緑橋

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現地踏査日:2013/6/6
記事公開日:2013/6/9
緑(みどり)橋は真締川に架かる橋の一つで、市道緑橋芝中線に属している。
写真は真締川左岸側から撮影している。



橋の中央地点をポイントした地図を下に示す。


上流と下流にそれぞれ寿橋、新川橋があり、緑橋はほぼその中間地点に架かっている。

緑橋自体の交通量はそれほど多くはないが、車以外では実に多くの「資源」が同じ場所で真締川を横断している。即ち上水道、工業用水、NTT回線ケーブルで、いずれも緑橋に沿って独立した橋が架かっている。このうち工業用水については真締川水管橋の項目に記載し、上水道およびNTT回線関係の橋は市道緑橋芝中線の横話記事として掲載する。なお、本編では緑橋の旧橋関連の遺構についても末尾で紹介している。

左岸下流側の親柱。
研磨された石材にレリーフの様式で「緑橋」と表示されている。


上流側。
漢字表記で真締川とあるが、植え込みの陰で少々見づらい。


近くで撮影してみた。
文字の部分を残し下地を削る形で文字を浮き上がらせている。
他の親柱も近接撮影したが…表面が磨かれ過ぎて自分の顔が反射して写ってしまったので却下^^;


上流側には並行して水道橋が架かっている。橋脚部も含めて見るからに古そうだ。
もう一つの赤茶色の細い鋼管が何かはよく分からない


この水道橋については市道の横話として記述している。
派生記事: 緑橋水道橋(仮称)
橋の下流側3分の1程度の幅を自歩道部分として仕切っている。
親柱の豪勢さとは対照的に欄干は意外に質素な感じだ。
まさか架橋直後は欄干が存在しなかったってことは…


橋の中央から下流側を撮影するのだが…先に述べたように並行してNTT回線と工業用水向けの橋が架かっている。そのまま写すと下流側が見えない。


水管橋については以下の派生記事を参照。
派生記事: 真締川水管橋
その先を若干ズームしている。
国道190号の新川橋はさすがに行き交う車が多い。


上流側。
寿橋が見えている。
塩田川ポンプ場付近の河川敷にシジミ採りしているらしい人の姿が見えた


右岸の下流側。
橋の竣工年が明示されている。昭和52年3月だから比較的新しい。


緑橋と水管橋の間に架かる薄緑色の橋は詳細には調べていないが、恐らくNTTの回線ケーブルを格納する橋と思われる。こちらも派生記事に書いた。
派生記事: NTT回線ケーブル橋(仮称)
上流側の親柱は平かな表記で「みどりはし」。


緑橋は単なる両岸を結ぶための通路という役割ではなく、地域特有の位置づけがされているようだ。
興味深い立て札が右岸上流側にあった。


「お早よう緑橋」という呼びかけである。


この立て札の存在はかなり前から気付いていた。いつ建てられたのかどういう経緯があったのかは分からない。
緑橋は相生町と寿町を結んでおり、朝夕は通勤や登下校の子どもたちが結構通る筈だ。希薄になりがちな人の繋がりを見直そうという動きがあったのだろうか。

右岸から撮影。
このように橋自体はとりたてて特徴もない構造だった。


橋の造りはまったく標準的でもその名前は奥深い要素があるようだ。この近辺に住まわず歴史を知らない私の如き人間には、緑橋という名前の由来が想像できない。実際まったくいい加減な話だが、少し前まで私はJR宇部線が真締川を渡る橋のことを緑橋と勘違いし、それと同じ名前が付けられたと思いこんでいた。当時JR宇部線の鉄橋が薄緑色に塗られていたからである。
鉄道橋の名称は緑橋ではなく新川橋りょうである

先にも述べた通り、橋の両岸は相生町と寿町である。地名に由来するとなれば、かつて緑町という名の町があって後年統合されて消滅したのだろうか。そうでないなら、例えば「緑多き街にしたい」という願いを込めて公募により緑橋に決まった…などの経緯があるのかも知れない。
安直な想像だが、恐らく橋自体の色には関係がないのではと思う。確かに隣接して架かるNTT回線の橋は鋼材部分が薄緑色に塗られてはいるが…もし初代の橋が緑色にペイントされたことに由来するなら、今の橋も欄干を同じようにするだろう。
本件は関連する情報が得られ次第追記する[1]

もしかすると答のヒントを与えてくれるかも知れないものがすぐ近くにあった。
右岸下流側の真締川公園一角に古い緑橋の親柱が遺っていたのである。


《 旧緑橋の遺構 》
真締川水管橋から若干離れた公園内に一風変わったコンクリートの塔らしきものが据えられていた。


側面に説明板が設置されていた。
そこには旧橋の一部をここに定置したという石版が付属していた。石版の設置時期も架橋年月と一致している。


旧緑橋は大正10年9月架橋というから恐ろしく古い。それ以前に木製の橋などがあったかも知れないが、鉄筋コンクリート橋としては初代らしい。
残念ながら緑橋という名の由来については触れられていなかった。それでも大正時代からそのまま緑橋という名前だったことは明らかになった。

市街部の古い町名は現在手元に資料がなく分からない。小さな町が寄り集まって新しい町となり、その裏で数多くの古い町名が消えていった。何処の都市にもありそうだが現在は市内に存在しない町名(桜町、都町、寺町、柳町…)は数多く知られている。もしかすると緑町もその中の一つだったのかも知れない。[1]

親柱はコンクリート製で高さは大人の背丈くらい。
意匠が極めて斬新だ。


見たところ変電所にある大型碍子のような形状をしている。大正期に造られた親柱としては如何にも斬新なデザインである。

もう一つ気になったのがこれ。
側面にヒューズのような機器が埋め込まれていた。


まさかこれが大正期当時のものとは思えない。昭和中期の室内向け碍子引き工事で天井や柱に取り付けられた機器に似ている。
…と言っても私とて微かにそのようなものを見たことがあるという程度の認識しかないのだが
夜間点灯させるための電源線だろうか。

親柱の先端部分。六角柱状の形をしている。


大正期の親柱でありながら保存状態はかなり良好だ。とりわけ何かがぶつかれば折れてしまいそうな先端部分だが、欠けた部分もみられない。当時としては良質なコンクリートを使っていたのだろうか。
保存されているのはこの親柱一基のみらしく、当時の欄干などは設置されていなかった。

このように現役の緑橋は御影石製の親柱を除けば如何にも質素で機能最重視のような橋である。しかしその名称から旧橋の遺構から未知の要素を含んでいる橋なのであった。

上流の橋 上流側に架かる橋に移動 下流側に架かる橋に移動 下流の橋
寿橋新川橋

出典および編集追記:

1. 本編で想像している通り緑橋の由来はかつて真締川の東岸側にあった緑町に由来する。現在塩田川がポンプ場を介して注いでいる場所より東岸側は北から南に向かって春日町、寿町、緑町、常盤町であった。後年春日町と緑町は現在の寿町および常盤町に統合されている。

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