう。


その岩はいみじくも「首の皮一枚で繋がった状態」だった。割れ目自体は水平方向へ完全に貫いていた。


まさか…とは思いながらも私は岩の「頭部」を少し持ち上げようとした。しかし外観に反して上部の岩は下部としっかり固着していて微動だにしなかった。むしろ私が力を加えたことでポコッと外れでもしたら背筋が凍り付くだろう。

割れ部分をズームしてみた。
人為的に削ったのではと思われるほどに平面的である。それでも完全に平面で分離しているのではないらしかった。


ここまで明瞭な割れ線が走っていながら分離していないのが不思議だった。もしかすると既に一度分離してしまい原形を保持するために接合されているのではと疑ったが、ざっと見た限りアンカーなどの人工物はなかった。
しかしただ自然な状態で繋がっているだけなら、この岩は早晩上下が二つに分離するだろうと思った。この時点でどうしてこのような形状になったかの想像がついたからである。

水平な割れ線が見えていながら分離していないのは不思議ではあるが、このような平面的な割れ方自体は別に珍しいことではないらしい。外観は節理のなさそうなこの種の岩が意外に平面を形成しがちなことは、既に高合石を見てきたことで推測できた。他にも平面を作って割れている岩が沢山あったのだ。

精密な議論は岩石学の知識を要求するだろうが、恐らくこの種の岩は衝撃が加わったとき直線的なひびが入る性質を持つのだろう。そして一旦そのようなひびが入れば、紛れもなくそこが一番脆弱になる。雨が降れば割れ目から水が染み込む。異質のものが侵入すればそれだけで弱くなるし、冬場の深山では凍結という新たな力が加わる。水は凍ると体積が増えるので、割れ目に染み込んだ水は隙間を拡げるように働く。暖かくなって融ければ拡がった割れ目へ更に染み込む。その反復であれほど硬そうな岩が割れていくのだろう。

大岩郷では岩山が割れて今の姿になったと考えられている。あの岩も割れれば最初は不定形になるように思われる。しかし現地に転がる岩は意外にも丸みを帯びている。「長い間岩が雨風に晒されて…」などと説明されるが、それだけであんなに丸っこく削られるのだろうかと思ってしまう。それは単に雨が降りつけることで削られるだけではなく、割れに関しては先の氷結によるものもある筈だ。割れ目が拡がるとそこへツタ系の植物が入り込むことで更に拡大するだろう。

そういう訳で現地で実物を目にした段階から私はこれが地蔵様を意図して加工したのではなく形状の似た岩を据え付けただけではと考えた。処刑された人を弔う意味での地蔵様と考えるにはあまりにも自然の岩に近くて人為的加工性が感じられないからだ。

しかしその推論はあくまでも現地で目にしたものだけからのものである。実際にここが処刑場であったという資料があるかも知れないし、あるいは周辺にその可能性を示唆するものが遺っている可能性がある。
現地で見られるのはここまで取り上げたような岩のみだったので、他に何が手がかりがないか戻り際に周辺を少し探索してみた。

壮絶な竹藪の中に一本だけ目立つ樹木の残骸があった。
電柱など人為的に建てられたもののように思われた。


それ以外には農薬の入っていた袋など僅かに人工物がみられただけで、この地の履歴を窺えそうなものは見つからなかった。地面に竹由来の枯れ葉が積もっていて土の地面すら見えないほどである。

手がかりのないまま市道まで降りることとなる。
途中に僅かばかり苔に覆われた露岩がみられるのみである。


市道まで降りてきた。
ここから首切り地蔵を構成する岩が直接には見えないが、概ね峠の最高地点に存在するように思えた。


現地で観てきたものとその立地から、私の中では答が現れかけていた。人の往来がある踏み付け道の峠にはしばしばお地蔵様や石碑などが据えられる。その多くは峠を介してムラへ入ってくる悪しきものを封じ込めるために置かれたものだ。
現在こそ市道より高い位置にあっても、四輪が通れない遙か昔は首切り地蔵のあるもっと高い位置まで通っていた可能性があるだろう。そうなれば首切り地蔵と目される岩は、ますますお地蔵様と言うよりは塞の神を自然の岩に代えたような存在ではないかと思われた。

最初に見つけた立て札である。
首切り地蔵はここから市道に沿って峠の方向、切り通しの上に向かって歩いた先にあった。


最初見たとき、左側へ30mの案内板が分からずここより奥にあるのではと思った。竹藪の薄くなっている部分があってそこに平地がありそうに見えたからだ。もしかすると依頼者の言う処刑場がそこにあるのかも知れない。

乱雑に刈り取られた竹の奥には山道と認識できる踏み跡があった。
一面の竹と僅かばかりの転石のみで、人工物は何もない。


踏み跡をどんどん辿ると山の中で迷ってしまいそうだ。ごく普通の山道といった感じがしたし、不用意に踏み込めばまたイノシシ等の野生動物に遭遇すると思って引き返した。
そもそも直前の信田ノ丸城跡へ行こうとして襲撃されかけていたのだ

首切り地蔵があった方を向いて撮影。
標高を上げていく別の幅広い踏み跡が認められる。これは後年手を加えられることで出来た山道の一部かも知れない。


ざっと藪の中を目視した限り、いくつかの平地らしき場所があった。それぞれの区画はそれほど広くはないし、怪しい雰囲気のする岩などはまったく見られなかった。これらの平地はむしろかなり最近になって発生したものだろう。中程度の広さの平地がいくつか散在するとなれば、もっとも可能性があるのは普通の田畑跡である。処刑場跡ならもう少し広い敷地を造るものだろう。

このように首切り地蔵とされる岩があった場所以外は、周辺は竹藪であり精々田畑の痕跡が窺えるだけだった。自分の中でかなり判断材料となるものを画像採取できたので、ここまでを撮影して車に戻った。
《 帰宅後の分析 》
時系列ではこの後市道藤ヶ瀬黒五郎線を辿って県道まで出た。うべの里アートフェスタ会場の旧吉部小へ寄ってまた女子トーク(?)してきたのだが、カメラを落として撮影不能になったり野生動物に襲撃されかけるなどで散々だったんだよというような世間話にかまけて、首切り地蔵のことも忘れて帰宅してしまった。

もしかすると地元では首切り地蔵の存在が結構知られていて処刑場跡だったなんてことも資料として残っている可能性はあるが、限定で見てきたもののみから推論する限りでは、首切り地蔵と呼ばれる一連の並んだ岩は、処刑された人々を弔う意図で据えられたお地蔵様ではなく単なる塞の神を祀ったに過ぎない存在ではないかと考えた。本来は庚申塚の一形態に過ぎないのだが、首が半分斬られかかっている立像のような形の岩があったので後年首切り地蔵という名称を与えたのかも知れない。

処刑場説も個人的には否定的に考えている。たった一人や二人を斬首したのならまだしも、継続的に運営された処刑場なら墓場を伴うだろう。しかし首切り地蔵から歩いて行ける範囲に墓場はない。
あの岩自体が処刑された人のものだったとするなら、単純な自然の岩で代替すること自体が考え難い。墓の目印のみ造っておいて名前や年月などを何も残さないのは不自然だからだ。

首切り地蔵と呼ばれる一連の岩がムラ境を示すものというのは、現地の地勢からもかなり補強される。ちょうど市道の最高地点付近に据えられているからである。

国土地理院地図の昭和49年度版による現地の峠付近の航空映像を参照してみた。


山林と田畑が明確であり、峠前後の道路は赤茶けた色をしている。昭和50年度撮影の映像でも同様に映っていることから、道路の拡幅工事に由来する切土が写っているものと考えられる。四輪が往来できるように幅を拡げると共に、峠自体も切り下げられたのだろう。この結果、本来は峠にあって塞の神のように扱われていた一連の岩が高い場所に取り残され、道路が掘り割りで通るようになったと考えるのが自然だ。

以前も新規物件を記事化していたとき同様にしていたが、最初に総括記事を公開してしまうとネタバレになってしまうため一連の時系列記事を先行公開した上で総括記事を作成している。今後、新たな情報が入った折りには一連の時系列記事はそのままで総括記事側のみ編集追記する。詳細は以下を参照されたい。
総括記事: 首切り地蔵

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