大棚トンネル

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記事作成日:2017/10/10
最終編集日:2019/2/16
大棚(おおたな)トンネルは、かつて存在していた船木鉄道の大棚吉部間に存在するトンネルである。
写真は大棚側からの撮影。


広域地図でトンネルの位置を示す。
航空映像でのズーム映像はこちら


後述するように船木鉄道は昭和中期までに全線が廃止され県道や市道に転用されたり、部分的に民間へ払い下げられて線路敷の痕跡が遺る場所は次第に減っている。大棚トンネル前後の線路敷は沿線に田を持つ住民の作業道として使われており、トンネル自体も現役時代のほぼ完全な姿で遺っている。レール等の附帯設備はなくなっているが、トンネルは随時通り抜けが可能である。

なお、総括記事を作成している現時点では記述内容が少ないので、トンネル南側に復元されている大棚駅と周辺の鉄道線形についても記述する。一連の記述は、関連する部分の記述量が増えたなら移動する。
《 現地の概要 》
終点吉部市側から撮影。


トンネルは5層のレンガ巻き立て構造である。
最上部に扁額は存在しない。


それほど著名ではない鉄道トンネルの場合、名称はしばしば坑口横の壁を長方形に白くペイントした上から描かれる。しかし大棚トンネルではその表示も見受けられない。このことは後述するように、建設当時は隧道という認識が薄かったからかも知れない。

トンネル内部の様子。長さは37mと短く、内部で僅かにカーブしている。
側面は垂直壁となっているのが異質である。


旧来の鉄道トンネルでは断面中ほどの幅が最大で地面近くではやや窄まる、いわゆる馬蹄形をしているのが普通である。この構造も大棚トンネルが一般にみられる山岳隧道としての設計ではなかった可能性を示唆する。詳細については「特徴的な構造」を参照。

間知石で垂直壁を造り、巻き立て部からレンガに変わっている。
レンガは従来型(桃色レンガではないという意味で)を使用しており、経年変化で灰分が染み出て部分的に変色している。


天井部。変色がかなり目立つが、思いの外煤の付着はみられない。
レンガの収まりも良好で、ずれたり剥がれ落ちた部分はまったくない。


天頂部のレンガ配置はそれほど精密なものではない。
曲がっていたり、途中で幅が合わなくなって切り欠きを押し込んでいる部分もある。


トンネル内部より外を撮影。
垂直壁+半円というシルエットが秀逸で、しばしば吉部地区を案内するパンフレットなどにも採用される。


現在では大岩郷や幽霊寿司などと並んで、大棚トンネルは吉部を代表する代表的な郷土資産の一つとして認識され始めている。
《 成り立ち 》
以下の記述には船木鉄道自体の成り立ちも含まれる。船木鉄道の総括記事を作成した折りには該当部分を移動する。
【 建設と廃止 】
船木鉄道はかつて西宇部駅(現在の山陽本線宇部駅)から船木を経て吉部に至っていた路線で、大棚トンネルを含む万倉吉部間は現役時代の最後期に敷設された区間である。大正15年7月に万倉今富間、11月に今富吉部間が開業している。[1]順次北へ延伸していることから建設工事もその順で行われたと推察されるが、大棚トンネルの正確な着工竣工時期は資料の調査が必要である。

太平洋戦争期には全国的に不要不急路線の見直しがはかられ、万倉吉部間は昭和19年に鉄材供出に係る法令によりレールが撤去された。戦後から昭和中期まで西宇部万倉間の営業は続いていたが、万倉吉部間はレールが敷設し直されることがないまま廃線となったため、全線においてもっとも営業期間が短かった区間である。

船木鉄道の営業終了後はすべての区間のレールや橋桁などが撤去され、線路敷の多くが市道や県道に転用された。宅地に転用され民家が建っている場所もある。周囲より高く築かれた路床やコストを投じてまで除却する必要性に薄い橋台などは今もそのまま遺っているが、道路改良や宅地開発の進んだ場所では昔の線形も分からなくなっている。山間部で現在の道路と重ならなかった区間は地図を参照する限り現在も遺っているようだが、状態はまだ詳しく調べられていない。
【 郷土資産としての再整備 】
大棚トンネルを含む周辺の区間も田へ向かう農道は整備されていたものの、トンネル周辺は平成初期まで放置されていたようである。切り通し区間から流れ出た土砂で旧線路敷が埋まり、草木が生えて荒れた状態であったという。この状況は、車社会が進んで里道の普請がされなくなり再整備の折には発掘同然の作業が必要だったという千林尼の石畳道の再整備に似ている。それでも一部の鉄道マニアや船木鉄道の研究家により大棚トンネルの存在は早くから注目されており、整備前に撮影された写真が知られる。トンネル内部まで土砂が流れ込み溜まっていたものの、断面径が充分に大きく当時から通り抜けは可能だったらしい。

その後歴史資産見直しと郷土ツーリズムの流れにより再整備され、現在では一年中通して安心して歩ける散歩コースとなっている。定期的な草刈りやサクラの植樹、東屋の設置などは地元の有志によって構成される「夢ゆめクラブ吉部の郷」以下「当クラブ」と略記)の活動によるものが大きい。

トンネルの周辺には竹が多くしばしば垂れ掛かってきた枯竹が景観を妨げる。当クラブでは会員が定期巡回して枯竹の除去や草刈りを行っている。トンネル前後の切り通し区間は湧水で路床が浸りがちになるため、古い枕木を敷いて歩きやすくしている。
しばしば尋ねられるようだがこの枕木は船木鉄道時代のものではなく他の路線からの転用である


更に当クラブでは線路敷沿いを桜並木にする「千本桜計画」や休耕田のコスモス畑転化、ホタル祭りなども手掛けている。この活動は2017年のアートフェスタ開催期間中、アクトビレッジ小野において「暖ったか山口 人・ひと」のパネル展示により紹介された。
【 トンネルの活用 】
大棚トンネルはそれ自体が近代化産業遺産に類するものと位置づけられるが、その秀麗な外観を愛でるだけではなく一定の長さを有する閉塞空間であることを利用して簡素な音楽会の場として利用されることもある。うべの里アートフェスタでは、トンネルコンサートと題して演奏家を招聘し音楽会が開催されている。
《 特性と考察 》
記述量が増えてきたので、以下の項目は船木鉄道の線形について考察する記事を作成した場合は移動する。
【 特徴的な構造 】
大棚トンネルの坑口をよく観察すると、昔からある一般の鉄道トンネルに見られるような断面とは異なっていることに気付く。多くの鉄道トンネルは馬蹄形、即ち上部が円弧で下部は中ほどより下がやや幅が狭まる形状である。
写真は山口線の木戸山隧道


ところが大棚トンネルでは下部が垂直壁となっている。これは大棚トンネルが通常のトンネルにみられるような山岳工法ではなく、開削工法によって造られたためと考えられる。そのことはトンネル上部の土被りの薄さからも理解される。

最も古典的な山岳工法によるトンネルとは、トンネル上部にある地山を一切崩すことなく施工されるものを指す。[2]即ち子どもたちが砂山でトンネルを掘って遊ぶときの手法と同一である。砂山の片側ないしは両側から上部の土を崩さないように指先で砂を掻きだし(大抵は友達と協力して)反対側まで貫通させるだろう。険しい峠にトンネルを掘るなど山間部では殆どがこのスタイルである。そして大棚トンネルはこの古典的手法ではなく別の方式により造られたと考えられる。

山岳工法でトンネルを掘るには、その上部に充分な厚みをもつ地山の存在が必要である。砂山遊びをしたことのある子どもなら経験的に学習しているように、いくら砂山が相応に締め固められていたとしても、掘ろうとするトンネルの径に対して上部に乗っている砂の厚みが足りないと、掘り進むうちに上部が崩れてしまう。トンネル上部に載る土砂の荷重が巧く横方向へ分散されないからである。大棚トンネルが貫通している上部を観察すると、トンネルの径に対して土被りが同程度しかなく、このような場所に山岳工法でトンネルを掘ろうとすると間違いなく途中で天井が崩れ落ちる。現在あるレンガで巻き立てられたアーチ部分は、トンネルを掘り進みつつ内側から補強したのではなく後から覆われたものだろう。

即ちこの場所に鉄道を通すにあたって、最初は実直に列車が通行可能な程度の幅をもって線路より高い位置となる丘陵部を突き崩して切り通しを造ったと考えられる。このとき丘陵部が硬い岩がちな地質であれば掘削に苦労はするが、側面から崩れる心配が低いためそのままにするだろう。実際、充分に堅牢な地質をもつ場所にある切り通しでは、両側が衝立のように聳え立った深い堀割のまま運用される。大棚トンネルが造られることとなったこの場所は、恐らく風化の進んだ粘性土主体だった。この場合、切り通しを造ると側面が少しずつ崩れて線路敷を埋めがちになる。

このため両側から崩れてくる切り通しを安定化させるために、まず重量のある石材を垂直に積み上げている。そのままだと石材と言えども横からの土圧で押されるだろう。そこで充分な高さまで石材を積んで自重で安定化させ、その上部にレンガでアーチ構造を造っている。更に恐らくアーチ構造の上にわざわざ土砂を盛っている。そうすることで土砂とレンガの重みがアーチ方向へ分散され、垂直に積み上げられた石材を上から押す力が働く。天井の真上に嵌め込まれたように見えるレンガですら経年変化でも落下せず安定しているのは、真下ではなく両側に接するレンガをアーチ方向へ押す力が働いているからである。

これらはかなりの労力と手間、そして石材を要する作業である。わざわざトンネル構造を別途造り上げたも同然なこの形式にしたのは、切り通しにしたままだと線路敷へ土砂が崩れ落ち、それを取り除く維持管理の手間がかかると判断されたからであろう。

大棚トンネルの構造が採用されたのは、小坂地区から吉部へ至るまでの長い下り坂において大棚地区にある高低差の大きな地形を克服するためと言える。小坂から大棚にかけて短い距離で急峻に落ち込んでいるため、遠くから小坂の台地を掘り下げる形で下り坂を造っている。
このとき対岸の大棚地区を高く造れば堀割が低くて済むので現在の大棚トンネルのような構造は不要だった。しかしそうすると藤ヶ瀬川を渡る部分は長い橋を架けなければならない。この橋りょうを短くするなら下り勾配をきつくすれば済む。その代わりに大棚地区では堀割ではなく通常の山岳工法でトンネルを掘る以外なかっただろう。

現在は県道小野田美東線に転用されている小坂地区からの線形と縦断勾配に船木鉄道時代のものを見ることができる。即ち小坂地区は平坦地ながら、わざわざ沈み込むような形の下り坂を形成している。
先方に見えるのは小坂橋


こうして台地を溝状に削ったスロープを造り、発生した土砂を大棚側へ押し出すことによって下り坂を延長している。県道自体は現在では更に大きく沈み込んで吉部地区に向かっているが、船木鉄道時代はカーブから逸脱し、現在の大棚自治会集会所の建物を掠めるような位置で藤ヶ瀬川と大岩郷へ向かう道の上を横断し大棚トンネルに向かっていた。大棚自治会集会所の裏手には、船木鉄道時代のものと推定される盛土部分が現在でも遺っている。
【 類似する構造物 】
最広義には、上下左右を完全に覆われた通行空間をトンネル(隧道)と呼ぶ。円筒形構造をしていて通行主体も人や車ではなく灌漑用水であっても導水トンネルと呼ばれ、特定の名称を持つものも存在する。人や車などの往来に限定した場合、覆われた通行空間に対してトンネルと呼ぶかどうかは、その形状や長さにも依存する。上部にアーチ構造をもつものはトンネルと呼ばれることが多く、これに対して道路の下を断面が長方形状のコンクリート構造で横切るものはボックスカルバートや函渠と呼ばれ、トンネルとは認識されないことが多い。地下道の建設において上部を保ったまま掘っていくのではなく、上下左右を覆われた構造体を人為的に造り上げることに依る。

このことより上下左右を完全に覆われていても上部に別の道路が存在し、下部構造もそれを横切るだけの長さしかないような場合は、トンネルではなく立体交差と包括的に呼ばれることが多い。特に上を通る道路などの構造体が直接見える場合は橋りょう(跨道橋)である。それでも多数の車線が存在する高規格道路の下を斜めに横切るような場合、相応な長さを持つことから特定の名称は与えられなくともトンネルとして案内される場合もある。詰まるところトンネルと呼べるか否かの別は、河川法でダムと堰が明確に区別されているほどに厳密なものではない。

大棚トンネルの場合、上部に道路などが通っているわけではなく普通の山林であり、上部は特徴的なアーチ構造を有するため山岳工法ではないというだけでトンネルと呼ぶことに問題はない。そして船木鉄道全体を通じて類似する構造であったと思われる場所がいくつか知られている。

峠駅付近から黒五郎方面へ向かう山道(現在の市道汗生谷線)との立体交差部分には、レンガによるアーチ構造が部分的に遺っている。


これがトンネルの一部か山道との立体交差構造であったかまだ充分に調べられていない。ただし立体交差の反対側となる小坂側を調べたものの、同種の構造の痕跡も見当たらなかった。県道の拡幅整備により突き崩されたためではないかと思われる。

また、現在はコンクリート床板となっている小坂橋は、船木鉄道時代は立体交差部分がレンガ巻き立て構造であったことが地元在住者からの聞き取りで明らかになっている。
崩れそうな状態になっているためすべて除却して現在のコンクリート床板形式に変更している
《 周辺の付帯物 》
【 説明板 】
大棚トンネルの坑口が見え始める地点の右側に、船木鉄道の概要が書かれた説明板がある。


【 大棚駅 】
大棚トンネルの南側50m程度の位置に大棚駅のホームと駅標が復元されている。


ただしこれらは船木鉄道の現役時代をそのまま復刻したのではなく、実際の大棚駅の位置はこれよりも南側だったと言われている。現在は南寄りには個人の農機具小屋があり、その横で線路敷は大きく分断されている。ここは県道伊佐吉部山口線との立体交差であり、藤ヶ瀬川と共に横断する橋りょうがあったと推察される。これらの遺構は県道の拡幅時にすべて除却されたようで橋台部分も遺っていない。県道伊佐吉部山口線より南側は登り坂となり、そのまま現在の県道小野田美東線へ吸収される。その合流地点付近に当時の線路敷として造ったと思われる盛土が確認される。
《 アクセス 》
大棚トンネルを含めた前後は農道のようになっており、現在も沿線に田を持つ住民や散歩道自体の普請を行うために軽トラを乗り入れることがある。ただし線路敷の道の所有者が明らかではない(地元管理道か船木鉄道の所有)し、散歩道は来訪者が歩きやすいように枕木を並べた区間がある。転回場所もないため一般車両を乗り入るのは避けるべきである。トンネルのみを短時間で観たい場合は後述する最短コースが良い。
【 最短コース 】
県道分岐点に大棚トンネルを案内する立て札が出ている。そこより大岩郷方面への県道に入ったすぐのところに大棚自治会集会所がある。短時間であればこの余剰地へ停めて歩けば近い。[3]


旧吉部小学校の職員室カフェ管理で訪れる市職員によれば集会所は自治会の所管であるので、県道の分岐点にある大棚コスモスサロンの立て札がある県道の余剰地に停めた方が良いかも知れないと話していた。この余剰地は県管理の土地なので問題は起こらない。


双方とも現地までの距離は殆ど変わらない。

民家のすぐ右横に入口の標識がある。


これより細いあぜ道を進む。民家の裏手を通った時点(早ければ大棚自治会集会所に車を停めた後)でイヌが吠え始めるが、元から案内板のある道なので通行は問題ない。

あぜ道は先の案内がなく進む方向に迷うかも知れない。
草の生える斜面の上に民家の倉庫が見えるので、坂を登ってその右側を進む。


薄暗い樹木の茂る入口から入ると、やや広い農道に出てきてすぐ右側に復元された大棚駅が見える。トンネルはこの駅の標識を見てすぐ先にある。
【 散歩コース 】
時間にゆとりがあれば、旧吉部小の建物横にあるグラウンドへ停めて旧線路敷を歩いて行くのが良い。職員室カフェが営業している期間やビエンナーレ期間のイベント開催時には職員室カフェで昼食をとったり休憩したりできる。途中に屋根付きの東屋があって休憩できる。サクラの咲く時期には大棚トンネルまでの旧線路敷沿いに植えられたサクラが美しい。

大棚トンネルまでの距離を示す案内標識がいくつか設置されている。その標識のすぐ裏の山に、人為的に掘削された未知の横穴が確認されている。この横穴はうべの里アートフェスタで初めて大棚トンネルを訪れたときにすぐ気付いたのだが、アートフェスタ会場に居合わせた方に尋ねても認識すらされていなかった。昔の防空壕跡か保存用倉庫と思われるが、詳しいことはまだ分かっていない。
《 近年の話題 》
項目記述日:2018/6/25
(株)宇部日報社の毎月末に配布される「サンデー宇部」において、Vol.17「船木鉄道の大棚トンネル」としてコラム配信された。ビエンナーレに伴い吉部地区で「うべの里アートフェスタ」が開催されることもあって Vol.17 では吉部地区の題材を取り上げることが念頭にあった。このとき吉部の大岩郷と大棚トンネルのどちらにするか迷い、双方ともにコラム化を進めていた。その後、吉部の大岩郷の成因に関して新たな知見が見つかり構成を再考する必要が出てきたこと、Vol.16 で「床波の洗濯岩」を配信していて大岩郷にすると自然由来地形が連続すること、アートフェスタの会場は旧吉部小学校で大棚トンネルまでは歩いて行ける距離ということから、最終的に大棚トンネルを選定した。吉部の大岩郷はそれから3ヶ月後の Vol.20で配信している。

このコラムのタイトルは当初「大棚隧道」を予定していたが、漢字表記が難しく「隧道(ずいどう)」と振り仮名を打つ必要があった。テキスト内でも同様にする必要があり煩雑になるため、現代視点からみた記事ということで「大棚トンネル」とし、更に分かりやすくするために船木鉄道というキーワードも追加している。コラムでは大棚トンネルが山岳工法ではなく開削工法で施工されたのではないかという記述を含めている。

当該コラムが掲載された「サンデー宇部」の紙誌は、アートフェスタの会期中「職員室カフェ」のドアに貼られていた。


アートフェスタ期間に大棚トンネルを訪れたのみならず、コラムを読んで現地へ観に行った方も相当ある。吉部の大岩郷は広く知られていながら大棚トンネルの存在を知らなかったという読者がかなり多く、今のところコラム配信によって最も多くの読者に現地へ足を運ばせた題材と思われる。
一連の記述はコラム配信関連の記事を作成した折には移動する

・2018年6月25日より山口ケーブルビジョンの「にんげんのGO!」という自社制作番組の派生テーマ「風景印その先へ…」と題して、大岩郷と併せて大棚トンネルが紹介された。吉部の大岩郷と共に現地を案内し、東吉部郵便局の風景印候補としての提案を行っている。[4]宇部マニアックスによる現地ナビゲートが映像で収録されメディアに登場する記念すべき第一歩となった。
一連の記述は山口ケーブルビジョン関連の記事を作成した折には移動する
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 船木鉄道|歴史

2. 長大トンネルにおいては入口と出口に相当する両側からのみ掘り進むことは稀で、土被りの薄い谷地などを利用して斜坑や竪坑を掘って掘削機械を降ろし、そこから横方向へ掘り進むといった工法が一般的である。トンネル完成後はこれらの斜坑は点検用経路に、竪坑は換気口などに転用されることが多く、トンネル関連の特異な構造物としてマニアの心を惹き付けている。
複数の竪坑などがあって特に用途もない場合は埋め潰されることもある

3. 2019年2月に再訪したときたまたま集会所真向かいの民家の方が出て来ておられた。大棚トンネルへ撮影に行きたいのですが集会所に車を置いて良いか尋ねたところ問題ないと承諾を頂けている。

4.「山口ケーブルビジョン|にんげんのGO!|風景印 その先へ。そして宇部マニアックスさん
《 個人的関わり 》
2015年のビエンナーレの年に合わせて開催されたうべの里アートフェスタで訪れたときが初見である。大棚隧道の存在自体はアートフェスタのパンフレットなどで知っていた。吉部地区の訪問自体が初めてであり、大棚トンネルと合わせて数多くの史跡や名所の写真を撮っている。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

うべの里アートフェスタは、隔年開催のUBEビエンナーレに合わせて開かれる。アートフェスタ期間は旧吉部小が舞台となり、コラム題材で紹介してからは開催時にかならず訪れていてその折りに大棚トンネルへも立ち寄っている。最近では2019年2月にビエンナーレのプレイベントとしてヴァレンタインに因んだマルシェが開催され、視察に行った折に大棚トンネルの再撮影を行っている。
《 地名としての大棚について 》
大棚(おおたな)は大字東吉部に属する現行の集落名である。
写真は県道小野田美東線と県道伊佐吉部山口線の分岐点付近にある大棚自治会集会所の扁額。


位置的には藤ヶ瀬川の中流域にあたり、吉部市より川に沿って上流へ向かった辺りになる。南は大字西吉部に接している。
地名明細書では東吉部村の大棚(おおたな)小村として収録されている。配下には9つの小字と派生する6つの小名が記載されている。現行のものかは調査を要する。

大棚という地名の由来は、棚井の棚と同一のものではないかと考えている。即ち河岸段丘地形に由来するもので、棚状になった地勢から発生したのではないだろうか。すぐ南側の西吉部に属する小坂(おさか)と大棚との間には10m以上の高低差がある。その間はなだらかな斜面ではなく、一面に田が広がる双方の領域に断層のような段差が生じている。等高線が明記される地理院地図で観察するとその様子がよく分かる。


この地勢の成因は、古くから知られる黒川断層帯によるものか、あるいは単純な河川争奪に依るものと考えている。棚井の場合は水流により削り取られた厚東川は集落より遙か低いところを流れているが、大棚と小坂では高低差のある双方に田園地帯が広がっているところが異なっている。

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