首切り地蔵【1】

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記事作成日:2017/12/15
初めてこの物件を知り、現地調査して一定の結論を導き出すまでの過程を時系列でまとめてみた。なお、現地へ至るまでの下準備がかなり長い。現地調査レポートにはこちらから飛ぶことができる。
《 調査依頼 》
今年の秋頃だったろうか。仕事である地区を巡回していたとき携帯が鳴った。知らない番号だったのでちょっと身構えて応対した。発信者は以前中宇部岡ノ辻にある古いお墓について調査依頼を受けた方だった。このたびも何かよく分からないものを発見なさったようで、いち早く知らせたくて連絡されたらしかった。
「吉部の山奥に『首切り地蔵』というものを見つけたんだが正体が何なのか調べて欲しい。」
それは私にとって全く初めて耳にするキーワードだった。出先だったのですぐ確認はできずそれが一体何処にあるやらも分からなかった。依頼者はよほど興奮を覚えたようで、具体的な場所をとつとつと語られた。そして個人的に調べた限りではネット上にも手持ちの資料にもそれらしきものが見当たらないと言った。現地の様子やそこに置かれているものを見る限り、私は遙か昔の処刑場跡ではないかと推察したと話していた。

通常ならいきなり市内の物件を紹介されてもすぐ調査にあがることはできない。現地調査と一定の結論を出して報告するのを業務として行っているなら別だが、相変わらずそれは娯楽の一環である。しかも最近はワークショップからレポートまでいろんな方面へ顔を出し、あらゆる瞬間に何かの課題を抱える身である。まして市内の近隣地域を自転車で訪問するのが通例な私にとって吉部は充分に遠い。それでも依頼者にも私にとってもタイムリーであったのは、ちょうどビエンナーレが始まったばかりの時期という点にあった。

隔年で開催されることで今や世界的に認知されているUBEビエンナーレは今年が当たり年だ。ビエンナーレに合わせて市街地や周辺地区でもアートフェスタなるイベントが開催される。その中で吉部地区では旧吉部小学校を舞台として多くの催し物があり、Facebookメンバーのお一方が写真展示で参加している。私もそろそろ何かの形で活動に加わろうとしていたところ、私にとって吉部は未だコラムで物件紹介を行っていない地区の一つだった。このため私はビエンナーレ会期中に間に合うように吉部の案件のどれかをコラム化する企画を立てていた。私の頭の中では吉部の大岩郷か船木鉄道の大棚トンネルが候補にあり、コラムに合わせて写真を撮りに行く用事があった。

吉部地区に関する情報源として、他の校区と同様に郷土マップをふれあいセンター経由で入手していた。アジトへ戻ってから吉部の郷土マップを参照したものの、首切り地蔵というキーワードは見当たらなかった。まあ、資料になくとも吉部会場へ行ってどなたかに尋ねれば分かるだろうと思い、私はまず自分の業務を最優先するためにアートフェスタの始まった直後の10月上旬に大岩郷と大棚トンネルを訪れてコラム向けの写真を撮った。その後で吉部会場へ立ち寄ったところ写真展示を行っているFBメンバーに出会い、久し振りに女子トーク(?)を愉しんだ。話に夢中になるあまり、そのときは首切り地蔵の案件を尋ねるどころか思い出すこともないまま帰宅した。

それからおよそ一週間後のこと、別アングルからの撮り直し目的で再度吉部を訪れた。このときは郷土マップで見つけた吉部の高合(こうご)石なるものを探しに行くミッションを組んでいた。コラム化対象に考えてはいなかったが、なかなかアクセス困難な山奥であり攻略意欲を掻き立てられたのである。高合石の大体の場所は郷土マップに記されていた。

初めて通る道では今やかならずすることだが、現地へ向かう前に Google sv で近隣の道路を運転シミュレートした。目的地への案内板が路傍に立っていることが多いからである。そして実際、県道沿いに高合石の入口と思われる案内標識を見つけた。
大きいサイズで閲覧するには下の画像中にある「Googleマップで見る」リンクをクリックして下さい


そこは県道伊佐吉部山口線から浄円寺へ向かう分岐路という分かりやすい場所だった。分岐路は圃場の記念碑がある場所なので運転していてもすぐ分かる。そこで11月に入ってから高合石を尋ねるミッションを実行した。
《 首切り地蔵を案内するマップ 》
現地撮影日:2017/11/3
首切り地蔵の記事であるのに別件の記事が乱入して話がなかなか進まず申し訳ないが…Google sv で演習した通りに車を走らせ、圃場整備碑のあるらしい場所で車を停めた。
地図ではここになる。


そして先のsv画像にあるのとは若干異なるが、確かに高合石を案内する標識とマップが設置されていた。


マップには高合石だけではなく周辺地区にある奇岩類が写真付きで記されていた。
浄円寺へ向かうのとは反対の右側の道へ進めば、龍岩やむすび岩といった岩があるらしい。


マップ全体を眺めていたとき…気になっていた物件が掲載されているのを見つけた。
端の方に「首斬り地蔵」と書かれていたのだ。


首切り地蔵はこの時到達目的に設定していた高合石に対して尾根一つ隔てた道沿いにあるらしかった。林道枇杷ノ木笛太郎線と推察できる路線名も記載されていた。その方面にはもちろん行ったことがなく、林道ということから車で乗り入れるのが困難な道かも知れないと思った。この立て札がある場所から高合石までの距離に比べればそう大差はないが、直接往来できる道が記載されていない。そもそもマップを参照する限り、高合石ですらかなりの山歩きを要求されそうな気配だった。それでこの日は当初のミッション遂行を最優先するということで、車で浄円寺近くまで乗り入れて高合石探索を優先した。かなり厳しかったが高合石まで到達し写真採取に成功した。

帰りは再びここまで戻ってきたものの、大岩郷の追加の写真が欲しかったことと既に時間も押していたこともあり、首切り地蔵の位置を示したこのマップをカメラに収めて持ち帰りこの日のミッションを終了した。

帰宅後、マップを元に首切り地蔵のある場所の道路を調べてみた。林道の文字があったので相当な荒れ道を想像したが、それは南へ降りる枝道のことで、赤丸で示されている首切り地蔵のある前面の道は認定市道だった。幅の広いアスファルト舗装路で、Google sv カーもデータ採取していた。

それで再び現地シミュレーションを兼ねて周辺の道を走ってみたところ、まったくアッサリと首切り地蔵を案内する標識を見つけてしまったのである。
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更に手持ちのデータで調べたところこの道は市道藤ヶ瀬黒五郎線であり、当然ながら最初に立て札を見つけた圃場整備記念碑のある県道に繋がっていた。ちょっと時間を割いて車を走らせれば高合石以上に簡単に到達できると思われる場所だった。

まあガツガツすることもない。ビエンナーレの終了する11月下旬までにもう一度吉部を訪れる予定にしていたからである。こうしてアートフェスタ終了5日前の21日、今度こそ首切り地蔵の調査で再度吉部地区を訪れた。
《 現地踏査 》
現地撮影日:2017/11/21
上のマップで見られる市道と林道のT字路部分である。
Google sv で見えた立て札を確認しようと車を停めて歩き出していた。


時刻は午後1時半。実のところこの日は全く信じがたい不運が続いてかなり意気消沈していた。今富ダムへ立ち寄り写真を撮り直した後、そのまま北上し願田橋を渡って信田ノ丸城跡を訪れて黒五郎経由でここへ出てくる予定だったのである。ところがあろうことか願田橋から先の市道今富大河内線が工事による全面通行止めで通れなかったのが始まりだった。やむなく迂回した狭い道を経由して笛太郎を通りそこで若干の撮影を行っている最中、不覚にもアスファルト路面上でカメラを落とし一時期は完全に動かなくなった。応急処置をして何とか撮影だけは出来るようになったがズームが動作しなくなった。その後もめげずにわざわざ遠回りして信田ノ丸城跡へ向かおうとしたものの、山道で野生動物に襲撃されかけて這々の体で逃げ帰り、更に復路ではパトカーに挙げられそうになるなど、まったく散々だったのである。まあこの辺りの詳細な事情は話すと長くなり過ぎるから[2]を読んで頂くことにして…

そしてこれから向かおうとしているのは、依頼者によって江戸期の処刑場跡だったのではないかなんていう案件だ。今日は潮が悪いからこれ以上動くなという忠告かも知れないのを敢えて調査すると、仕舞いには私も成敗されてしまうのではという気もした。

どれ位離れているのだろう。T字路部分に車を停めたままsv画像でも見えていたカーブミラーの方へ歩いた。


「あれだ」と思った瞬間。
峠にかなり近いところの路傍に古い立て札が見えかけていた。


「首切地蔵」と書かれている。立て札は相当以前に設置されていた感じがした。


もう少し先なら車を移動しようとも思ったが、わざわざ引き返す必要もなかった。もっとも私は既にショルダーバッグの中に替えのバッテリーや携帯電話を入れるという歩行探索モードに入っていた。

で、立て札は分かるとして一体何処にあるのだろう?
立て札のある場所の周辺は人が立ち入らない竹藪で、立て札を見た真っ直ぐの方向が開けているように思われた。しかし野ウサギの視点で観察しても周囲にお地蔵様らしきものは見えない。まして踏み跡らしきものもなかった。

やや離れた竹藪の端にもう一つの案内板があった。
左向きの矢印が見える。その下には30米と書かれていた。経年変化でそれ以外の文字は何も読み取れなかった。


左と言えば、小さな峠越えに向かう市道に沿う形で斜面を登っていく方向だ。
足元には苔生した礫石が散らばっていたが、お地蔵様らしきものは見当たらない。


道路から離れないように斜面を登っていく。
周囲は壮絶な竹藪だ。日射が遮られるため下草などがあまり生えていない。このため見通しは利きづらいものの歩くのにそう困難はなかった。


30mという距離は私の場合、普通に歩いたときの概ね42歩に相当する。[3]正確に数えていたわけではないのだが、斜面で足取りも小刻みであることを差し引いてもずっと遠く感じられた。一面竹藪で一体何処にあるのか分からないという心理的な影響もあったのだろう。

下を通る市道が見えなくなった頃、竹藪と切り通し部の境辺りに立て札を見つけた。


案内板にある30mよりもずっと遠い感じはしたが、それでも今までがあまりにも酷い状況だったので後から思えばこの首切り地蔵の踏査がもっとも簡単だった。

竹よりも低木の方がやや優勢な場所に、その立て札といくつかの石像があった。


周囲にこれほど大きな石像はみられない。縦に細長い岩が数体置かれていることから、人為的に据えられたもののようだ。


しかしこれを地蔵と呼ぶには…どうだろうか。
例えばこの岩など。見るからに墓石のような形状をしているが、表面には文字は何もみられない。また、お地蔵様なら大抵は石像の前にお供え物をする壺や瓶などが置かれているものだが、そういった人工物がまったくない。


石像の前にある低木も最初は供えられた榊と思った。しかしよく見るとそれは完全に地面へ根を下ろしている。たまたまここに生えているだけだ。
更に言えばこの低木は榊ではなくヒサカキの類である

隣接している別の石像と言うか岩。
これも人為的な加工を思わせるほど整った直方体である。まるで塗り壁のようだ。しかし文字は何も刻まれていない。


このような岩が概ね等間隔で数個並べられていた。そのいずれもに文字などは見られなかったし供え物などもなかった。


この時点で私は首切り地蔵と呼ばれているこれらの石像について、かなり確信を持てる答が見え始めていた。名称として首切り地蔵と呼んでいるだけで、実のところ自然の岩ではないだろうかと。その岩も格別珍しいものには見えなかった。サイズや形状こそ異なるものの外観は大岩郷や高合石にみられるような火山性の岩という点が共通していた。

しかし首切り地蔵なんて物騒な名前を与えているからには、相応な謂われがあるのだろう。そして据えられている岩を観察しているうちに恐らくこれだろうと思われる理由を見つけた。

(「首切り地蔵地蔵【2】」へ続く)
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|調査依頼物件(要ログイン)

2.「FBタイムライン|11月21日の行程(要ログイン)

3. 5mを7歩(10mを14歩)という数値を覚えていた。これは土木時代の「ステーションナンバーから+10までが概ね14歩」という経験則である。

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