長徳橋

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現地踏査日:2014/1/11
記事公開日:2014/1/19
長徳(ちょうとく)橋は、市道岩鼻浜田線の終点付近、中山川を渡って県道琴芝際波線に接続される少し手前に存在する橋である。
写真では県道接続部に向いて撮影している。


位置図を下に示す。


中山から沖の旦にかけて中山川はやや北向きに流れている。地図でも分かるように長徳橋を過ぎた先で方向を90度変え、厚東川に注いでいる。したがって中山川の最も下流に架かる橋と言える。
この辺りの南側となる浜田はかつて厚東川の影響を受ける低湿地で、開作によって生まれた地である。

橋自体は浜田橋などと同様、コンクリート床版構造で欄干は太い鋼棒である。橋の造りそのものに特筆すべきものはない。


最大と言うか殆ど唯一の特徴は「長徳橋」というその名称だ。


左岸側の欄干に竣工年プレートが設置されていて、平成7年5月となっていた。
つい最近架けられたことになる。


同じく左岸側の上流に設置されたプレートに橋の読みが記されていた。
白い杭は国土地理院の四等三角点…本編の末尾で述べる


「ちょうとくはし」である。
即ち長徳は凝った読み方をせずそのまま音読みなのであった。


そして県道接続部の上流側が河川名となっていた。


この市道自体は以前からあったが、自転車で通ることは殆どなかった。市道の本記事でも述べているように舗装されていなかったからである。土手の幅が狭い部分は舗装されていたのに住宅地や事業所が近い幅広の部分はなぜか砂利道のまま長く放置されていた。住宅地の整備のため未舗装のまま置かれていたのかも知れない。
いくら近道になるとは言っても砂利道は如何にも乗り心地が悪く、下手をするとパンクを誘発するが故に回避していた。全線が舗装されてからは帰路によく通るようになり、その折りに橋の名前が判明した。

最初、この橋の名前を知ったとき公募で決まったのではないかと思った。架橋年が新しいので、真締川公園に架かる「やすらぎ橋」のようにフィーリング先行の名前を与えたように思われたのである。
ところが最近、沖の旦地区の小字地図を閲覧することで、
長徳とは、この近くの小字名である
ことが判明した。
詳細は末尾に改めて述べている

平成期の橋とは言ってもそれ以前から道が存在していた。そうなれば昔の橋の部材などが遺っていそうなものだ。一つ上流側に架かる浜田橋は旧橋を思わせる石材が積まれていた。

橋を渡った先がすぐ県道琴芝際波線だが、その間に中山川に沿って下流へ向かう川土手の道がある。
この道は中山川と共に県管理の土手道となっていて、転落の注意喚起に路肩標が設置されていた。
路肩下の護岸部分に古い石材が見えかけている。


接近してみた。
石材は道路面よりも低い護岸の下側に設置されており降りられる場所はない。


護岸は昭和期に拵えたものだろう…薄いモルタルを塗って滑り止めの石を適当に押し込んだだけの貧相な造りだった。接近してみたかったが手や足を掛けるには心許ない。護岸からポロッと外れでもしたら忽ち怪しい水の色をした中山川へ転落してしまう。
しかもコンクリート護岸は急で落ちたら上がれる場所が何処にもない…水深もかなりあった

仕方ないので道路からズームする。
さて、これは昔の橋などに関連するものだろうか?


恐らくこれは橋とは無関係で、遙か昔に川の中へ降りて洗い物などをするための石段の痕跡だろう。現在の橋からは離れているし、設置されている場所も中途半端だ。


現在の橋が平成時代ならそれ以前から間違いなく橋はあった。どのようなものだったか今となっては分からない。市道平原浜田線の項目でもしばしば触れてきた通り、県道のこの区間は高校生時代、厚南方面に自転車で何度も走っている。しかしこの近辺は目的地へ向かうための通過点なので橋はもちろん、県道との接続部がどのようであったかさえ思い出せない。元から私にとっては殆ど馴染みのない場所であり、致し方ないことだろう。

なお、この土手道の下には庚申塚がひっそりと建っている。詳しくは以下の派生記事を参照されたい。
派生記事: 長徳橋右岸付近の庚申塚
この庚申塚がある場所は大字沖ノ旦字下のふりという奇妙な小字名であることが分かっている。
由来など詳しいことはまったく分かっておらず今後の調査待ち[1]
出典および編集追記:

1. 小字絵図では「下のふり」と書かれている。これは農里(のうり)のことと判明した。
地名明細書には沖ノ旦小村に松山という小字の配下に上農里・中農里・下農里という小名として収録されている。いずれも読みは「のうり」であるが、小字絵図では平かなで記載されたために奇妙な地名と思われたに過ぎない。なお、地下上申では農里(ノオサト)の読みで収録されているので、最初期は「のおさと」であり、これを「農里」と漢字表記した後に「のうり」と読み替えられたものが後年に伝わったものであろう。(2016/6/2)
《 長徳橋左岸付近の四等三角点 》
橋の左岸付近の土手に国土地理院による三角点が設置されている。
長徳橋とは無関係だが殆ど隣接する場所にあるので本編に組み入れている


藪にまみれているが白地に黒い文字の杭なのでとても目立つ。


裏側を撮影。四等三角点の表示がある。


国土地理院の設置したものなので、当然ながら電子国土にも掲載されている。この地点を中心にポイントした地図を示す。


これは4年前、初めて訪れたとき撮った草刈り完了後の写真である。
三角点の据えられている場所はコンクリートで保護されている。


「国土地理院の設置した測量点をトレースする」というのは一つのテーマと成り得るし、実際トレースした成果を掲載した個人のホームページやブログが存在する。
到達すべき場所は国土地理院地図に記載されているので容易そうに思えて、実はなかなか難しい。一般人が立ち入ることができない建物の屋上[1]に設置されていたり、踏み跡も存在しない山奥の小さなピーク部分にあったりするからだ。例えば白岩公園内に設置されている三角点は早くから認識されているものの、この記事をかく現時点では未だに見つけることができていない。

三角点は失われたり変更されたりすることは殆ど有り得ないので、今のところテーマ踏査として着手すべき優先順位は低い。当サイトではたまたま発見されたものを散発的に取り上げる程度になるだろう。
出典および編集追記:

1. この場所は京納市営住宅の屋上と思われる。この他に工場の敷地内や学校および民間企業のビルの屋上に設置されているものもある。
《 長徳について 》
記事公開日:2014/4/3
本記事に即して長徳(ちょうとく)という地名を説明すれば、長徳橋が渡る中山川に対して右岸側、即ち県道琴芝際波線側を指す小字ということになる。橋の左岸側は字長穂である。

海や山など自然にあるものを観察した結果が地名に反映されることが多いため、小字名の読み方は訓読みが多い。音読みは少数派で、一般にはその場所を表現するのに漢字の音読みの音を借りたものと、漢字そのものに意味を持つ地名のパターンがある。後者では神田(じんで)があり、これは「じんで」という音に意味があるのではなく「神に捧げる米を作る田」から漢字を構成しその音をそのまま地名にしたものであろう。この他の音読み地名として高嶺(高領)や海南がある。
長徳の読み方がそのまま「ちょうとく」ということは、橋のプレート名からかなり明らかである。地元在住者なら読み方を知っているであろうから、プレートを設置するとき読み方を反映させたのだろう。

長徳は、作成時期の異なる小字絵図や書籍によっては「長得」と記載されたものもある。このことから漢字表記だけ眺めれば「長い何か」が想起される。しかし徳も得も抽象的なものを表し、地勢を反映して与えられる漢字ではない。この地にまつわる人物や事件などに由来してつけられた地名だろうか。

これは小字絵図を眺めた限りでの思いつきの仮説だが、長徳は中山川を挟んだ対岸にある字長穂の派生的地名(アナログ)ではないだろうか。と長は活字なら確実に区別できるが、小字絵図に手書きで記入された漢字を観察する限りでは両者はかなり似ている。
漢字などの書き誤りから異なる地名が生まれたり誤って後世に伝えられる現象は、想像以上に多いのではないかと考えている。現に踏切や構造物に与えられている小字由来の名称ですら、後世のどこかで誤記されたものが伝わっていそうな例がいくつか知られている。[1]実際はどうであるかは今後の情報および調査待ちである。
出典および編集追記:

* 現時点でも新たな情報はなく詳細は判明していないが、上記にあるような「長い何か」が由来である可能性はまずないと考える。順当に考えて名田由来の地名であろう。ただ、地名明細書では沖ノ旦村の筆頭に掲載されており、同村の中でも主要な地であったことはかなり確からしい。(2016/6/2)

1. 厚東駅の東側にある空屋踏切は、本来は室屋だったものが誤って伝わったのではないかと思われる。小字絵図でも「空」よりは「室」に近いように読める表記となっている。宇部駅西側の尾張田地下道は、元々は小張田(こばりでん)であったものを「おばた」と誤読し、それに漢字を当てたものが地下道名となっているように思われる。

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