西蓮寺坂【1】

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現地撮影日:2016/9/23
記事公開日:2016/10/23
西蓮寺坂の総括記事を作成公開してから相当な期間が経ってしまったが、ここで時系列のレポートを公開しようと思う。
他の多くの名前がある坂道と同様、西蓮寺坂も現在はアスファルト舗装になっている。しかし細かいところまで観察していくと現代でも子を抱かせようとする幽霊が出てきそうな雰囲気は感じられる興味深い場所だ。

なお、ここ最近の記事で言及しているようにカメラの調子が悪く、普通に撮影すると白トビが起きて見づらい画像になる現象が頻発している。現地は逆光な上に強い光と日陰が混在していて正常なカメラでも明瞭な写真の撮影が困難な場所だ。このせいでどう頑張っても非常に見づらい写真しか採取できていない。この状況はまだカメラが正常だった最初の訪問での撮影でも同様だった。
不明瞭な画像のせいでおどろおどろしい雰囲気を醸し出す効果が出ているとは言えるものの、実際はそんな積もりもなかったということでご了承頂きたい。

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萩原方面への定例業務に向かう折りにちょっと足を伸ばして東岐波まで自転車を漕ごうという気になった。気候がよくなりつつあるし、最近殆ど近場ばかりで遠出が出来ていなかったので。その候補地として西蓮寺坂を選んだ。
総括でも書いているように西蓮寺坂を訪れるのはこれで2度目である。もっとも最初の一回は現地へ行こうとして失敗していた。一度覚えれば大丈夫だが、ちょっと間違いやすい場所があるのでその辺りを含めて書いておきたい。

国道を離れて磯地西公会堂へ向かい、建物の横を通り過ぎる。そして逆光を浴びつつ西へ進むとこのような三差路に出会う。


この場所をポイントした地図を示しておく。
上の写真は西を向いて撮影していることになる。


道路構造としては、磯地西公会堂から来た場合本線は右折する形だ。路面を見ても右折する方向に車の轍が着いている。実際、初めてここを訪れたときも深く考えることなく右折してしまったために辿り着くことができなかった。西蓮寺坂へ行くにはここを直進である。

道路管理上も公会堂からここをそのまま直進する路線が市道片倉磯地線となっている。右折する側は市道磯地北原線という別の路線だ。
この分岐点には何の案内板も出ていない。往来する車はまったく迷わずここを右折し、直進する車はまずない。後で分かるように直進したところで車では何処にも抜けることができないし、西蓮寺坂と言っても本当に坂とお寺跡の敷地しかない所だからだ。

西蓮寺坂を含む市道関連の記事をあらためて書くことは当面ないのでここで書いておくと、市道片倉磯地線(以下この記事では「古道」と書くことにする)は管理番号が一ケタなので主要な市道の部類に入る。しかしこの区間の通行需要は極めて少ない。モータリゼーション隆盛期以降は車が通る道はこの古道を上書きすることなく別の経路を取った。市内では西蓮寺坂の知名度が殆どない所以でもある。
しかし「西蓮寺坂・ここを直進」なんて小さな案内板はあっても良いと思う

さて、分岐路を直進すると古道は一旦丘から降りる形になる。
進行方向右側には最近どこでも目に付く太陽光パネルが設置されていた。
一昨年訪れたときにはまだなかった


早とちりしてはいけない。この区間は単なる下り坂であって西蓮寺坂ではない。それにも関わらず西蓮寺坂のこの記事の中で掲載したのには理由がある。
西蓮寺坂に向かうのに何故か一旦高度を下げている。
磯地西公会堂は標高20m程度の丘の上にある。そして古道は公会堂の横を通過して間違いやすいさっきの三差路を直進してきた。古道はそこから丘を降りて五反田川の支流の一つになる沢地まで下ってしまうのである。
前掲の地図を参照すると、この北側にはもう一本の道(恐らく地元管理道)が通っている。その道は高度を下げずに尾根伝いとなっている。自然発生する古道は多少の起伏よりも距離を優先するようだ。

こうして古道は一旦耕作田のある沢地まで高度を捨て去る。
徒歩ならともかく転がって進むタイプの乗り物では辛い局面だ。


漕がずにダラダラと坂を下っていく。楽と言えば楽だが、藪漕ぎ覚悟でもなければ引き返す以外ないので帰りは登りである。
下った地点の高さはやや離れた国道とあまり変わらないレベルだ。そうなれば磯地西公会堂のある丘へ登らず国道から直接この沢地を遡行する道があってよさそうなものだが、現状は耕作者が往来する程度の通路があるだけで、自転車で安泰に通れる道もない。この辺りの集落は磯地西公会堂を中心に散らばっているので、古道が昔から人々の暮らしがあった地を通るのは道理である。

ここからは沢地の端を直線的に伸びている。
この直線路は結構印象的だ。


地図でも200m程度の直線路となっている。沢尻に近い部分は現在も耕作田だが、先の方は休耕田となっている。
この辺りから既に緩やかな登り坂が始まっているので、西蓮寺坂と呼ばれる坂の開始地点は明瞭ではない。自転車を漕げば登りと分かるものの徒歩なら平坦路と変わらない労力だろう。

直線路の末端あたりから明白な上り勾配が分かるようになる。
坂を登る方向は殆ど西進なので、午後訪れると例外なくこのような逆光に悩まされることになる。


このため西蓮寺坂を訪れてきれいな写真を撮りたいなら午前中に訪れるか、一般の物件とは異なりあまり日射が強くない日の方が写り具合が良いだろう。日差しがきついと逆光ばかり目立ち、木漏れ日との明暗差が大きくなり過ぎて綺麗に撮れない。

直線路の端までやってきた。
この辺りから自転車を漕ぐも脚に力を入れなければ進めない程度の坂になる。


やっとうざったい日照を避けられる日陰に入った。
よほど通る人もないのか、枝垂れかかった木はそのままで路面にも雨で流れた砂利が溜まっていた。


丁寧に撮影しながらの進攻なので自転車から降りて押し歩きしている。
見えてきた。象徴的なあの場所が…

休耕田を挟んで右側奥に見える薄暗いところが西蓮寺跡とされる。
舗装路とは言え路面は砂利だらけだ。


更に坂の勾配がきつくなる途中に、西蓮寺跡への入口がある。


路面の状況。まるで車が通った形跡がない。
特にこの辺りの日陰部分は苔が生えまくっていて普通に歩いていても滑りそうだった。


さて、この近辺はちょっと丁寧に見ておかねばなるまい。自転車を道路のど真ん中に放置して行動開始した。大丈夫…往来する車なんて金輪際ありやしない。

西蓮寺跡への分岐先に石柱とポストが見られる。
それらは下刈りされない草地へそのまま置かれていた。


「西蓮寺跡と子を抱かしょうの坂」と彫られている。見るからに新しそうなこの石柱は東岐波郷土史研究会によって据えられている。設置時期は平成11年3月22日となっていた。何もなしでは場所も分からないので費用を出し合って据えたものだろう。
この種の石碑設置にはもっと公費を充てても良いと思うのだが…


初めて訪れた人の視線をかならず惹きつけてしまうのが、この曰くありげなポストだ。
先の石碑よりも後ろに設置されている。一般家庭で郵便物や新聞を受け取るのと同じタイプのステンレス製だ。


ポストのすぐ裏側が後述する西蓮寺跡である。言うまでもなく家は無い。家がないのに郵便物などを受け取るポストが立っている。そのため西蓮寺坂の由来を知って訪れた人は、現地のおどろおどろしい雰囲気とも相俟って鬼太郎の妖怪ポストを想像してしまう。

これは郷土史研究会の方が現地で子を抱かしょうの坂や西蓮寺跡について知ることができるように資料を置いておく目的で設置されたポストである。既に色褪せて文字が読めなくなっているが、一昨年訪れたときには微かだがまだ側面の文字が読めていた。
もっともこのときから既に資料はなくなっていた…当時撮影したポストの映像

東岐波校区と西岐波校区は領域が広く含まれる史跡や遺構が多いからか、主要な訪問地にはこういった来訪者向けの石碑などがよく整備されている。その他の校区に目を向けると、その整備状況は活発に活動している郷土史研究会や個人の研究者にかなり依存する。市街地に近い校区では、注目すべき遺構をいくつも抱えていながら郷土マップに掲載がなかったり、あるいはマップ自体が制作されていなかったりする。

さて、西蓮寺跡がすぐ近くなので立ち寄ってみよう。
西蓮寺跡については特筆すべき事項がなく(と言うか充分に知られておらず)今後の記述が増えるとは思えないので、本時系列記事にそのまま書いておく。
【 西蓮寺跡 】
石碑の少し手前側、右の方にかなり広い敷地がある。
ここに西蓮寺があったとされる。


西蓮寺について知られるところは恐らく殆どない。少なくとも私の手許にはどんなお寺であったか等の資料はない。郷土史研究会の方なら詳細をご存じかも知れない。
ついでながら地名としての西蓮寺についても書いておくと、西岐波・東岐波地区に関して制作された小字絵図に西蓮寺の記載はない。地名明細書にも見当たらない。ただし廃された地名というのではなく、市道の路線名に持つものがある。(市道西蓮寺王子白岸線)一般に表には出て来ないが、この辺りの耕作地や私有林などには西蓮寺が地名として現れる筈である。いわゆる耕地字とか山地字といった部類だ。それらすべてについてまで捕捉するのは極めて困難で、今のところ単発的にしか調べられていない。[1]

さて現在はお寺跡とは言っても敷地があるだけだ。私有地になっているかも知れないが現状を偵察するということで…

軽トラ程度が出入りすることはあるらしくいくつか轍がついていた。
敷地の端にコンクリート瓦が積まれている。一体これは…


まさか子を抱かしょうに登場する女が参拝していた西蓮寺がコンクリート瓦葺きな訳もないので、跡地を利用して民家か倉庫が建っていたのだろうか。瓦の枚数がそう多くないから、小屋を解いた跡だろうか。

敷地の奥の方に堰堤のようなものが見える。
ここから見ても異様な雰囲気がする。


場所によっては轍がかなり深く掘られていたことから足元の悪さが理解された。
大変に湿気の多い場所で、時期柄さっそくヤブ蚊がまとわりついてきた。


初めて西蓮寺跡を訪れたときもここは接近している。今回はその時以上に足元が悪い。スニーカー履きで不用意に歩き回っているとくるぶし近くまでハマッてしまう場所もあった。

何とか堰堤のような場所へたどり着いた。そこでカメラを構えて撮影したのだが…まともに映像を結ばない。異様に煙が立ったような写真になってしまうのである。


すぐ近くでカメラを構えても同じだった。ファインダーではちゃんと見えているのに、記録後液晶画面で一瞬再生される映像は酷くボヤケていた。また白トビの発作が始まったのだろうかと思いかけた。
例えばこのような映像とか

原因が分かった。言うまでもなく霊の仕業などではなく、カメラの白トビを抑えるためにISO感度を可能な限り小さく設定していたからだった。明るい場所なら問題ないが、薄暗い場所だと光を取り込もうとしてシャッタースピードが遅くなる。このため僅かな手ブレでも拡大されてしまうのだった。元々が暗い場所では白トビは起きづらいので、ここだけISO感度を標準に戻してみた。

今度は巧く撮れた。
堰堤のようになっている内側は小さな溜め池になっていた。水は僅かばかりしか溜まっていない。


流れ込む小川がないので湧き水が自然に溜まっては蒸発するを繰り返しているようだった。
投棄されたゴミ以外に人工物は見当たらなかった。


このような窪地が自然発生することはまずあり得ないので、西蓮寺時代からあった庭園の池の一部か、それより後年に耕作地の用水を賄うために造られた補助池だろう。

この他には最近のものと思われる洗面所関連の部材が放置されている以外、人工物も古そうなものも見当たらなかった。もっともあまりに足元が悪いしヤブ蚊は酷いしで、長居してまで周囲を調べる気力も起こらず引き返しにかかった。

(「西蓮寺坂【2】」へ続く)
出典および編集追記:

1. 桃山配水池の近く字開立付近の堂龍田(どうりゅうでん)という耕作地についての指摘を受けたことがある。資料によっては堂籠田と誤記されたものもある模様。地名明細書にも小字絵図にもみられず、耕地字と思われる。このような種の地名は現地の土地保有者か登記簿の公図以外表に出てくることはない。

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