首切り地蔵

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記事作成日:2017/12/17
首切り地蔵とはは吉部の枇杷の木地区、市道藤ヶ瀬黒五郎線の峠付近にある数体の自然岩である。
写真は現地での撮影。


位置を地図で示す。


市道の峠付近に相当する場所に数体の石仏のように見える岩が据えられている。特定はされていないが、首切り地蔵という物騒に思える名称は、首から上が半分切り欠かれているように見えるこの岩に由来するものと思われる。


現地の案内板では首切地蔵と表記されている。また、県道伊佐吉部山口線から浄円寺に向かう入口付近にある案内板では首斬り地蔵と表記されている。ここでは暫定的に首切り地蔵の表記を用いている。
調査依頼を受けてから場所をつきとめ現地視察を行うまでの時系列記事。全2巻。
時系列記事: 首切り地蔵【1】
《 首切り地蔵の正体について 》
首切り地蔵についての謂われは何も聞いていない。これまでのところ参照された資料にも由来はない。以下の論述は、現地にある現物と周辺の状況を踏査した上での判断である。

情報以下の記述には個人的見解が含まれます。

現地に据えられた石仏状の岩は、お地蔵様ではなく無文字庚申と呼ばれるものの一形態ではないかと考える。無文字庚申とは庚申塚と同義で、特異で目立つ形状をした岩をそのまま据えることで庚申塚に代えた史跡である。同形態のものが東岐波のサヤノ峠入口に知られる。
首切り地蔵という名称からは斬首により処刑された人々を弔うために祀ったお地蔵様が想起されるが、その目的で据えたお地蔵様であることは元より近くに処刑場跡があったかも知れないという説についても否定的に考える。そのように判断する理由は以下の通りである。
(1) 文字が何も刻まれず供え物なども存在しない。
(2) 周囲に墓場が存在しない。
(3) 枇杷ノ木と藤ヶ瀬を結ぶ道の峠に据えられている。
いくつか据えられている岩は等間隔に並べられており、人為的に配置した要素が感じられる。そうでありながら岩自体には精々荒削りに加工した形跡が窺えるだけであって文字などはみられない。もし処刑された人々を弔う意図があるなら石仏を据えるものであって、誰の目にも若干外観が変わっている自然の岩で代用することなど考えられない。

墓標が容易に入手できない環境の場合、特に目立つ岩を墓石に代える事例は一般的である。(→「墓地に関する総括記事」を参照)しかし斬首により処刑された人々を弔うなら、対象者はまず一人ではない。それを自然の岩に代表させるとは考え難い。

市道より入って首切り地蔵の周辺を歩き回ったが、人の手が入った平坦地がいくつか観測されたものの無縁仏の類の墓は存在しなかった。このことは首切り地蔵の近隣に処刑場があったことを否定する一つの材料である。
もしここが処刑場であったとすると、明らかに人里から離れている。罪人をはるばるここまで連れて来て処刑したなら、近くに埋葬するものである。死後に墓標を立てるという風習以前なら、死者を墓場に埋葬せず深山や沢地へ棄てに行っていただろうか、それは処刑という制度とは時代が合わない。この地で斬首し、遺体は再び別の場所まで運んで埋葬していたと考えるには無理がある。

一連の岩が峠付近に据えられているという事実は、それが無文字庚申であることを強く示唆する。邪悪なものは古来、峠のような境界地からムラに侵入してくるものと考えられた。山地の場合、ムラ境は概ね峠であるため、こういった場所には悪霊を塞ぐ意味での塞の神が祀られた。その風習はやがて旅人の往来安全を願う道祖神や庚申信仰と併合されていった。重要度が高い道や信仰心の篤い地域では、かなり目立つ庚申塚や猿田彦、道祖神が存在することが多い。他方、初期には特異な形をした岩をそのまま据えただけものがあり、その一形態が無文字庚申である。単純に敷地境界を定める意味も込めて峠に岩を据えたり棒状のものを立てることは一般的であり、立石や榜示ヶ峠といった地名に反映されている。

首切り地蔵の下を通る市道はちょうど峠部分である。現在は道路が数メートル低い位置にあるのは、四輪が通れるように峠を掘り下げた結果と考えられる。元は首切り地蔵にかなり近い高さまで上り下りする峠だったのだろう。この道路工事は昭和40年代後半に施工されている。(→「帰宅後の分析」を参照)
【 名称の由来について 】
首切り地蔵という名称が与えられたのは、もしかすると近年(少なくとも大正期以降)のことかも知れない。それと言うのも特異な形状をした岩が自然に観察される場所は、概ね小字や小名にそのまま伝わっているからである。吉部地区では大岩郷、耳観音、高合石といった奇岩が知られ、それらは全て存在する場所にほぼ同一表記の小字や小名が存在する。しかし首切り地蔵に類する地名は明治期編纂の地名明細書には収録されていない。藤ヶ瀬小村には高合石の他に狐岩や辰岩といった小字・小名が知られるのみである。

結局、首切り地蔵という物騒な呼称は、峠付近に並べられている岩のうちの一つに水平に切り欠かれたような形状のものがあり、半ば斬首されかけた人体のように見えるため後年そう呼ばれるようになったのではないだろうか。
【 現地の岩の来歴について 】
無文字庚申を仮定するなら、現地にある一連の岩は半加工と考える。高合石のように完全な自然の所作ではなく、元々あった場所から移動させたり適宜削るなど手を加えている。現地にある岩はどれも地山から突出した状態であり、しかもほぼ一定間隔で直線上に並んでいるからである。自然な状態でこのような配置になることは確率的に起こらない。峠の往来路に向けて並べるのは、他の場所のお地蔵様などを含めて普通にみられる。

首切り地蔵を代表する上部が水平に切り欠かれたような岩の形状は、自然由来と考える。
これは高合石を含めて近辺にみられる岩の特性で、外観は非常に堅そうなのだが衝撃を受けると面を形成して割れる性質がある。


このような岩の生成理由は衝撃などを受けて僅かにひびが入ったところに水が侵入し氷結することで割れが拡大するためと考える。深山に据えられた石仏に首から上が欠けているものが見られるのは同じ現象で、しばしば心ない来訪者による破壊的いたずらと間違われる。
【 結び 】
冒頭に述べた通り、以上の考察には地元在住者の聞き取りなどは反映されていない。未参照の資料によっては、一連の仮説には反証の余地があることを断っておく。
《 Googleストリートビュー 》

《 個人的関わり 》
前述の通り、首切り地蔵の調査は刈川墓地に近い中宇部岡ノ辻にある古いお墓についての報告があったのと同一人物からの依頼により行われた。どのような経緯で首切り地蔵を見つけたのか聞いていなかったが、持ち合わせの資料などをあたっても判然とせず正体が分からないと言っていた。吉部地区の郷土マップは早くに入手していたが、マップに首切り地蔵の記載はなく案内板で確認したのが初めてであった。
出典および編集追記:

1.

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