田の小野橋【1】

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現地撮影日:2015/4/22
記事公開日:2015/5/3
今年の春はなかなか暖かくならなかった。天気が不安定で4月に入っても肌寒い日が目立ち、雨が多いため自転車によるネタ探しも近場ばかりとなっていた。下旬になって漸く天気が安定し、週間予報も雨の心配がまったくなくなったのを機にちょっと遠くへ行きたくなった。そこで手薄になっていた厚東方面の写真採取を目的に久しぶりハイブリッド方式で田の小野地区へ自転車を送り込んだ。

車は田の小野橋の手前にある市道持世寺田の小野線の善和川沿いの余剰地に停めた。そこから市民センター横を通る市道田の小野車地線を道路レポート仕様で撮影するためである。ここから北上して国道2号の市境まで行き、まだ一度も訪れたことのない山中地区の物件を調べる計画だった。
市道の起点には田の小野橋に関する石碑らしきものがあることは、車で何度もこの前を通過する過程で割と最近になって気づいていた。そこで市道スタートの前にちょっと撮影してきた。この物件は既に派生記事として公開している。
派生記事: 市道田の小野車地線|田ノ小野橋架橋記念碑
この時までは田の小野橋の写真を丹念に撮る予定はなかった。今撮っておかなくてもいつでも撮れると思ったからである。しかしこの日は正午前という割と早い時間に行動開始し時間はいくらでもあった。更に現地を訪れるまでに田の小野橋の架橋においてどのような歴史的背景があったかは総括記事でも触れた書籍の記述[1]によって知っていた。車で頻繁に通るとしてもわざわざ立ち寄ることは少ないだろうから寄り道することにした。

自転車は石碑のところに置いてそのまま歩いている。
瓜生野の方には山陽新幹線が高架橋で斜めに横切っている。


田の小野橋は上流側に別途歩行者用の橋が架かっている。野山時代も自転車でここを何度か通っている。
その時には特に気に留めず、車で通るようになってから気づいたことがあった。

親柱の破損である。
本来なら間違いなくここに石盤かブロンズプレートなどがある筈なのだが、周辺のコンクリート板もろとも剥がれ落ち失われている。破片は片付けられたらしく見当たらない。


車で通るときは瓜生野交差点方面が多い。対向車線でもこの親柱の破損には気づいていた。しかし車がぶつかって破損するにはおかしな位置である。逆走でもしないかぎり衝突しようがない。

下流側に移動する。
こちらも親柱の一部が壊れていた。石盤は健在だ。


河川名の厚東川が刻まれている。
しかしこちら側も上部の破損が酷い。このように剥がれるとは…どういう造りになっているのだろうか。


現地は路側に余裕がなく車の往来もかなり激しい。こんな場所にしゃがみ込んで石盤をズーム撮影などとはやっていられなかった。
いずれも手早く写真を撮ってすぐ歩道側に戻っている

したがって現地ではなくこの写真を見たうえで判断することになるのだが…よく見ると橋に入る手前のガードレールの位置に対して橋の欄干がかなり内側へ寄っている。恐らく当時としてはこれで充分だろうという程度の幅をもった橋を架けたものの、後で交通量が増大して橋前後の道路幅を若干広くしたのだろう。このため路側へ寄り過ぎたトラックなどが急に狭まる橋に対応しきれず衝突したように思える。親柱の前に設置された視線誘導標は衝突の後のものだ。

車の衝突で一部が欠けるならまだしも剥がれ落ちてしまったのも親柱の構造に原因がありそうだ。一体化した石柱やコンクリートではなく、恰も門柱を築くように複数のブロックを積んで造っているからだ。このため一番外側のブロックが剥ぎ取られている。石盤は相応な品位だが、親柱の造りとしては…正直言って如何にも安っぽい。しかも破損したまま補修もされず放置とは…

歩行者用の橋から上流側を撮影している。
山陽新幹線が厚東川と国道490号、そして周囲の田畑をも含めて長大な橋りょうで渡っている。


歩いて橋を渡りながらカメラを対岸側へ構えている。
瓜生野側の上流部に河原へ降りる道を見つけた。


この小道は野山時代に自転車でここを通ったとき立ち寄った記憶がある。特に何か興味深いものを見つけたなどというモチベーションではなかったと思う。厚東川の河原へ降りられる場所が少ないので流れを観たかった位のことだった。しかし当時は眺めるだけで写真を一枚も撮っていなかった。

瓜生野側の橋取り付け部。前方にはなおも新幹線の橋りょうが長く伸びていてゆるきとう上部に向かっている。
国道は橋を渡った後なだらかな下り坂で瓜生野交差点に向かう。もちろん現在は道路部に目立った段差などついていない。


総括でも書いたことをここで若干補足すると、初代の田の小野橋の瓜生野側は現在のようなスロープ状の摺付ではなく高低差があったまま放置されていたようである。
周辺の田畑や地勢を観ても推測されるように田の小野側よりも瓜生野側の方が数メートル低い。したがって橋を水平に架けたときスムーズに渡れるようするには瓜生野側を盛土して高くする必要がある。しかし瓜生野側はそのような変更を認めなかった。そもそも初代の橋を架けるときも田の小野側にある大岩を取り除くことを条件に瓜生野側が承諾している。この理由はそれでなくとも田の小野側が高いところに大岩があったため、それを除去して田の小野側の橋取り付け高を下げなければ瓜生野側との高低差がもっと酷くなっていたからではと想像される。
苦労して岩を取り除いた後も瓜生野側の高低差はなお解消されなかった。初代の橋では瓜生野側から田の小野橋の上部へ登るために田から別の仮橋を経て昇降しなければならなかったという。上の写真でも分かるように現在は瓜生野側が盛土され道路をスロープ状に取り付けている。この盛土は現在の2代目田の小野橋に架け替わる際に別の場所から土を運んできたものだろう。

さて再び親柱に目を向けると…
瓜生野側は歩道橋そのものの長さは車道部と一致するものの橋の手前から転落防止柵で囲まれていた。手前に設置された通行注意の立て札は、橋の部分が狭まり親柱に衝突する危険への注意喚起だろう。


車道側には余裕がないのでできれば歩道から観察したいのだが…柵の内側は雑草が生えまくっていて接近できない。
近くで撮るなら車の切れ目を見てちょっと車道に出る以外ない。


柵の後ろから両腕を伸ばして撮影している。
こちらも石盤は健在なものの上部のタイル部分が軒並み剥がれ落ちていた。


車の切れ目を見て素早く車道から撮影してきた。
平かなで「たのおのはし」と刻まれていた。


親柱の下のタイルが残っていたので構造がハッキリと分かった。コンクリート柱を拵えて側面に平板なブロックや石盤を貼り付けたらしい。上部の剥落は車の衝突ではなく経年変化で剥がれたのかも知れない。それにしても…ここまで見てきた親柱のどれ一つとて完全な原形をとどめていない。古い橋でも相応に補修されて使われるものだ。田の小野橋が普通の橋ならともかく初代のコンクリート橋の架橋へ至る背景を知っているだけに、どうしても「歓迎されなかった橋」というキーワードが頭を過ぎってしまう。

もっとも現在は決してそんなことはない。この橋がなければ市街部から交通の動脈たる国道2号への主要連絡経路が断たれてしまう。しかし現状を見れば、古くからある橋にみられる「補修して大事に使われている」というイメージがまったく湧かない。上下線の橋に取り付けられた欄干は如何にも堅牢性のない細い鉄パイプ3本掛けだ。これは転落防止の仮設欄干が設置されている琴川橋の当初の構造と同等である。それでいて交通量は琴川橋の比ではない。この欄干の低さと強度では大型トラックでなくても冬期に橋上でスリップすれば容易に河床まで転落する。このやりっ放しな構造はどうしたものだろうかと気になった。

ここまで訪れたついでながらの言及だが…瓜生野側の取り付け部下流に細い未舗装の枝道がある。
この道を入った先に山陽本線の厚東川橋りょうを観られる場所がある。


厚東川橋りょうについては特に記述したい話題があるために以前に車で訪れ写真を撮っている。既に記事化されているのでリンクを案内する。
派生記事: 山陽本線|厚東川橋りょう
更についでながらつい最近までこの道と国道に面して営業停止したホテルがかなり長いこと建っていた。
確か2014年の終わり頃に解体撤去され現在は更地になっている。
このホテルに関しては記事化は予定していない…派生的内容については脚注[2]を参照


瓜生野側へ向けて車で走ると、橋を渡った直後は道路と同一レベルだったのが敷地の橋では1mくらいのブロック塀になっているのが分かる。当初は田の小野橋を渡るのに段差があったということだから、現在の道路スロープを含めてホテルの敷地も初代の田の小野橋以降に土砂を運んで地上げしたと推察される。

サッと道路を渡って瓜生野側の下流部を撮影。


こちら側は車が衝突することはまず考えられないので親柱は健在だった。
昭和38年9月となっている。この橋は2代目ということになる。


割と大きな石盤に刻まれているのだが、彫りはやや浅い。凝った感じはないし特に年号のアラビア数字における8の刻み方などは粗雑な印象を受ける。
結局、親柱に関しては竣工年月・河川名・橋名(平かな)の3つが確認された。失われた石盤は「田ノ小野橋」の漢字表記だったのではないだろうか。

さて、橋から山陽本線の厚東川橋りょうが見えるのだが…
ここを歩いて行くのはちょっときつい。路側部分に余裕が殆どないのである。


架橋が昭和38年としたらある程度頷ける要素がある。まさに高度経済成長期まっただ中で、道路は馬車やリヤカーが往来するのではなくエンジンを搭載した四輪の往来向けに特化することが求められ始めた時代だ。モータリゼーション隆盛期にあっては、まず四輪の車が安定的かつスムーズに通行できることが最優先で、酷すぎるカーブや段差、離合も困難な狭隘区間は少しずつ取り除かれた。代わりに四輪重視の道路造りだったが故に学童の登下校や自転車の通行などは等閑にされまったく考慮にされなかった。橋上に引かれた路側帯も車が通るときの目安に過ぎず、この外側を歩行者が通るから注意すべきという意味ではない。現在の分離された歩道橋が架かる以前は、昭和40年代に厚東中学校へ往来する学童はここを自転車で通る以外なかっただろう。

現在は歩道橋があるもののこの橋は自動車専用ではないので橋の右側を歩いて渡ることに問題はない。ただし危険なのは明白だし、特に大型トラックが反対側からやって来たらかなり迷惑だなーとは思った。しかし橋の上から下流側の撮影をしておきたかったので田の小野側から来る車の動向を見極めて進攻した。

少し進んだところで下流側の河原に奇妙な構造物を見つけた。
何か井戸の上部のようなものが見えている。
対岸の状況に関して思い出したことがあったので[3]に追記した


この存在にはまったく気づかなかった。車で橋を通るとき山陽本線の厚東川橋りょうに目をやることはしばしばあったが、この部分は欄干に隠れて見えなかったようである。


橋の上からズームしている。太陽光がちょうど良い角度で当たっているために光量が多く明瞭に撮影できた。
直径は2mくらいか。上部にコンクリの蓋が乗っているような構造をしている。


さてこれは何だろう…川の中に井戸がある?
殆どあり得ない話だ。しかし上部に小さな鋼鉄パイプの跡のようなものが見えていて汲み上げ用の配管のようにも思える。もし井戸とすれば河床から伏流水を採っていたのだろうか…あるいは持世寺が下流側に近いことを考えれば温度のある水が湧いていたとか…まったく見当がつかない。
後でもう少し近くから眺めて来よう。

下流側を撮影。
山陽本線の厚東川橋りょうが内回りする形で厚東川を渡っている。この内回りが恨めしかったのは上述の記事に書いた通りだ。


ここまで来て丹念に写真を撮ったのだからついでに河原まで降りてみようと思った。橋脚や河川の写真を撮っておきたかったし、例の井戸みたいなものの正体を知りたいとも思ったからだ。

そこまでする予定はなかったので自転車は田の小野側に置いていた。河原まで行くのなら更についでに最近改良された瓜生野交差点やゆるきとうの最新の写真も撮り直そうなどと欲が出てきた。それで一旦橋を渡って自転車を取りに戻った。

(「田の小野橋【2】」へ続く)
出典および編集追記:

1.「二俣瀬小学校百年史」p.75〜77

2.「夢」という名のこのホテルは少なくとも私が野山に住んでいた十数年前には営業を停止していた。利用したことはなく個人的関わりはない。
道路から目立つ場所でガラスが割られ壁面にはスプレーで落書きされ廃墟のようになっていた。室内の調達品などは早期にすべて搬出されていた。瓜生野交差点側から見える二階の大きな窓は完全に割られコンパネで塞がれていた。
十年くらい前には不法侵入者による放火もしくは器物損壊にかかる事件があったようで、警察が野山の家まで来て玄関に呼び出され何月何日の何時頃あなたは何処に居ましたかなどと尋問されたことがある。目撃者の証言などから年齢や姿格好などを元に地域在住者を洗い出したようである。聞き取りに来たときのことは日記に書いているかも知れない。当時は廃墟に関する興味は皆無で侵入どころか写真を撮ろうという感覚すらまったくなく単におどろおどろしい対象に過ぎなかった。

3. 2009年の7月に中国地方を襲った豪雨では市内でも至る所に災害が観測された。田の小野橋の左岸側下流も橋に近い土手に植わっていた樹木が岸辺ごと根こそぎ川面へ崩れた状態だったのを見た記憶がある。かなり長いことそのままになっていたと思う。
樹木は取り除かれた後現在は周囲の植生により埋められている

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