写真は会場の様子。
主催は新川歴史研究会で、渡邊祐策翁ゆかりの品々や高良家文書として伝わる客観資料の展示を主体として、所属メンバー各自が専門的に取り組んでいる分野の成果を公開する歴史展である。
展示会場は、国宝級の絵画などの修復において第一人者である馬場良治(文化財修復技術研究所)の集估館[1]である。新川歴史研究会としての展示は初めてだが、所属メンバーの関係者によるアーティフィシャルフラワー展示が以前から行われており、新川歴史研究会における歴史展示のコラボ企画として実現した。
最終編集日時点において、新川歴史研究会の歴史展示としては期間も規模も最大である。
《 実施に至るまで 》
集估館での展示会開催は割と早い時期に決定されていた。当初は渡邊祐策翁と高良宗七を基調とした歴史展示が企画され、後に他メンバーはそれぞれの専門分野に関する成果と資料を展示する形になった。定例会は毎月一度であり、すべてのメンバーが出席して打ち合わせたのではなかった。各メンバーの実施内容は大枠で決まっていたが、共通部分のレイアウトや告知の方法などは決定が遅れた。開催期間を12月1日から最終日までと決定したのも11月の定例会のときで、アーティフィシャルフラワーの展示が早期に決まったのと対照的だった。
【 歴史展の名称について 】
11月の定例会で歴史展示会全体の基調や展示物、各メンバーの展示エリアを再確認した。私を含めて、この時点でも展示物が確定できているメンバーは殆どなかった。期間中に要人の視察やメディア報道対応するということもあり、歴史展の名称を決める必要があった。新川歴史研究会は(派生的に他地区まで波及することはあっても)基本的に新川地区を軸とした活動である。各メンバーに意見が求められたが、順当なものか奇抜なものしか提案がなかった。
このとき末席に座っていた岡藤氏が挙手し、突拍子もなく発言した。
「細かすぎる歴史展」というのはどうでしょうか?
各メンバーの反応はどうだったかは覚えていないが、他に提案もないこと、実のところ新川歴史研究会が取り組んでいる内容と来訪者が持ち合わせるレベルからすれば適正と判断され、塾長によりほぼ即決された。【 下準備 】
この会合の後、同じく岡藤氏の提案で各メンバーのプロフィールを紹介する目的で写真撮影を行った。更に参加メンバーへ聞き取りを行い、得意分野などの簡単なプロフィールが作成された。これは市場に野菜などを出す”顔の見える生産者”と同じコンセプトである。
宇部マニアックスたる私は前年に新川のほとりを出版していることもあり、真締川の人工的掘削区間にあたる新川領域周辺についての展示が割り振られた。しかし書籍にまとめている内容がほぼすべてであり、何よりもプリンタを持っていなかった。
このためギリギリまで迷いながら成果物として今年の後半に注力しデータを作成したデジタル小字絵図を展示することにした。データをメモリースティックに入れて高良オフィスに持ち込み、地理院地図の表示を画像キャプチャし印刷して接ぎ合わせて実現している。
同様にプリンタを持っていなかったりネット接続手段がないメンバーのデータは、高良氏と真部氏がデータを預かって成果物を印刷した。
【 会場の設営 】
アーティフィシャルフラワーの展示は以前から何度も行われており、先行して会場に飾り付けが行われていた。一部は歴史展示エリアにも及んでいたので、資料を展示した上でアーティフィシャルフラワーの位置調整が必要だった。歴史関連の展示物は、開催日の前日である11月30日に実施された。時間のとれる新川歴史研究会メンバーは松巖園に集合し、渡邊祐策翁の肖像画などを緩衝材で梱包し2台のクルマに分けて積み込んだ。
集估館では玄関を通すと大変なので、展示エリアの部屋の扉を開けて直接搬入した。
一番奥の部屋が渡邊翁関連と石炭関連の展示スペースである。
部屋のドアは常時開放され、展示エリアへの廊下を歩くと正面に肖像画が見えるようにアレンジされた。
案内チラシ。
局長による作成で、新川橋から上流を撮影した画像が背景である。
12月1日から展示開始とは言ってもまだ関係者にしか告知されておらず、初日から訪れる人は限られると分かっていたので、必要なものは開催してから追加することとした。
《 開催期間中の状況 》
11時半に集估館がオープンし、最後の展示物調整を行った後で館長による開会式が執り行われた。会場には(株)宇部日報社から記者が取材に来た。アーティフィシャルフラワーは視覚的に美しさが理解できる題材だが、歴史物の展示は資料をどう読み解くかは些か困難である。塾長に指名されて展示エリアの主要な掲示物について記者に説明した。
以下では訪れた日ごとに主要な出来事を記述している。
【 12月5日 】
野山に行った後、天気が良かったのでそのまま集估館を尋ねた。展示エリアに来訪者がコメントを残せるものが何もなかったので、自由にかけるノート(楽が記帳)を置いた。
このノートは今年1月にヒストリア宇部で開催されたコトノハデコトホイデ(言の葉で言祝いで)イベントでも同じことを行っている。集估館玄関に来訪者向けの記帳簿が置かれていたが、住所氏名を記載するだけで展示物を見てからのコメントをフィードバックしてもらえる仕組みが要ると思った。
【 12月7日 】
開催後最初の日曜日である。塾長を含めてメンバーの多くが集結した。このときまでに前回配置しておいたノートに来訪者メッセージが残されていることに気づいた。メッセージは私の展示物にではなく新川歴史研究会全体の掲示物について言及されていた。このことより来訪者からのレスポンスを吸い上げる重要性が認識され、追加でアンケート用紙が設置された。
なお、前回に集估館関係者に相談することで新川のほとりの書籍販売コーナーを設けることを承諾して頂けていた。見本誌と現物、それから購入頂いた方へのコモディティーとして宇部マニカレンダーを配備していたものが2セットほど購入されていた。メディア告知による効果が大きく、かなりの来訪者があることが窺えた。追加で翌日までに運用しているFBページで告知を行った。[2]
【 12月13日 】
第一回目の新川歴史研究会としての定例会。集估館の展示スペースの一室をそのまま会場として実施した。定例会は来訪者に対してもオープンな形で実施され、適宜質疑応答を受け付けるスタイルが想定されていた。しかし一番奥の部屋でメンバーが定例会を行っているのを見て会議の邪魔になるだろうと入室を躊躇う来訪者が続出した。合間で展示物の解説をして欲しいという申し出もあり、出口に近い場所に座っていた私が対応した。
この反省により、第2回目の20日実施時はメンバーが奥の部屋に集結するのをやめて、各自の展示ブース付近に常駐して来訪者対応するように変更された。
【 12月20日 】
第2回目の会合。私は野山へ行く用事があったため別便で現地に行った。この日は重要な未知の客観資料が披露された。私も知っている多くの方々の来訪があり、展示スペースに置いていた小冊子が全部売れていた。それほど売れることはないだろうと若干数しか置いていなかった。塩梅悪いことに、普段はクルマに積んでいる予備の冊子も後部座席に置くと(同じ車で親も買い物に行くので)邪魔になるだろうとバッグごと降ろしていた。やむなく会合を抜けて往復30分以上かけて自宅まで取りに戻ったのだが、再度集估館を訪れるとき交通量が多く狭いT字路で事故を起こしそうになり[3]、会場に戻ったのが午後3時半だったため以後誰も訪れずまったくの無駄足になった。
【 12月21日 】
2日連続での常駐。この日はVIP(詳細はここには恐らく書けない)が視察に訪れるということで、出席可能な新川歴史研究会メンバーの対応が求められていた。会合は中央の部屋で行われ、来訪者は各界の著名な人物が多かった。歓談の後で歴史展示エリアを視察して頂き、私も自分の展示物について概要を説明する機会があった。
【 12月27日 】
最終日は正午頃に到着して来訪者対応した。23〜26日にも相応の来訪者があったようで、配置ノートに複数人のメッセージが残されていた。20日にわざわざ取りに戻って補充した中からテーブルの上に置いていた小冊子が払底していた。大勢ではないが午後からほぼ間断なく来訪者があり、持ち合わせている範囲での解説を行った。源山墓地に沖ノ山炭鉱の遭難者を祀った碑があり、今まで墓参していたのに気が付かず驚かれ帰りに現地に行きますという方があった。ホームページの記事に興味を持って何年も前から閲覧している方や、去年始めた宇部マニNEWSで頻繁にコメントを寄せておられる熱心な方もあった。今まで行ってきた歴史展解説の中でこの日がもっとも長時間かつ濃い内容の解説だった。塾長も熱心な年配の来訪者と歓談する中で、渡邊祐策翁の妻にまつわるエピソード(出典は不明だが今までどの書籍にも見いだせなかったある事実)を聞かされ、熱心にノートをとっていた。
閉館時刻の4時半を過ぎて駐在し、明日は午後1時より片付けにかかるためテーブルの下に置いていた補充用の小冊子と記帳ノートを持ち帰った。
【 12月28日 】
歴史展の最終日は27日と案内されていた。このため昨日の時点で小冊子とノートを持ち帰ったのだが、アーティフィシャルフラワーの展示は今日までとなっていた。そしてアーティフィシャルフラワーを見てそのまま歴史展示エリアにも行く来訪者がかなりあった。これは全く予想していない展開で、新川歴史研究会のメンバーは撤収作業を行うために午後1時に集估館に行ったものの、展示物を見たり詳細な解説を求める来訪者が続出したため引き続き来訪者対応した。午後4時近くなると来訪者がなくなったので、掲示物の片付けを始めた。私はデジタル小字絵図だけだったのでものの数分で完了した。展示物を配置し壁に掲示を行うときはレイアウトを考えたり貼り直したりで数時間かかったのに、撤収時は30分もかからなかった。殆どフルメンバーが来ていたので、テーブルや椅子の再配置と掃除も短時間で済んだ。
開催期間中お世話になった集估館スタッフにお礼を言い、メンバー間では年明け1月4日に初めての歴史展示に対する反省会と今後の計画について話し合う会合を計画した上で現地解散した。
(反省会の状況は開催後に編集追記する)
《 終了後 》
ノートは私が提示し、来訪者向けアンケートは高良氏が作成していた。撤収時に私がアンケートも持ち帰ったのは、総括記事にフィードバックするためである。以下は歴史展を通して得られた知見や感想、客観データについてまとめる。
【 来訪者ノートについて 】
5日に配備した来訪者ノートに記載された内容を掲載する。記帳者は公開されることを想定していないので、名前や所属団体が分かる部分は削っている。なお、文意を損なわない範囲で誤字などを修正している。掲載順は時系列である。
いろいろ調べられておもしろいですね。小生、私の叔父が宇部中に戦前通学する時に渡辺さんの家に家庭菜で作った野菜を渡辺さんのお宅に届けた話しを良く聞かされました。叔父は当時、一介の警察官で戦前に宇部警察を退職しました。住まいは宇部市ではなく厚狭郡厚南村でした。但し厚南宇部駅前の地区で初めて上水道を引いたり、琴芝の光善寺の再建に力を尽くしたと聞いています。どこでどう渡辺さんとのつながりが出来たのか調べています。ご存知の方がいれば教えて下さい。
宇部駅前の地区に上水道を引いた経緯は、小野田市が先行して昭和6年より厚東村棚井地先に取水所と浄水場を建設して給水を開始したとき、宇部駅前付近を埋設管が通るということで補償的な意味で有料の給水を行ったことに依る。[5]なお、記帳日時が後から分かった方が良いので、この書き込みの直後に私が日時とステートナンバーを記載している。
12/14 16:00
道に迷いながらやって来ました。いろいろな展示物をゆっくり見ることができて良かったです!
道に迷いながらやって来ました。いろいろな展示物をゆっくり見ることができて良かったです!
12/19
山本さん、真部さん!! よい展示ありがとうございました。私達は渡辺さんのアートフラワーを見に来ましたが、宇部の歴史についても、おもしろく拝見しました。日英協会の関係で、福原芳山公についても大変興味深く、勉強の為書籍を購入しました。
山本さん、真部さん!! よい展示ありがとうございました。私達は渡辺さんのアートフラワーを見に来ましたが、宇部の歴史についても、おもしろく拝見しました。日英協会の関係で、福原芳山公についても大変興味深く、勉強の為書籍を購入しました。
12/22 16:25
宇部マニさんお世話になっております。小字絵図、拝見いたしました。よくもここまで!現在の住所表示とはまったく異なるので知らない人が多いのも納得です。忘れ去られる前に残しておかないといけませんね。続きも頑張ってください!(HP更新も楽しみにしています)
宇部マニさんお世話になっております。小字絵図、拝見いたしました。よくもここまで!現在の住所表示とはまったく異なるので知らない人が多いのも納得です。忘れ去られる前に残しておかないといけませんね。続きも頑張ってください!(HP更新も楽しみにしています)
12/26
宇部マニさんこんにちは!勉強になりました。またお会いできるの楽しみにしています。ありがとうございました!
宇部マニさんこんにちは!勉強になりました。またお会いできるの楽しみにしています。ありがとうございました!
12/27
宇部マニさんご苦労様です。研究会の皆様お世話になっております。多大な時間をかけてまとめられた研究資料、とても見ごたえがありました。今後の活動がたのしみです!! お隣の山口市からも注目しています。
開催最終日が27日だったので、27日に帰るとき翌日の撤収作業を容易にしようとこのノートを含めて持ち帰ってしまった。実際にはアーティフィシャルフラワーの最終日は28日であり、昼過ぎまでは市外からの熱心な来訪者があった。ノートを置いておけばコメントを寄せられていたかも知れず、持ち帰ってしまったのは失策だった。宇部マニさんご苦労様です。研究会の皆様お世話になっております。多大な時間をかけてまとめられた研究資料、とても見ごたえがありました。今後の活動がたのしみです!! お隣の山口市からも注目しています。
【 アンケートについて 】
来訪者レスポンスの重要性から、ほどなくして高良氏がアンケート用紙を作成しノートの横に配置した。アンケートの投函者は7名で、年齢層などは以下の通りだった。
30代1名、40代1名、50代2名、60代1名、70代2名
男性5名、女性2名
宇部市内4名、山陽小野田市1名、山口市1名、県内1名
それぞれの設問に対する回答は以下の通りである。男性5名、女性2名
宇部市内4名、山陽小野田市1名、山口市1名、県内1名
・細かすぎる歴史展をどのように知りましたか?
SNSから 2名
知り合いの紹介から 2名
その他 3名(宇部日報、宇部マニアックスHPから、YouTubeから)
・歴史展の内容はいかがでしたか?知り合いの紹介から 2名
その他 3名(宇部日報、宇部マニアックスHPから、YouTubeから)
(チェックのあった項目と感想の書かれているものを載せている)
渡邊翁の肖像画お呼び渡邊家所有物展示 1名
「翁の功績がよくわかりました」
中津瀬神社の歴史資料 2名
「写真がとても良かった。戦災でなくなってしまったのがとても残念」
宇部鉄道の歴史資料 3名
「当時の沿線案内は貴重なものですね。当時の様子がよくわかります」
旧図書館の歴史資料 2名
「知らないことだらけで、びっくりしました」
宇部市の地形歴史資料 1名
宇部市デジタル小字絵図 2名
「続き頑張ってください!!」
宇部市都市計画の歴史資料 2名
「小学校などで教えて欲しい」
真締川渡し船の歴史資料 1名
「知らなかったので、子どもに話したいと思いました」
宇部炭鉱の歴史資料 3名
「鉱区一覧を見ると、その規模の大きさがわかります。沖合が中心と思っていましたが、内陸部もここまで掘っていたとは…」
「とても貴重なものを拝見させていただきました。現在も使えたら良いのに…」
・ご要望、ご意見、今後展示して欲しい資料など「翁の功績がよくわかりました」
中津瀬神社の歴史資料 2名
「写真がとても良かった。戦災でなくなってしまったのがとても残念」
宇部鉄道の歴史資料 3名
「当時の沿線案内は貴重なものですね。当時の様子がよくわかります」
旧図書館の歴史資料 2名
「知らないことだらけで、びっくりしました」
宇部市の地形歴史資料 1名
宇部市デジタル小字絵図 2名
「続き頑張ってください!!」
宇部市都市計画の歴史資料 2名
「小学校などで教えて欲しい」
真締川渡し船の歴史資料 1名
「知らなかったので、子どもに話したいと思いました」
宇部炭鉱の歴史資料 3名
「鉱区一覧を見ると、その規模の大きさがわかります。沖合が中心と思っていましたが、内陸部もここまで掘っていたとは…」
「とても貴重なものを拝見させていただきました。現在も使えたら良いのに…」
「全ての資料について大変興味深く拝見しました」
「山口市在住ですが仕事で時々宇部市に来る機会があります。近隣の市でありながらあまり知らない宇部の歴史を深く知ることができました」
歴史展の開催を知って訪れた中には、YouTubeやショート動画を見たという方が相当あった。新聞のようなメディア媒体での告知が未だ有効ながら、低コストで情報配信できるSNSの影響は大きい。「山口市在住ですが仕事で時々宇部市に来る機会があります。近隣の市でありながらあまり知らない宇部の歴史を深く知ることができました」
【 反省会について 】
年が明けて1月4日に宇部国際ホテル1階にある Camellia で新川歴史研究会とアーティフィシャルフラワーの参加メンバーによる反省会(と言うよりは合同お食事会)が開催された。
食事はバイキング形式で、日頃滅多に食べることができない(私にとっては)高級食材を満足いくまで食べまくった。食事が一段落した後で、今後の展開について成果の可視化が強調された。動画などのデータから文字起こしできるツールがあり、集められた客観データから生成AIの助けも借りて来訪者に分かりやすい形で提示できるデータ制作手法が提案された。
(ただし宇部マニアックスのホームページでは生成AIを利用したテキスト生成や画像・動画の加工は今のところ考えていない)
アーティフィシャルフラワーとのコラボ企画は意外性があり、花の作品を観に来た人から「歴史(展示エリア)は何処ですか?」と尋ねられたとの報告があった。昔を知りたいという需要は一定レベルあり、その昔も江戸期以前から明治大正昭和期、そして最近の過去まで多彩である。今回の展示のために制作されたデータはライブラリとなるので、更に追加改良することで厚みがでてくる。同じ集估館かあるいは場所を変えて年に一回程度は開催できることを目指したい。
《 関連記事リンク 》
この総括記事作成に先行してホームページのトップに掲載した開催案内。お知らせの履歴: 「細かすぎる歴史展」始まりました
出典および編集追記:
1. 現地までの案内版などには集古館の記述もみられる。当初は集古館であったが、後に同名の施設が先行して存在していたことから現在の集估館の表記に変更された。
(集估館常駐スタッフからの聞き取りによる)
2.「FBページ|2025/12/6のタイムライン
」
3. 市道里ノ尾線と市道宇部駅菩提寺線の交点(西宇部ふれあいセンターの角)で、右から来る車に気づかず右折しようとしたため直進車の横っ腹に追突寸前になった。原因はあまりにも強すぎる西日で、左から来るクルマがまぶしくて見えづらかったため注意してやり過ごした後にクルマを前進させたところ、既に左から直進車が来ていたのを見落とした。もし事故を起こしていれば100%自責であり、親父のクルマを運転している手前、任意保険の掛け金が跳ね上がってしまう事態になっていた。今年の夏場に小松原通りと下条浜通り線の交差点でも同様に西日で幻惑されてクルマを見落とす事例があり、日差しの強い午後は西に向いて走るのを意識して避けていた中の事象だった。
(この時よりAT車でも良いから自分のクルマを持つべきだという考えに傾いていった)
4.「FBページ|2025/12/28のタイムライン
」
5.「宇部の水道」p.98
1. 現地までの案内版などには集古館の記述もみられる。当初は集古館であったが、後に同名の施設が先行して存在していたことから現在の集估館の表記に変更された。
(集估館常駐スタッフからの聞き取りによる)
2.「FBページ|2025/12/6のタイムライン
」3. 市道里ノ尾線と市道宇部駅菩提寺線の交点(西宇部ふれあいセンターの角)で、右から来る車に気づかず右折しようとしたため直進車の横っ腹に追突寸前になった。原因はあまりにも強すぎる西日で、左から来るクルマがまぶしくて見えづらかったため注意してやり過ごした後にクルマを前進させたところ、既に左から直進車が来ていたのを見落とした。もし事故を起こしていれば100%自責であり、親父のクルマを運転している手前、任意保険の掛け金が跳ね上がってしまう事態になっていた。今年の夏場に小松原通りと下条浜通り線の交差点でも同様に西日で幻惑されてクルマを見落とす事例があり、日差しの強い午後は西に向いて走るのを意識して避けていた中の事象だった。
(この時よりAT車でも良いから自分のクルマを持つべきだという考えに傾いていった)
4.「FBページ|2025/12/28のタイムライン
」5.「宇部の水道」p.98